ぼやき日記


9月21日(木)

 本日の大阪の最高気温は摂氏32度強。真夏日であります。その炎天下運動場で1時間少し直射日光に当たりながら歩きまわってごらんなさい。ばてるよ、ほんまに。

 御巣鷹山で日航機が遭難してから15年たつ。その被害者の方の奥さんのお腹の中には新しい命が育っていた。子どもの顔を見ることなく死んだ夫は、その子どもを音楽家にしたいという夢を持っていた。妻は事故の1ヶ月後に生まれた娘に5歳よりヴァイオリンを習わせ、娘はとうとうこのたびCDデビューした。
 というような美談つきの美少女ヴァイオリニスト、ダイアナ湯川のデビューアルバムを買う。いや別に美談とは関係なくミーハー・クラシックファンである私はアイドル的にデビューした女性アーティストのCDを演奏も聴かんとみずてんで買うのが好きですねん。事故死したお父さんは日本人やけれどお母さんはイギリス人。ダイアナ湯川はイギリス育ちやけれど、東洋人の遺伝子の方が強いみたい。初回特典に絵はがきがついているところを見ると、レコード会社もアイドルとして売り出すつもりみたいやね。
 いや実際、ギタリストの村治香織やらハーピストの竹松舞みたいに他社では売れっ子のアイドル的な演奏家が売れておりますからな。BMGファンハウスもそういう才色兼備の若いアーティストを探していたんやろう。もしかしたらアメリカのBMG本社からも発売されるかもしれへん。世界全体にクラシックのCDの売り上げが落ちているらしいから、どこのレーベルも将来売れっ子になりそうなアーティストを若いうちからおさえておく傾向が強い。特に東洋人アーティストの割合は比較的高いように思う。
 なんでそんなことを思うたかというと、ダイアナ湯川のジャケット写真を見てたら、写真の撮り方のせいか中国出身に見えるのね。髪は腰の上あたりまで伸ばし、純白の衣装を着用している。だいたいどういうイメージで売り出そうとしているのかわかります。
 CDの曲目にはやはり御巣鷹山の事故で亡くなった坂本九さんのヒット曲「上を向いて歩こう」が入ってたりして、なんか戦略見え見えですな。まあええけど。
 肝心の演奏は、のびのびとした素直な音楽づくりをしていて好感が持てた。まあ15歳という年齢のなせる技というべきかな。願わくば常に美談とともに語られる存在やなく、アーティストとしての評価を高めて息の長い活躍をしてほしい。
 ダイアナ・ファンクラブはつくらへんのかな。あったら入ってしまいそう。結局私はいくつになってもアイドルミーハー指向から抜け切れへんのやなあ。

9月22日(金)

 今日も午前中ずっと運動会の練習で体はへろへろへろ。体力を消耗すると文章もへろへろへろ。昨日の日記を今読み直すとなにが言いたいんか自分でもようわからん。わざわざ電話代を使うて読んで下さっているのに申し訳ないばかり。

 徳間書店社長、徳間康快さんの訃報に接する。死因は冠不全。享年78。
 もちろん面識はない。けれども、本格的に書評家としてスタートしたのが「SFアドベンチャー」やったから、私にとっては直接の関係はなくてもそれなりに感慨はある。
 角川春樹さんと並ぶ出版界の風雲児やなかったか、という気がする。特に、私の印象に残っているのは「ロマンアルバム」や「アニメージュ」の創刊でしょうね。それまで子どものものやった「アニメ」関係の出版物が、かなりマニアックなファンの期待にこたえるものに変わっていったのは、ここらあたりからやないかと思う。それまでにもみのり書房の「OUT」なんかが大人のアニメファンを対象とした特集を組んだりしてたけれど、やはりマニア向けの感は否めなかった。それよりももうちょっと読者対象を広げた月刊誌の企画にゴーサインを出したというのは慧眼やなかったか。「アニメージュ」なくして「風の谷のナウシカ」はなく、「ナウシカ」なくして「スタジオジブリ」はない。それまで「カルピス名作劇場」「未来少年コナン」「ルパン三世 カリオストロの城」などで一部のファンから熱狂的な支持を受けてて、高校時代の私とおがわさとしくんともう一人Yくんとのトリオで密やかに騒いでた宮崎駿さんを一気にメジャーにしたのは徳間社長の功績やろうね。
 ただ、SF界に残した影響は功罪相半ばすると私は思うてる。「日本SF大賞」の創設は功の部分やったけれど、その結果SFという小さなパイを徳間と早川で綱引きする、みたいなことになってしもうたのやないかと、私は考えてしまう。実際はどうやったのか、それは当時一読者に過ぎなかった私にはわからん。そやけど、一ファンとしてそういう印象を受けた上で「SFアドベンチャー」を休刊させてしもうたのは、かなりきつい影響を与えたんと違うかな。「アドベンチャー」がもう少し踏ん張っていたら、「SF冬の時代」などの言説もまた違った方に向いてたかもしれへん。
 なんにせよ、昔は多かった、社長の名前で出版社が語られる人物の、数少ない生き残りやったと思う。出版界に残した氏の影響の大きさをあらためて感じた。
 謹んで哀悼の意を表します。

9月23日(土)

 今朝の新聞で首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の中間報告が発表されてた。
 おもろいことを書いてあるねえ。いやまあ笑わせていただきました。
 「教育の原点は家庭であることを自覚する」とあるけど、さてこの場合の教育はどういう意味で使うてるんか。定義もなしに「教育の原点は」と大上段に構え、何を力みかえってるんとまずそこがおかしい。「教育の原点は家庭である」と書いておいて、次に「学校は道徳を教えることをためらわない」ときましたか。道徳こそ家庭教育ですべきことやないかな。矛盾したことを書いてることに気がついてないところが笑える。
 「奉仕活動を全員が行うようにする」はもうみなさんごぞんじのギャグ。「奉仕」するのは誰に対してか具体的に書かへんところがうさんくさい。「奉仕活動として皇居を掃除すること」てなことを言い出す人も出てくるぞ、きっと。
 「問題行動を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」ということはつまり中学校や小学校でも退学ありとするということですな。私はかつて講師をしてた学校でよう知らん生徒から意味もなくヘッドロックをかけられ髪の毛をつかんで引きずり回されたことがあるけれど、彼にはおとがめなしで私が被害届を出すと言うと管理職が懸命にそれを撤回させようとした。私はいまだに忘れてへんでえ。つまりそういう内々でもみ消すようなことはするなということなんやろうね。そんなことができるかーい。笑わしよんな。
 「教師の意欲や努力が報われ評価される体制を作る」というのもおもろいね。「報われ評価される」とは具体的にどういうことなんやろう。国が地方自治体に教員用のボーナス予算でもつけてくれますのか。
 「一律主義をあらため、個性を伸ばす教育システムを導入する」んやそうですが、高校の「総合学科」の導入やら小中学校の「ゆとりの時間」の導入がそれやと思うてた。今までやってきたことはなんやったんや。これ以上珍奇なことを採り入れて現場を混乱させるのはやめてくれよ。
 いやー、これが全て冗談やったら笑えるけどね。これを法律で決めろと要求してるやないですか。あのね、具体的になにも示さんと思いつきで提案して、実際にやらんならんのは現場の教師ですよ。どう考えてもこれら全てが一気に完全実施されたら、現場はむちゃくちゃになると思うね。学校によっては準備もなにもなしに付け焼き刃でやらんならんところも出てくるやろうし。
 私も学校が今のままでええとは思うてないし、いろいろと変えていかなならんところはあると思う。そやけどこれは現場の教師が実感している問題点とあまりにもかけ離れてると思うね。
 実際に授業を受けている生徒や授業をしている教師の思いは、この「国民会議」には反映されてるか? 教育てなんですか? 学校てなにするところですか?
 実施する手間も考えんと思いついたことをランダムに並べ立てたこの「提案」、ギャグとしか思われへん。こんなことが現実にできるかどうか、委員のみなさん実際にやってみてよ。人にものを教えるときには、実際に手本を示してそれをよう見せて理解させてから自分でやらせてみんと定着させられへんのよ。ここは委員のみなさんが東京なら東京で実際にそういう理想の教育をやって成功させてから全国に自分で出向いて個別に教師に指導するしかないね。
 委員のみなさん、そこまでの覚悟で提案してはりますか、と私は言いたい。

 うーむ、やっぱり書いているうちにむちゃむちゃ腹が立ってきた。マジギレしそうなんで、この話題はこれまで。

9月24日(日)

 ジョージ・セルとクリーブランド管弦楽団が大阪万博の時に来日した時のライヴ盤がとうとうCD化された。なんで今まで発売されてへんかってんや。かの吉田秀和が折に触れて褒め称えた演奏やけれど、その頃小学校低学年やった私にはもちろん生で聴くことなんかでけへん。凄かった凄かったと言われても、ああそうですかとしか言いようがない。
 輸入ものの海賊盤では出てたりするんやけれど、それは買う気にはならん。いくらなんでも音質に問題がありそうやし、どうも後ろめたい。正規盤として発売されたんやから、もちろんそれを買う。
 二枚組のうち、シベリウス「交響曲第2番」とベルリオーズ「ラコッツィ行進曲」の収録された方をまず聴く。
 凄い。こんなシベリウスは聴いたことがない。研ぎ澄まされたような透明感のある音がする。むやみに盛り上げたりしているわけではないけれど、平板でもない。透き通った音の連なりが鋭利な刃物のようにすっと目の前を通り過ぎる。シベリウスの交響曲は私はこれまであまりよくわからぬままに何種類かCDを聴いてきたけれど、これほどぞくりとさせる演奏は初めてや。これまではモントゥー指揮ロンドン交響楽団のものが私のベストやったけれど、これからはこの演奏を一番に挙げたい。吉田秀和がべた褒めするだけのことはある。
 残りの1枚、モーツァルト「交響曲第40番」はまだ聴いてない。こんな演奏、立て続けに聴けるもんやない。間を置いて心を静謐にして、じっくりと味わわせてもらうことにしよう。
 しかし、一度でいいからこういうものすごい演奏を生で聴いてみたいもんや。聴き終わったあと、拍手もでけへんようになるような、そんな凄絶な演奏を。
 それやというのに、このCDの最後、「ラコッツィ行進曲」が終わるか終わらんかというところで「ぶらぼお」という間の抜けた声が入っているのは何事や。歴史的なライブ盤やからその時の観客の熱狂などもそのまま収録しようという意図はわかるけれど、あんな間の抜けた声が入っているんやったら、そんな拍手はカットしてもよいと思う。ああ凄い、もの凄い、という興奮をあっという間に水をぶっかけて冷ましてしまう、あの「ぶらぼお」はいらん! せっかくの名盤もそれでぶちこわしになってしまう。今でも凡庸な演奏に「ぶらぼお」をやるそれを生き甲斐にしてる奴がいてるわけやけれど、ああこの世紀の音楽会にまでそんな輩がいてるなんて! この名盤の唯一にして最大の傷でありますね。

9月25日(月)

 マラソンの高橋尚子選手がシドニーオリンピックで優勝した。最後、競技場に入ったとき、高橋選手はコーチをまず最初に探したという。新聞は師弟の絆の深さを美談として書いている。
 そうかなあ、と思う。どうも私の感触では、高橋選手はコーチにかなり依存しているような気がする。コーチが会社を移ったら、高橋選手もまた同じ会社に転職している。むろん、高橋選手の資質をのばすにはそのコーチでないとあかんかったやろうと思う。そやけど、そのコーチがいなくなったら、高橋選手はどないなるんやろう、とも思う。
 例えば、ボクシングのマイク・タイソン選手。恩師のおかげで世界一に上り詰めた彼は、その恩師を亡くし、ブローカーのようなマネージャーがついてから、一気に転落していった。例えば、プロ野球の田淵幸一選手。プロ入りしたときの藤井コーチを恩師と慕い、彼が球団を去ったあとも自分がスランプに陥ったら必ずそこに相談に行った。女子の陸上選手にはコーチと結婚しているケースをよく見る。
 中学や高校のクラブでは、指導者の優劣でそのクラブの質も変わる。公立学校の場合、クラブ顧問は教師やから、人事異動で転出したりする。するとそれまで強豪と呼ばれていた学校がたちまち表舞台から姿を消し、その顧問が転出していった先の学校が数年後に強豪と呼ばれるようになる。高校野球でいえば、沖縄の豊見城高校から沖縄水産高校に移った裁監督や、京都の北嵯峨高校から鳥羽高校に移った卯滝監督の名が思い浮かぶ。私の母校には合唱部なんかなかったんやけど、他の高校から合唱指導にかけては有数の音楽教師が異動してきて合唱部を作り、たちまちコンクールで上位入賞させたという例もある。
 作家と編集者、漫画家と編集者の関係もそれに似たものがあるのと違うかな。その作家に期待している担当者が作家を育てようとすれば、その作家も育つ。自分のことを引き合いに出すのは心苦しいけれど、私が童話の新人賞をいただいたあと、私の作品を強く推してくれた担当編集者がすぐに他の雑誌に異動になった。彼は若く熱意のある人で、雑誌を変わっても私に声をかけてくれ、私もそれに答えようと新作を書いた。彼はそれに対しいろいろとアドバイスをくれて、二人してなんとか受賞作に負けない作品を生みだした。つもりやった。ところが、結局私のその作品は採用されることなく終わった。もし彼がその童話雑誌に留まっていたら、どうなっていたやろう。そのあと、新しい編集長はSFファンダム出身の人で、親身になってアドバイスしてくれた。その甲斐あって、なんとかデビュー後の第1作が雑誌に掲載された。ところが、その次の作品を私がもたもたして書かへんうちに編集長は代わってしもうた。次の編集長についてはここでは書かへん。現在、童話作家を名乗りながらも新作を書かれへん理由も、ここには書かへん。
 よい指導者に巡り会い、その指導者に依存するくらいやないと、名選手には育たへんのやろうか。高橋選手はもしコーチが代わったら、引退してしまうかもしれへん。そんなふうに感じた。
 近藤唯之さんがよく使うフレーズに、「この師匠のためなら骨がジャリになってもがんばる。またはこのライバルには死んでも負けない。そういう存在が選手を一流にする」というのがある。高橋選手の場合は、前者に違いない。
 師弟関係とは何か。まだ私には考えがまとまらん。

9月26日(火)

 本日は運動会の予行練習が行われた。私の勤務する養護学校の場合、小学部、中学部、高等部と下は6歳から上は18歳までの生徒が一つの運動会で競技するから、裏方さんはなかなか大変。しかしちっこい子どもがちょこちょこと走ったりしているのを見てるのもなかなか楽しい。
 いやしかし、今年の運動会では競技のBGMに決定的なものが欠けていてちょっと寂しかった。それは何かというと、ネッケの「クシコス・ポスト」やら、オッフェンバックの「天国と地獄」序曲のカンカンの部分やら、ルロイ・アンダースンの「トランペット吹きの休日」やら、ヨハン・シュトラウス2世のポルカ「雷鳴と電光」などであります。タイトルだけ羅列してもわからない人もいてはるでしょうが、耳にすれば「ああ、あの曲!」と必ずやうなずいてくれるはず。運動会にはこれらの曲がないとはじまらないという定番の曲であります。
 うちの今年の運動会では、とうとうこれらの曲が一曲たりとも流れへんかった! こんなん運動会と違うわいとだだをこねても仕方ない。曲を決めるのは私やないからね。
 そのかわり何が流れていたか。シドニーオリンピックのハイライト番組で各放送局が使うてるテーマ曲やら「慎吾のおはロック」みたいな最新のヒット曲ばっかり。J−POP一色というてええくらい。他にはダンスにあわせて「花笠音頭」と「アイアイ」がかかってたけれど、これはBGMとは言い難い。
 そういえば、CD屋で「運動会用最新BGM集」てなCDを手にとると宇多田ヒカルやらモーニング娘。やらのヒット曲をマーチに編曲したものを収録したりしてるからね。入場行進は必ずスーザの行進曲「ワシントン・ポスト」、なんていう学校はだんだんなくなっていってるのかも。
 そらあかんで。音楽というものは、その場面に応じてムードを作り出すものでしょう。表彰式には必ずヘンデルの「マカベウスのユダ」からの一曲(「見よ勇者は還る」のタイトルでおなじみ)を使うのが当たり前になってるみたいに。その音楽を聴くと「おお表彰式だ」「おお運動会だ」「おお卒業式だ」「おおお正月だ」「おおクリスマスだ」と思わず気分が高揚する、そんな条件反射を起こさせる曲があるでしょう。やっぱり要るんやよ、そういう曲は。古くさいとかなんとかいうて片付けられるものやないと私は思う。
 たとえばクリスマスになると百貨店やら商店街でルロイ・アンダーソンの「そりすべり」を必ずというてええほど流す。あれはクリスマスとは何の関係もない曲やのに、あの曲を聴くとクリスマス気分になる。たとえコレルリの「クリスマス協奏曲」の方がほんまのクリスマスのための音楽やというても、この国では誰もそれを聴いてクリスマス気分に浸ることはないやろう。
 バッハの「トッカータとフーガ」……というてもたくさんあるけど、ほらあれ、「チラリー、鼻から牛乳」というあの音楽が鳴れば、ショックを受けた気分になる。それはもうそういうもんとして定着している。
 つまりは運動会やのに「天国と地獄」のカンカンを聴かへんかったら、それはもう運動会の気分に酔いしれ興奮することはないのです。他の学校の運動会ではどうなんやろ。もちろん家にあるCDで聴こうと思うたら聴かれる。そやけど、やっぱり運動会の会場に流れているのとは違う。家でスピーカーの前に座って「ああ運動会やなあ」と一人興奮する人はよほどの茶人でおますなあ。
 なければならないところにあるべきものがない。これはやっぱり寂しい。
 学齢期のお子さまをお持ちの方、そちらの運動会ではどんな曲がかかってました?

9月27日(水)

 今週の「週刊朝日」の編集後記を読んでたら、編集長さんが「インターネットで自分の名前を検索してみると面白い」と書いてはったけど、それは私もやります。自分がゲストで出演した「京都SFフェスティバル」や「ダサコン」のレポートが多い。時には全く知らないところの掲示板の過去ログで「喜多さんは知り合いの作家に甘い」なんてなかなか手厳しい発言があったりして「うむむむそうか気をつけねばならんのう」と身が引き締まることもある。
 あと多いのはリンク集。このページはリンクフリーでありますが、たいていの方は「リンクしました」とメールをくれはる。どんな風に紹介してくれてはるのかな、なんて見るのも楽しい。全く知らん方がリンク集に入れてくれたはる場合もある。
 あるリンク集では紹介文のところで私の「読書感想文」を「意地惡」と断じてはって、そうかなあと首をひねっていたら、しばらくしたら紹介文が書き換えてあった。ある作品で種明かしになってはいかんと思うてわざと最初のミスディレクションのままあらすじを書いたのをあげつらって「××と書いているところがどうも……」とある。これはひどい。明らかに好意的とは思われへん。そやけどリンクフリーをうたっている以上「リンク集からはずせ」と抗議するのも大人気ないなあと思うてた。しばらくしたらまたまた書き換えてあって「文章が業界ずれしている」となってる。あの、私これでも一応業界関係者で、純然たるアマチュアの方のようにずけずけと書くと実は私自身が思ってる以上に反響が大きかったりするんで、それなりに考えて書いてるんやけどねえ。「S−Fマガジン」でまるまる7年書評をしてて、実は8年目に突入することも決まってるんやけれど、そういう人間の書く文章をつかまえて「業界ずれしている」はないでしょう、と今度こそ抗議のメールを書きたい気分になった。実際は書いてませんけどね。
 まあ「この人嫌い」となればなにをどう書いてもええようには書かれへんというのはわかる。それやったらなんでわざわざリンク集に入れるかな。ほっといてくれたらええやん。それともわざわざそういうことを書いて挑発してるとか。それは考え過ぎかな。
 挑発に乗ったわけやないけれど、自分の名前を検索するとこういうこともあるというわけで、それはそれで面白いんでちょっと紹介してみた。ただ私は別にこの人とケンカする気はないんで、ここではそのページにはリンクしない。実は次はどんな風に紹介文を書き換えるかちょっと楽しみにもしているところもある。興味のある方は私の名前で検索して探してみて下さい。そんな暇な人はいてませんか。

9月28日(木)

 オリンピックの野球競技についてちょっと疑問に思ったことがある。日本のチームがアジア予選で出場権を勝ち取ったのは確か去年のことやったよね。その時にはスワローズの古田が出場しててライオンズの松坂とバッテリーを組んで話題になった。で、今年オリンピックに出場しているチームには古田は参加してない。スワローズ側が古田を出場させたらペナントレースに影響が出るからと断ったんやそうです。
 予選で代表の座を得たチームと本番に出場するチームのメンバーが違うというのはおかしいんやないのか、が私の疑問。オリンピックに出場する力のあるチームとして認められたメンバーと全く違うメンバーが実際は戦うわけで、それやったら全然違うチームになるんやないのかな。あくまで日本代表のチームは昨年のメンバーであって、昨年の予選には出てないけれど今年の本番に出ている選手は日本代表として出場する資格があるのかな。申し訳ないけれど、古田の代わりに出場しているドラゴンズの鈴木捕手は打撃においても守備においてもとうてい古田の域には達してないと思うんやけど、そういう選手が代表でございと出場してもええもんかどうか。
 昨年予選を勝ち抜いたチームが捕手の古田と投手の杉浦の両ベテランに支えられていたということは野球ファンならご承知のことと思う。ところが古田は所属チームの意向で出場できず、杉浦ももう少しで代表メンバーから外されるところやったと聞く。
 オリンピックというのは参加することに意義があるという点からいけばどんなにチームの編成が変わっていてもそれはそれでええかもしれへん。そやけど、その参加する権利を勝ち取ったメンバーがそのまま出場してへんのやったら、今年参加しているチームにはほんまに参加する資格があるんやろうか。
 野球は団体競技であると同時に個人競技でもある。そういう意味では真の日本代表チームはあくまで昨年アジア予選を勝ち抜いたチームでないとおかしいのと違うやろか。ペナントレースに支障があるというんやったら、昨年の予選から古田を参加させるべきやなかったと思うし、予選に出場することを許したんやったら、当然本番に出場させへんとあかんのやないのか。
 そこらあたりの理屈が、私にはようわからん。
 「モーニング娘。」みたいなもんかな? メンバーは入れ替わっても名前は同じ。
 どういう理屈でそうなってるのか、ごぞんじの方がいてはったらぜひご教示いただきたいんですが……。

9月29日(金)

 今日はついてない一日。
 出勤途中、阪急吹田駅の近くで突如原チャリのエンジンの動きが鈍くなってきて、ついには止まってしもた。なんぼセルをまわしてもエンジンはかからん。はて、プラグがいかれたか、キャブレタがつまったか、マフラーがつまったか。原因はわからんが動かんものは動かん。仕方がないんで歩道に止めておく。職場までもう少しやったけど、遅刻でけへん事情があってやむなくタクシーに乗って出勤。今日は先日休日出勤したのの代休をとれることになってたんで、昼過ぎに取りに来てバイク屋にもっていったらええわいと軽く考えてた。ところが、種々の事情で代休は明日にまわさんならんことになった。しもた、「故障中」と貼り紙をしておいたらよかったわいと思うても後の祭り。今日は午後から帰れると思うてただけに、とことんついてない。
 夕方退出してやはりタクシーで原チャリを止めた場所に急いで駆けつけたけれど、あらへんがな。駅前やったので市役所の「放置自転車回収車」が私の愛車をよそに運んでいってしもうてた。ガードレールに貼ってあった告知を見て、またまたタクシーで保管場所に行く。引き取り料は単車で2500円也。故障車やと明記してちゃんと引き取りに来ることがわかってたらもっていかれへんかったかも。そう悔やんでもなんにもならん。
 保管所は定年退職のあとのシルバー人材とおぼしき年輩の男性たちばかり。保管した自転車を料金と引き替えに返すだけが仕事で、なんぼこちらが苦情を申し立てても料金をタダにする権限はない。規定通り引き取り料を支払って、保管場所の目の前にあったバイク屋で修理してもらう。プラグの交換で修理は終わったけど、この際やから坊主になってるタイヤの交換、寿命がきかけているブレーキの交換などなど2万円からの出費で全部直してもらうことにした。全て交換するまで1時間。近くの喫茶店に飛び込み時間つぶし。
 やっとの事で帰ってきて、某所に祝電を打つためにNTTのサイトにつなぐ。電文を凝ったものにしようとあれこれ考え、必要事項を書き終えたところで送信ボタンを押したら、いきなりパソコンはフリーズ。電文はバックアップを取ってなかったんで一からやり直し。妻のiMacなら私のメモリ不足パソコンと違うてフリーズせんやろうと、そちらから打つことにした。
 あれこれ考えた割にはたいしたことのない電文をなんとか思いだし必要事項を書き込み、やっと送信したら「エラーがあります」という画面になる。どうも送り先の住所の書き方にミスがあったらしい。「戻る」のボタンで書き込んだ画面に戻ったら、記入したはずのものが全て真っ白。再度電文を思い出して今度はミスのないように何度も見直し、やっとのことで送信でけたけど、電報を1本打つだけでえらい時間のロスをしてしもうた。私はなんでこんな目にあわなならんのや。
 なにをしてもうまいこといかん日というのはあるんやねえ。暗剣殺か天中殺か三隣亡かなんか知らんけど、ほんまにしんどかった。こうやって日記に書いて厄払いじゃ。明日は盆と正月がいっぺんに来たようなええ日になったらいいのにな。

9月30日(土)

 作家の北野勇作さんが所属する「虚航船団 パラメトリックオーケストラ」の公演の案内をいただいたので、今日の午後は夫婦そろって観劇。〜ラブ・オペラ・ブッファ〜「ジャンボ」というお芝居で、私は前にも書いたように小劇団の演劇については全く知らへんのやけれど、そんな者でも十分に楽しめる面白いものやった。
 若い頃は小劇団の公演に割と出かけていった妻によると、私は運がええらしい。たまにしか見にいかへんのにできのよい舞台に当たってるんやそうです。なに、昨日あんだけついてへんかったんやから、ちょっとくらい運を取り戻したってよろしい。
 小社のリストラでアフリカ支局にとばされ、わけのわからん仕事をさせられるサラリーマンたちをコミカルに描いたもので、〈オペラ・ブッファ〉を名乗るように間に歌をはさんでうまいこと盛り上げている。どんなひどい目にあわされても会社なしでは生きていかれへんサラリーマンを徹底的に皮肉った構成。露骨な風刺劇になってない。そこがよかった。実はこの秋、生徒のやる劇の作・演出をする予定になってるんで、いろいろと教えられるところが多かった。
 たいていの役者さんは舞台俳優独特のオーバーアクション的な台詞まわしやったけど、北野さんはセリフが大阪弁やったということもあるからか、自然体という感じの演技で「ああ役者さんやねんな」と思う。
 北野さんの舞台は初めて見たんやけど、同い年の人のこういう活躍を見ると、負けてられへんなあと思う。いや別になにも勝負してるわけやないし、競合する部分もあらへんのですけどね。
 しかし私の場合、授業参観にきてくださいと案内を出すわけにもいかへんから、本業については見せるわけにいかへんねえ。やはり書評のお仕事をきっちりとやってくしかありませんか。あ、童話を書くという仕事もあったんや。私自身が忘れててどうする。
 とにかく楽しいひとときを過ごさせてもらいました。北野さん、そして「虚航船団」のみなさん、ほんまにありがとうございました。

 明日はいよいよ運動会の本番。帰りに(中止にならへんかったら)タイガースの今季最後の甲子園での試合を見に行く予定です。よって更新はお休み。次回は月曜の深夜に。


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