ぼやき日記


10月21日(土)

 昨日の夜ききに行った落語会のことを書くつもりやったけど、それどころやないようになった。
 昨日の朝からパソコンの具合がおかしなったんだ。メールを受信しようとメールソフトのエイリアス(Windowsの「ショートカット」)をクリックしたら、アプリケーションが開かず、Macユーザーならおなじみの(そうでもない?)「××は予期せぬ理由で終了しました。他の開いているアプリケーションを終了させて再起動して下さい」という表示が出る。私のパソコンにはポストペットとマイクロソフト製の古いメーラーとクラリス製のこれまた古いメーラーがインストールされてるから、一つメーラーが開かんでも他のメーラーで代用できる。というわけで、他のも開いてみるけれど、ことごとく予期せぬ理由で強制終了しよる。
 こうなったら頼りはノートン先生。ユーティリティソフトでハードディスクを検証。問題を発見して解決してくれた。さすがはノートン先生えらいなあ。
 3つめのアプリケーションが強制終了させられたと思うたら、ポイント(矢印のことですね)が動かなくなってしもうた。これまたMacユーザーならおなじみの(これはまあ多い)フリーズでありますね。
 リセットして強制的に再起動させる。うまいこと起動したと思うたら、今度は立ち上がったところでフリーズ。何回リセットを繰り返したか。そのつどフリーズ。遅刻してはいかんので適当なところであきらめてスイッチを切る。ノートン先生、あかんがな。
 落語会が終わって夕食をとり、家に帰ってきて再度チャレンジ。ことごとくフリーズ。ええい、凍れ凍れ凍結せい。昨日は更新予定がなかったから修復のための手だてを考える。これはもうOSを一からインストールしなおさんといかんのではないかと決意。OSのCD−ROMから起動したら、フリーズせえへんようになった。ただ、昨日は時間がなかったんで、今日の夜、インストールのやり直しを決行!
 フリーズはせんようになった。それはええ。そやけど、相も変わらずメーラーは予期せぬ理由で終了しよる。予期せぬ理由てどんな理由やねん。それでも仮想メモリの割当量を増やしてみたりあれこれしているうちに、なんとかメーラーは開いた。よしよしと2日分のメールを受信。何通か来ているぞ。順調に受信してると思うたら、メールを読む直前に予期せぬ理由で終了した。あーららこらら。受信したメールは消失したのと違うやろうなとすぐに再起動し、メーラーを開いたら、今度は終了せんとなんとか表示された。メールは無事に受信されてた。
 それならば今度は人のホームページを読もうとブラウザを開くと、あららららまた予期せぬ理由で終了。FTPソフトを開くと、またまた予期せぬ理由で終了。他のワープロソフトやらはちゃんと開く。今使うているホームページ作成ソフトも使える。どうやらインターネット関係のそうとばっかりすねてるらしい。なんなんやろうね、これは。今こうやって日記を書いてるけれど、これが無事アップロードできるかどうか、現時点では不明。アホみたいに時間はくうし、イライラはつのるし。さて、この文章、無事にみなさんの目に触れているのでしょうか。それが心配やね。

10月22日(日)

 きのう、アップロードできたのが明け方の4時。再びOSをインストールしなおしたりしてたらめちゃめちゃ時間がかかった。パソコンは今のところなんとか機嫌よう動いてくれたはる。どうも辞書ソフトのATOK12が私の入れてるOSと相性が悪いらしいということに気がついた。しばらくアホ辞書のことえりを我慢して使うことにする。とはいえ、3年間使いつづけてきたこのパソコン自体、限度がきてるのかもね。新しいパソコンの購入を検討したいところやけれど、さて、どうしますか。それはともかくああしんどかった。

 ナイターで日本シリーズを見るというのは、まだ違和感があるなあ。全試合をナイターでするようになってもう5年以上たつわけやけど、この時期に夜に試合をするということ自体、自然の摂理に反しているような気がするぞ。
 日本シリーズというと、試合終盤になって西日が差し、長い影がのびる、そういうものやという感覚がある。中学生の頃、授業中にこっそりイヤホンでラジオ中継を聞いて友だちに「どっち勝ってる?」と尋ねられた阪急と巨人のシリーズ。大学生協のテレビの前で2時間ずっと立ちながら見ていた西武と巨人のシリーズ。妹にコマーシャル抜きで録画してもらって家に帰ってからじっくり見た阪神と西武のシリーズ。デーゲームやからこそ記憶に残ってる。家でゆっくり見られる日本シリーズというのは、悪いことないけど、なんか変やなあ。
 今年は、ホークスがジャイアンツよりも優勢に進めてるんで、時々テレビをつけては見ている。ジャイアンツて、こない弱かったかいな。特に高橋由伸なんか全然あかへんやん。えっ、出てたんというくらい目出たへん。日本シリーズの恐さは、たとえペナントレースをぶっちぎりで優勝しても、ここでぼこぼこにやられたら思いきり弱く見えるところやろうね。うーむ、このままやとジャイアンツはボロカスに弱い感じになるから、そのリーグで最下位になったタイガースがどん底に弱いということになるやないか。あかんがな、それは。ジャイアンツには勝ってほしないけど、あんまりぶざまな負け方はせんといてね、てなとこですか。

10月23日(月)

 今年もまた学習発表会の季節になった。昨年は「西遊記」をアレンジして遊びまくったけれど、今年は「オズの魔法使い」を劇にすることになった。2年連続で台本を書くのは初めて。どうも同じ人間が連続で台本を担当すると、劇の構成や展開が似通ってしまうのが難点。
 昨年の「西遊記」も今年の「オズの魔法使い」も数人のパーティーが旅をするというパターン。場面構成や生徒の出演のさせ方なんかは意識して変えようとしてるんやけれど、書いているうちにどうしてもよう似たものになってしもうていることに気がつく。できたら毎年台本の書き手は変えた方が生徒も保護者も新鮮でええんと違うかなと思うけれど、書き始めたものはしかたない。このまま突っ走るのみ。
 というわけで、せっかくやからちゃんと原作の完訳本を読んで書くことにした。続編のエピソードもうまくアレンジして加えたら面白いのと違うかと考えて、古本屋で見つけたのであわせて読む。うーむ。どうもいじりにくい話やなあ。「西遊記」の場合は、中国の説話や講談ネタが次々とはいって、長年かかって現在残ってる形のものにまとまったという経緯があるけれど、「オズの魔法使い」は作者がちゃんとストーリーを組み立ててあるから、いじりにくい。
 結局、MGM映画のイメージが色濃く残ったような台本になりそう。自分なりにあれこれ潤色して感じたんやけれど、あの映画の脚本は実にうまいことできてるなあ。原作をああまとめてるというのはやっぱりプロの腕ですわ。
 去年の劇ほどバカバカしく楽しいものにはならへんやろうけど、その分演出を考えて私ならではというようなおもろいもんにしたろうと考えてるんやけど、うまくいくかなあ。さあ、しばらくは忙しいぞお。

10月24日(火)

 なんかまた暖かくなってきて、体調がおかしくなるわい。生徒にうつされたか、風邪気味。それでもまたもや「ウルトラマンティガ・チップス」でラッキーカードが当たった。これで2枚目。アルバムがもらえるぞー。

 昨日の日記で書いた「オズの魔法使い」の台本をなんとか仕上げる。やれやれであります。で、家に帰って本でも読もうかと思ったら、これが読まれへん。学校の仕事とはいえ、使う頭はもの書きモード。本業でそちらのパワーを使い切ってしもうたんで、家ではガス欠状態になってるんかな。そうやとしたら、切り替えのきかんやわな頭じゃわい。

 ふだんは作家の方や出版社から本をいただいても、わざわざここには書かへんことにしてる。掲示板でおそらく作家であるらしい「ひゃく」さんとおっしゃる方から「書評家に献本しても迷惑にならないか」という質問があったけれど、世間では書評家が献本されたらその評に響くと考える方も当然いてはるわけで、その影響を考えると、まあ書かん方がええやろうなと私は判断して、書かんといてる。
 しかし、今日はその禁を破ることにした。数日前に田中啓文さんからいただいた「異形家の食卓」を手にして、感慨深いものがあったからであります。
 私がまだ「S−Fマガジン」で書評を始めて間もない頃、「十兵衛錆刃剣」という全3冊のシリーズに出会うた。著者は田中啓文とクレジットされていたけれど、どういう方かはもちろん分からない。ただえらいおもしろかったんですぐに「S−Fマガジン」の書評で取り上げた。むろん、反響はなかった。私みたいな三文書評家が「面白い」と書いたところで、そうそう部数が動くものやない。そやけど「この人は書ける」と直感したので、ハヤカワ文庫の編集者や「S−Fマガジン」の編集長に「この人に原稿依頼しましょう」と話をしたこともある。それだけが理由やなかったと思う(たぶん三村美衣さんも推薦してたに違いない)けど、「S−Fマガジン」誌上でその名を見かけるようになり、なんか嬉しくなった。
 それでも、ヤングアダルトでデビューした人が一般向けの小説で認められるのは今以上に難しい時期やったから、私が注目していても世間にはなかなか認知してもらえてない。私がネットを始めるようになり、お近づきとなった頃などは、せっかく出版された作品なのに結局その続編の出版がとりやめとなり、尻切れとんぼのまま終わるという憂き目にも会うてはる。
 それでも、ホラー作家として長篇を出した頃から注目され、「異形コレクション」のシリーズでは掲載されるたびに反響を呼んだりし始めた。その短編をまとめたのが今回送っていただいた「異形家の食卓」。念願のハードカバーで、しかも帯の推薦者はあの筒井康隆さん。
 ここまで来たのか、と思う。長い道のりやけれど、報われたなあと思う。よかったなあ、田中さん、と思う。おそらく本書はこれから一般の雑誌や新聞でも紹介されることになるやろう。いずれ、私のようなものとは完全に格が違う存在となるに違いない。そうなると、よけいに嬉しい。
 書評家として、予備知識なしにまだそれほど名前が売れていない頃の作品に出会い、それを推薦してきた、その作家が多くの人たちに認められていく。これほど書評家として喜ばしいことはあらへんのです。私は今後も十年一日のごとく細々と書評を続けていくやろう。そして、その前を数多くの作家さんたちが通り過ぎていくことやろう。それが書評家の役割でもある。その中でのささやかな喜びやった。
 実は、某文庫編集部の担当さんに「スーパーファンタジー文庫」で絶版になった作品を復刊してくれないかと話をしたことがある。そやけど、ホラー作家として注目されている時期にそのような旧作を出すのは田中さんにとってもいい気分にはならないだろうと却下されてしもうた。もったいないことや。ホラーを書こうが、SFを書こうが、ファンタジーを書こうが、田中さんの世界はゆるぎもしないと、私は思っている。いや、新しい読者の開拓にもなるやろうとさえ思う。
 というような理由で、今回はいただいた本を手にして思ったことを書き連ねてみた。

10月25日(水)

 眼鏡のつるが折れた。これで2回目。またまた度付きサングラスで過ごさんならん。修理が終わるまで、その場しのぎでメガネスーパーあたりで安い眼鏡を予備に作っといた方がええかもしれへんな。修理代よりそっちの方が安うついたりして。どうもサングラスにひげのおっさんというのはうさんくさくていかん。

 眼鏡にひげというと、今年転勤してきはった先生にやっぱり眼鏡をかけて鼻下にひげをたくわえてる人がいる。生徒の中には「喜多先生の兄弟?」と真剣にきいてくる子もいた。おいおい、共通しているのは眼鏡とひげだけやんか。苗字が違うでしょ。ただし、その人の名前は哲也で私は哲士やから、腹違いの兄弟とでも思うたのかもしれへん。
 で、最近私が買うたカーキ色のGジャンを着ていったら、その先生が「喜多さん、それ、『ユニクロ』で買うたんと違う?」ときいてきた。そのとおりやったから「先生の近くの店にもありましたか」とききかえすと、「俺も買うた」。いやはや、眼鏡にひげに名前に同じ漢字がはいってるのに加えて、同じGジャンを着てるとなると、またぞろ兄弟疑惑が浮上してくるかも。「着てきにくいなあ」と言うてはって、確かに着てきたはる様子はなかったけど、先日とうとう着てきてはるのを目撃してしもうた。『ユニクロ』の場合、同じ服を着た人を見かける確率はかなり高いけれど、同じ職場でお揃いを着てるとなると、その先生やないけどちょっと気がひけるものはあるよね。
 まあ、私も気に入って買うた服やから、別に遠慮せんと着てますが。しかし『ユニクロ』おそるべし。 下着以外全部『ユニクロ』という日もある私なんか、同じいでたちの人を街で見かける可能性もあるんやな。そういう服やとわかっていても、もしそっくりそのまま同じ格好の人に会うのはなんか嫌やなあ。それでも私は『ユニクロ』に身をかためて街に出るのでありました。

10月26日(木)

 今日の日本シリーズ第4戦をテレビで見ていたら、審判の判定のひどさにあきれかえる。ホークス松中のセカンドゴロ、確かにジャイアンツ仁志はよく追いついたと思うし、よく投げたと思う。そやけど、完全に一塁にヘッドスライディングした松中の手は仁志の送球よりも早くベースについていたぞ。一塁塁審の位置取りが悪かったわけやない。ちゃんとベースの見えるところで判定をしてた。にもかかわらずアウトとはなにごとか。それだけですんだらまだよかった。ホークス秋山の盗塁は、ジャイアンツのキャッチャー村田真一が大きくピッチドアウトして捕球しているのにもかかわらず大きくそれて追いタッチになり明らかにセーフ。ところが、二塁塁審はアウトと判定。秋山が怒るのは当たり前。タイミングもセーフ、タッチも遅い、あれがアウトやったら野手がタッチをせん限りは全てアウトになるぞ。
 日本シリーズの審判には限られたものしか選ばれへんという。両リーグの最高の審判が集まっているはずや。それであの判定か。「ジャッジは変えられませんからねえ」なんてとくとくと言うてる場合やないぞ、解説の堀内! 「あれは完全にセーフですよ」と言われへんか。それともジャイアンツに不利な解説をしたら日本テレビから契約を解除されるんか。
 秋山の場合、次の打者の井口が三塁打を打ってるだけに、正しく判定されていたらホークスは同点に追いついてたはず。今日の試合はジャイアンツが1点差でからくも逃げ切るという展開になっただけに、あそこで同点に追いついてたら試合はどう転んでいたかわからへん。いや、これで両チームとも2勝2敗の五分になったわけやから、ひょっとジャイアンツが優勝でもしたらこの二つの判定はシリーズの行方を決定づけた大誤審ということになる。あれは審判はビデオで確認せんとあかんぞ。オリンピックの篠原選手が負けた試合では主審が決定的な誤審をしたことで話題になったけれど、最高の舞台なんやから最高のジャッジをすべきでしょう。
 大舞台でこの程度の審判しか出場しないとなると、全体のレベル低下も推して知るべし、ですな。昔からジャイアンツには審判が有利な判定を下すことで知られているけれど、ここまではっきりとやられたんではあいた口がふさがらん。
 やはり、野球にも物言いやビデオ確認は必要ですよ。審判の技量がここまで落ちているんやから、それを補う方法をコミッショナーは真剣に考えんといかんのと違うかな。

10月27日(金)

 あなたどこからおいでなすった。「アスキーJ」を見て。たった2行程度の紹介だけでこのページに関心を持たはったとは、なかなかの茶人ですな。まあ、ご覧の通りのページですから、こんなもんでございましょう。読んでくれはったからというてお茶の一杯もよう出しませんけど。ネットにつないでページを開いたらいきなりモニターから湯呑みがにゅーと突き出されてきたら驚くやろな。あ、でもモニターが3Dホログラム化されたりしたら、そういうことも可能になるやろうね。芸能プロダクションの公式ホームページなんかやったりしたら、所属タレントがモニターから飛びだしてきてあいさつしたりしそうやな。18才未満お断り系のサイトやとすっぽんぽんのお姉さんが出てきたりするわけやね。それでも股間にはきっちりモザイクがかかってたりして、なんとか見てやろうと横からのぞく奴もいてるやろう。やったことありませんか。テレビに熱中しててつい平面画像やということを忘れてテレビの裏にまわって見ようとした、てなこと。3Dホログラムでも見られへんものは見られまへんで。しかそうなると受ける側も送る側もかなりのメモリを使用せんといかんな。電話線でネットにつないでたら、読み込むまでめちゃめちゃ時間がかかるぞ。そんな頃にはケーブルは全て光ファイバーになってるやろか。都市部はそうなってても地方は昔ながらの回線やったりするということもあるやろうね。せっかく凝ったページを作っても「読み込みに時間がかかるからもう見にくるかい!」と激怒する人もいてるかもね。私は画像がやたら多くて重いページは途中で読み込みを停止してテキストだけ読んだりすることがあるけれど、同じことやな。うーむ、そうなるとせっかくページを開いたらお茶が出るというような工夫をしても逆効果になりそうやね。凝り過ぎて失敗してるページはありますな。美麗な背景で飾ってるのはええけど、それでテキストが読まれへんようになってるページとか。
 なんかすっかり話がそれてしもうた。今日は私は何を書こうと思うてたんでしょ。まあええわ。毎日こんな感じです。それでも明日もまた来てくれはりますか。いやそらもう嬉しい。あなた、やっぱり茶人ですなあ。

10月28日(土)

 ジャイアンツの選手は優勝しても心から嬉しいことないんやろか。確かににこにこしたり万歳したりしてるけど、それはその時のことだけで、なんか肩の荷をおろしてほっとしているような、あるいは義務を果たしてやれやれというような、そんな印象を受けたんやけどなあ。タイガースが優勝した時のあの無邪気な喜び方を記憶してるだけに、なんかあっさりしていて気になる。やっぱり心の底から優勝を望んでいるような、そんなチームに優勝してほしい。いや、ジャイアンツの選手全員が醒めてるとは思いませんけどね。
 ところで、実況アナウンサーもインタビューのアナウンサーもしきりに「ニッポン・シリーズ」と今回の選手権試合のことを呼んでたけど、いつの間にそういう読み方に変わったんかしらん。私の子どもの頃から「日本シリーズ」は「ニホン・シリーズ」やと思うてたんやけどなあ。だいたい「ニッポン・シリーズ」では語感が美しくない。ここは「ニホン・シリーズ」でしょう。
 バレーボールの試合で応援団が「ニッポン・チャチャチャ」とやるのはかまわん。あれはその方がリズミカルでええ。
 「日本」という感じの読み方には「ニッポン」と「ニホン」の二通りあって、一応正式な名称としては「ニッポン」をとるけれど、どちらを使うてもかまわんというように私は教わった。紙幣にや切手にはローマ字で「NIPPON」と明記してある。そやけど、お江戸の「日本橋」は「ニホンバシ」、浪速の「日本橋」は「ニッポンバシ」という風に、慣例的な使い分けがある。なんでも平安時代は「ニフォム」と発音してたというけど、ほんまやろか。それやったら「ニホン」の表記の方が正しいことになるかな。ま、どちらにしても歴史が古い国やから、時代によって呼び方も変わったやろうし、その名残りで二通りの読み方があってもそれはそれでええわな。
 「日本シリーズ」は昔から「ニホン・シリーズ」で、それをわざわざ「ニッポン・シリーズ」てな言い方にせんでもええんとちゃうのん。それともジャイアンツ御用達放送局の親会社である新聞社は政府と密接な関係にあるから、「日本」は「ニッポン」と読むぺしと誰ぞが強制してるのかしらん。まさかね。

10月29日(日)

 生徒から風邪をもらったらしく、一日だるい。お誘いもあったんやけれど、全てお断りし寝る。休めるうちに休んどかんと、11月に入ったらたいてい土日はつまってて平日は学習発表会が終わるまではどんなに熱があっても休んでられへん日々が続く。それにしても人の鼻先で咳をするか。あれやであれ。あれでうつされたに違いない。

 外国人ホステスを誘って薬をのませてスケベなことをしてそれをビデオにとって……読み捨てのポルノ小説みたいなことを現実にやってるおっさんがおるかと思うと、愛人を自分のベッドに座らせて写真をとったり覚醒剤の捜査の情報を教えたり右翼の集会に顔を出したり……ドラマでも陳腐すぎて書かれへんようなことを現実にやってる政治家もいてるんですなあ。そんなことを書いている小説を読んだら、私やったら書評の対象外にしてますわ。事実は小説より奇なり、とはいうけど、事実は小説より陳腐なり、という警句も作らなならん。
 それにしても、前官房長官さん、運転手が勝手に自分の愛人をベッドに座らせて写真を撮ったりしたら、その運転手と愛人ができてると思わへんか。公式見解としてそのように発表したということは、運転手と愛人の関係を認めたことになるよ。何の関係もないとしたら、なんで運転手がわざわざ自分の雇い主の愛人の写真を撮る必要があるのか。すぐばれるような嘘はおやめ。正直に「私がやりました」とおっしゃい。
 この人物を任命した失言宰相は、道徳教育や奉仕活動や宗教教育の必要性をとくとくと説いてはるけれど、こういう不道徳な人物を側近にしておいて子どもに道徳を説くことができるのかね。森総理が考える道徳の教科書には「自分に都合の悪いことが起こったら、追究されてもしらを切り、その次は恫喝し、ばれたらとりあえずその場しのぎに役職のみ辞任してほとぼりがさめるまで待ちましょう」てなことを書くべし、ですな。
 ほんま、事実は小説より陳腐でございますね。

10月30日(月)

 最近読んだ小説で、たてつづけに「自閉症」という言葉がでてきて、若干気になったんで、そのことについて書く。
 まずは渡邊裕太郎著「紅伝説」(朝日ソノラマ文庫)で、主人公を姉と慕う少女について以下のような記述がある。引用してみよう。
「私の親戚にあたる娘で、妹分でもある。表情が暗いのは軽い自閉症の気味があるためだけど、父親に蒸発されたんだから、これは仕方がなかった。」
 ここで作者が表現したかったのは、父親に蒸発されたショックで軽い神経症になったということなんやろうと思う。精神科については私は門外漢やけれど、「自閉症」に関しては養護学校で障害児と接している身やから、多少は知識がある。もともとは自閉症は疾病として精神科の領分やったみたいやけれど、現在一般に使用される場合は障害の一つとして扱われている。特徴としては、自身の脳内言語や規範が社会のそれよりも優先されるために、独自のこだわりを持ち、周囲の変化に対して順応しにくいという傾向がある。そのために自分の規範から外れることが周辺で起こるとパニックを起こし、自傷行為や他傷行為という形でジレンマを表現する。てなところか。周辺とは隔絶されているわけでもなくて、人と接することを拒絶するタイプの自閉もあれば、ものすごく人なつこいタイプの自閉もある。なんでそうなっているかということの脳内メカニズムは、まだはっきりとした理由は解明されてないのが現状。
 つまり、父親が蒸発したことで「自閉症」になることはまずないと考えてよい。精神障害やないのです、自閉は。
 ここで作者を責めることはでけへんとは思う。障害者に接する機会が少ない人にとっては、「自閉症」がなんたるかを正確に知る機会もまた少ないと思うからね。それに、この小説では自閉がストーリーの根幹に関わるというわけやない。まあ仕方ないかなあと思うだけ。できたら講談社現代新書から出ている「自閉症」という本を読んでもらえたらこれからはもう少し気をつけて書いてくれはるやろうと思う。
 続いては「S−Fマガジン」12月号の「リーダーズ・ストーリー」入選作の「配剤」というショートショートで、作者は三枝蝋という人。種明かしをしてはいかんので、詳しくは読んでいただくしかないけれど、こちらはアイデアの根幹に自閉が関わる。ここで書かれている「自閉症」はどうやら私が先述した「自閉症」を指しているものと思われる。実はそこに問題があるんやねえ。もし作者の身近に自閉的傾向のある人がいてて、その人とコンタクトするのに苦労した経験からきたものやったら、余りにも不用意に「自閉」を扱うてるように思うたし、もし知識として「自閉」を知っていて扱うたんやったら、実際に自閉症児が家族にいてる人の神経を逆撫でしかねん書き方になってる。どっちなんやろう。小説だけでは判断しかねるけど、どちらにしても「自閉」に対する誤解を招きかねんアイデアやと感じた。
 障害者に対する認識はまだまだ世間一般では不十分やと私は職業柄感じてるんやけれど、それだけに、障害を扱うたアイデアやテーマの本には敏感になる。障害者自身が書いた本もあるし、近親者が書いた本もある。研究者の手になるものはかなり多い。それでも、1冊2冊読んだだけでは一面的な理解しかでけへんくらい、障害というものは多種多様なんですわ。私にしたって、身体障害者については全くわからんしね。
 しかし立て続けに「自閉」という言葉が出てくる小説を読むとはなあ。それほど「自閉」て一般になじんだ言葉なんかなあ。

10月31日(火)

 深夜1時頃、地震で起こされる。東海地方では震度5やったらしいけれど、その時点ではもちろんわからん。それほど激しい揺れやないけれど、体にはっきりと感じる振動が、かなり長い間続いた。地震で起こされると、あの日を思い出す。特にこのごろあちこちでかなり大きな地震が続いて起こっている。何かの前触れやないかとつい嫌な方向に気が向いてしまう。

 書店で祥伝社文庫が1冊400円均一で一斉に書き下ろしの文庫を出しているのを見つけ、伝奇ホラーとSFの文庫を何冊か買う。まだまだ読んでない新刊がどかどかとあるのにまたまた出されるとますますおっつかん。ま、それはええとして、ページを開くとえらいスカスカな感じがする。なんでも中編を1冊の文庫にしたと挟み込みのチラシに書いてある。
 まさにこれこそコンビニ向けの企画ですな。500円玉1枚で100円のおつりがくる程度の値段やから気軽に買いやすい。分量か少ないし活字もぎっしりつまってへんから気軽に読みやすい。ホラーからミステリ、時代小説にSFとエンターテイメント系のジャンルを網羅しているからどんな小説のファンでも手にとりやすい。書き手は実力派を並べているからハズレがなく迷わず買いやすい。背表紙を紺で統一しているので目立ちやすい。
 本好きの読者はわざわざ書店に足を運び、あるいはインターネットで情報を集めてweb書店で注文をする。そやけど、特に本好きというわけでない購買層の場合、コンビニに寄ったついでになにかちょっと読もうかなというような感じやろう。そういう購買層を狙ってるのがはっきりわかる。昔はどうか知らんけど、今は本を読むのが好きな購買層と本なんかめったに読まへん購買層(といえるのかどうか)に二極化しているように感じる。そやから月に1冊読む程度の人でも世間的には「本をよく読む人」ということになる。私の場合、だいたい3日に2冊くらいのペースで読んでるわけやけれど、これでもまだまだ同業者に比べたら読書量が足りんと思う。こういうのは例外としても、一般的には本を読む人が減ってるのやないかという気がする。気がするだけで実体は知らへんよ。そやけど書店のレジで並んでる人が手に持ってるのはたいていは雑誌やからね。それも平綴じで写真と広告がやたら多そうな情報誌が主やないかな。「ダ・ヴィンチ」はまさにそういう時代やからこそ出るべくして出た雑誌やと思う。
 今回の祥伝社400円文庫は、本好きの人間には評判は悪いのと違うかと思うけれど、コンビニ時代やからこそ、出るべくして出た文庫やないかな。ま、私は書き手が充実してるからよしとしよう。とはいえ、普通の本とくらべるとなんかボられてるような気もせんでもないなあ。


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