ぼやき日記


1月11日(木)

 今年に入ってから冷え込みが厳しくなってきましたねえ。特に原チャリ通勤の身にはこたえる。ここのところ仕事が終わってもまっすぐ家に帰れず、所用で遅くなることが多いんで、夜に走ることも多い。朝も夜も体を冷やしながら走るんやから、体力の消耗が激しい。土曜は休みやけれど、ほっとして倒れへんようにせんといかんな。

 失言宰相が震災追悼式を欠席して南アフリカに行き、酔った勢いで「支那事変」「大東亜戦争」発言をしておるが、追悼式関係者は「どっちが大事やねん」と怒っているそうな。あの失言宰相がどんな非常識な行動をとっても、怒るだけ損やと思うね。
 たぶんあの人は全然問題の深さを考えたりはしてないんやと思う。例えば「支那事変」というのは中国に対して「戦争」をしかければアメリカからの資材輸入がストップしてしまうから、「これは戦争やないですよ」と「事変」なる文言でごまかしたという歴史的事実があるわけやね。今その言葉を首相が使うということは、やはり日本政府は「日中戦争」が「戦争」ではなかったという認識でいると示してることになってしまう。戦後50年以上かけて変えてきた外交方針と歴史認識をその一言で無に帰してしまう、てなことをあの失言差宰相が理解しているとはとうてい思われへん。
 そんな人物に怒ったって仕方ないし、ギャグのネタにすらもうならん。逆にそんな人物に大事な追悼式に来てもらわなんだことを感謝せんならんのと違うかな。来てくれたはええけれど、その式典でわけのわからんことを言われたら、式がだいなしになる。ここは「よくぞ南アフリカに行っててくれたと喜ぶべきやないかね。

1月12日(金)

 成人式で市長に向かってクラッカーを鳴らし、そのあとガラを投げつけた男性5人が逮捕された。なんでもまず3人が出頭したところを逮捕したらしいけど、逮捕というのは被疑者が逃亡などの恐れがある時にするもんやないのかな。威力業務妨害の罪の重さがどれくらいのものかは知らんけど、新聞などで報道されて大事になってびっくりしているくらいの小心者やから、なにも逮捕せんでも書類送検で十分と違うかな。
 なにも非常識なことをした人間の肩を持つわけやないけど、市長側が過剰に権力を行使しているような感じがして、あんまりいい気分がしない。相手は成人しているとはいえ、中身はガキなんやから、大きく報道されたことだけでお灸はすえられたのと違うかな。書類送検に罰金刑だけでも自分らのしでかしたことの意味はわかったと思うぞ。
 そういう意味では市長も大人気ないし、そんな成人式になっても仕方ないように思うね。
 今年、「障害者とボランティアのための成人のつどい」という催しに少し関わって、こういう成人式もありかなあと思うようになった。この場合は、自治体主催の成人式に参加しても決して楽しまれへん人たちがいて、そういう人たちに応じた成人式をしようという主旨なわけで、主催者側の意図と参加者側の気持ちがある程度一致している。
 クラッカーを鳴らして馬鹿騒ぎしたい者たちにはクラブかなんかが金を取って馬鹿騒ぎ成人祭をしてわあわあ騒いだらええこっちゃ。厳粛な式に出席して成人になったという気持ちを新たにしたい者は自治体が主催して金を取って参加させたらよろし。
 そうそう、全部有料にしたらええんよ。税金を使うてやらんでもええと思うぞ。
 だいたい、民法では未成年でも保護者の承認があれば結婚できるんやし、成人してへんでも子どものいる人もいてるやろう。そういう人は大人か子どもかどっちやねん。ちゃんと法律で認められて結婚できてるし親にもなってるわけやから、もう子どもとはいわれへんと思うけど、成人はしてないからこれは子どもか?
 私は成人式には参加してへん。自分にとってはあまり意味のない行事やと思うたからね。そやから今でも中身は子どもみたいなもんなんかな。参加したい者は参加して、したくない者はしない、いろいろな形態の成人式を選択できるようにして好きなものに参加する。それでええんと違うかな。
 それはともかく、逮捕するんやったらその場で現行犯逮捕したらよかったんですよ。あとから出頭してきたのを逮捕するのはやり過ぎやと思う。どっちもどっち。両方とも子ども。

1月13日(土)

 昨日の朝日新聞大阪版夕刊の一面トップに、震災を機に落語家になった林家竹丸さんと林家染左さんが続けている地域寄席の記事が載ってたけれど、この見出しが「笑かす道 岐路は震災」。これはわざと関西弁をまぜたんやろうなあ。いわゆる標準語やったら「笑わす」になるはずやからね。
 実は、長い間「笑かす」を関西弁やとは気がついてなかった。中学校の国語で「文法」なるものを習いますな。その時に、「笑かす」の活用はどないなってるんかと気になり出して、これが方言やということに思い至った次第。だいたいは人を笑わせる時に「笑かす」を使うように思う。自分が笑わされた時は「こいつ、笑わしよんなあ」というように使うね、私は。
 そやけど、この場合は「笑かす」とした方がニュアンスが伝わりやすい。おそらくこの見出しをつけた整理部の記者は関西人やろう。よその地方から異動してきた人ではちょっとこういう使い方はでけへんように思う。
 その他、なんとなく標準語と思い込んでた関西弁に「臭ぐ」というのがある。「かぐ」と読んだらあかんよ。「におぐ」と読んでね。これは「匂いを嗅ぐ」という時に使う。1980年代半ばのマンザイブームで紳助竜介がしきりに使うてたのを聞いて、これは関西弁やったんやと天からの啓示のように気がついた。
 まだある。「こける」がそう。これは「転ぶ」の意味やね。黒川博行さんのエッセイで「担当の編集者から指摘されるまで気がつかなかった」と書いてあるのを読むまで気がつかなんだ。そうなるとむやみに気になる。関西在住の作家さんで「こける」と書いているケースがままある。この場合、担当の編集者さんも関西出身やったりして気がついてないんかもしれへんね。
 こういう言葉はまだあるやろうな。実はこの日記は、そういう言葉を不用意に使うてもかまへんように関西弁の口調で書いてるんです。というのは嘘ですけど。

1月14日(日)

 ひたすら寒い。北陸地方ではかなり雪が降ったそうで、お見舞い申し上げます。私は寒がりなんで、冷えるのはかなわんよ。

 今日はテレビ「知ってるつもり?」でミヤコ蝶々さんをとりあげているんやけれど、あえて見ませんでした。以前、横山エンタツ・花菱アチャコをとりあげた時、事実をかなり拡大してねじ曲げ、まるで晩年のエンタツが一切仕事がなかったかのような印象を与え、あざとく涙を誘う作りにしてたのを見てから、あの番組には一切期待しないことにした。
 ミヤコ蝶々さんの関西での追悼番組はできる範囲で録画したし、それで十分です。
 ところで、自らの意志で「知ってるつもり?」は見てへんかったんやけど、見てないなら見てないでどんな番組に仕上がってたのか気になってしまう。どうせ「浪花女のど根性」という切り口やろうということは新聞の番組案内でわかってるけど、芸人としてどれだけ凄かったかを描いてくれてたんやろうか。こんなに気になるんやったら録画だけでもしといたらよかったかな。そやけど、それを見てまた腹を立てることを考えたらやっぱり録画しとかへんでよかったと思うたりもするし。ここらへんの感情は複雑なものがあるね。
 あの、実際はどないでしたんやろか。どなたかご覧になった方、教えて下さい。もし万が一にでもできがよかったんやったら、後悔するかなあ。ここらあたりの微妙な心境をわかってもらえたら嬉しいんやけどねえ。

1月15日(月)

 寒い冷たい寒い冷たい寒い冷たい。大阪の日中の最高気温は3.8°Cやて。朝夕の原チャリ通勤がきつい。朝、福井ナンバーのトラックの後ろについてしもた。そのトラックが雪を積んでた。いや、雪を運搬してたんやないですよ。積み荷に雪が積もってたんですな。これが震動とともに私の目の前に降りかかってくる。ああ冷たい。明日はもっと冷えるって? やめてくれえ。

 煙草を買おうと自動販売機の前に原チャリを停める。財布を探ると、新500円玉しかない。最近は旧500円玉と新500円玉の両方に対応している自動販売機があるけれど、まだまだ多くはない。煙草の自動販売機の場合、新500円玉に対応してなかったら、硬貨投入口のところにそのように表記してある。で、よくよく確認してみると「新500円玉のみ対応しています。旧500円玉は使用できません」と書いてある。
 とうとう出てきたね。もともと500円玉が新しくなったのは、旧500円玉が500ウォン硬貨を変造したものと機械が誤認しやすいからやから、いつまでも旧500円玉に対応できる販売機が残っている方が不都合やったはず。500円玉は使用でけへん販売機もかなりあったしね。そやから新500円玉のみ対応という販売機にいれかわっていくのは当然というたら当然やね。
 これまでは新500円玉をおつりでもろたりしたら「販売機で使われへんやん」と舌打ちしたもんやけど、これからは違うということか。「あ、古い方や、あかんがな」ということになるんやろうね。それだけ新500円玉が流通してきたということになるのかな。
 1982年、私が大学に入学した年に、500円玉が登場した。サークルの先輩が「えっへっへ。500円玉やぞー」と見せびらかしてたのを今でも思い出す。それが20年ともたずに次世代の500円玉に交代していくのを見ることになったとは。1万円札が聖徳太子でなくなっていった時よりも感慨深いものがあるねえ。
 そこで、ジュースの自動販売機にはどのように表記してあるのか帰りに本屋に寄ったついでに見てみたら、どの販売機にも特に新旧500円玉に関する注意書きはあらへんかった。ということは、どないなるんや。ふだん缶ジュースは買わへんから気にしたこともなかった。もうとっくに新500円玉用に切り替わってるんかな。500円玉を示すマークは書かれてるから、どちらかは使えるんやろうけれど。それを確認するためにわざわざ缶ジュースを買うのもアホらしいしなあ。まだ新旧どちらも混在して流通してるんやから、ちゃんと書いとけよ、と思うた次第。

1月16日(火)

 毎日「寒い寒い」とばかり書いていても芸がないけど、寒いもんは寒い。今日は午後から休みをとって、所用で梅田へ行ったんやけど、原チャリで江坂から新御堂筋を南下してて、淀川をこえる橋の横風ときたら……。またちょうど橋の上を走ってるところから電光掲示板で気温が表示されてるのが見えるんだ。3°Cですわ。それ見ただけで神経なるものが「寒い」と知覚するわけで、あんなもんいらんわい。

 職場の同僚にウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」を録画してた人がいてはって、借りて見る。やっとアーノンクールのニューイヤーを聴くことができたぞ。案に相違せずユニークな演奏。梅田のCDショップで輸入盤のCDが出てたんで買おうかどうか迷うたけれど、やめにした。まずビデオで見てから、と思うたんやけれど、CDでもほしくなった。初めて聴くような曲も多いんで、日本語解説つきの国内盤を買おう。割高やけれど、輸入盤やったら曲の題名も読まれへん。ドイツ語は全然あかんし英語は怪しいし。
 そやけど、クラシックの輸入盤の市場として日本はけっこうシェアがあるらしいのに、各レコード会社はなんで英語とフランス語とドイツ語と他にはせいぜいイタリア語の解説しかつけへんのやろう。中には日本のCDショップがレコード会社に働きかけて復刻されたCDなんかもあるらしいんやけど、そんなCDでも日本語の解説はついてへん。
 これはやっぱり日本のレコード会社との契約かなんかあるんかな。輸入盤の価格はオープンで、新譜でも2000円かからんというのに、国内盤では同じものが3000円くらいで出されている。外資系の大手CDショップがどんどん低価格のCDを販売するから、国内盤の新譜はあまり売れてへんということはあるやろう。1枚あたりのコストがよけいにかかり、値下げはでけへん。その上に輸入盤に日本語に翻訳した解説がついてたら、ますます売れへんようになるやろう。ということなんかな。
 まあ素人にはわからん理由があるんでしょ。そうでなかったら、日本語の解説つきの輸入盤があってもおかしくないと思うんやけど。

1月17日(水)

 またこの日がめぐってきた。毎年この日になると、あの揺れを思い出す。特にここ数日細かな地震が続いているので、よけいに敏感になる。
 先日、出勤直前に震度3の地震があった時は、しばらく凍り付いたように動かれへんかった。その揺れで積んでいたビデオテープがどさどさと落ちたからということもあるやろう。その音を聞くと、床に散らばった本の山を思い出す。あの時は、最初の揺れで妻に起こされたあと、二の矢のように襲った激しい揺れに生きた心地がしなかった。この前凍り付いたようになった時、次の揺れがきたらどうしようと恐ろしくなった。
 それほど激しい被害にあわへんかった私でさえそう感じるんやから、神戸の人たちの気持ちはいかばかりか。鳥取で地震があったという報道を聞いた子どもたちが一斉に体調を崩したという。トラウマになってるんや。仮設住宅から住み替えた人たちが、かえって新たなコミュニティーを作ることがでけへんで、孤独死が頻発しているとも聞く。
 活断層は、生きている。最近たびたび地震が起きるのは、大地震になるほどのエネルギーを逃がしているんやないかという気がする。
 震災のあとしばらくは、架空戦記で簡単にぼかぼかと人が死んでいく描写を読むのが苦痛やった。「旭日の艦隊」で荒巻義雄さんが無神経に神戸で大地震が起きてその処理を大高首相がやすやすとやってのけるというように物語に組み込んだのを読んだ時には、その無神経さに怒りさえ感じた。
 まだまだ震災は続いている。それは、あの震災の記憶が文献に記されているもののみになる、その時まで続くのかもしれへん。
 阪神淡路大震災から6年。あれ以来「母なる大地」などという言葉を口にはでけへんようになり、何が起こってもおかしくないと思うようになった。

1月18日(木)

 最近いろいろな書類に自分の職種を書く機会がある。雑誌には「教員・書評家・童話作家」という肩書きを掲載してもろてる私やけれど、きちっとした書類にはそうは書かれへん。勤務先の学校を書いたあと、「教諭」と書くことになる。これが社会的には正しい「肩書き」ということになる。
 「書評家」はええとして、「童話作家」は看板に偽りあり、ですな。もうずっと童話は書いてない。モチベーションの低下が一番の原因なんやけれど、そろそろこの看板は降ろした方がええのと違うかと思う。書いてへんもんは仕方がない。
 「肩書き」というのは、つまり社会的に自分がどういうポジションにあるかということを示すものなんやけれど、学生の場合は、自分が在籍している学校が肩書きになるんと違うかなと思う。なんでそう思うかというと、私の大学生時代の友人のことをふと思い出したから。
 彼は私と大学でゼミがいっしょやったんやけれど、合コンで彼女ができたと嬉しそうにしていた。その女の子からもろたというマスコットを見せびらかされたこともある。ところが、ある時、彼は私にその彼女と別れようかと思うと話しかけてきた。理由を聞いて私はアホらしくなった。彼は、その彼女と知り合った合コンで、自分の在籍している大学をD大学と名乗ったんやそうな。その大学は、今はどうか知らへんけれど、当時は「彼氏にするならD大生、結婚するならK大生、ボディーガードにはR大生」てな戯れ言をいわれるほど合コンなんかでも引っぱりだこの大学やった。ちなみに、私もその友人もボディーガードのR大生。で、その彼は本気で彼女のことを好きになり、その結果、嘘がばれてふられるのを恐れ自分から別れることにしたというんやな。ほんまのこと言うてあやまってつき合ったらええんやないかと私は言うたけれど、彼はやっぱりまずいよとくり返し、そのあと結局自分から別れ話を切り出したらしい。彼女は泣いてたと悔しそうに言う。私は心中では彼にあきれながらも、とりあえず慰めの言葉をかけた。女にもてたいがために自分が通う大学の名を隠す根性も気にくわんかったけれど、D大学という「肩書き」で女性の気をひこうというそこらあたりが私には理解でけへんかったね。
 彼は今頃どうしてるんかな。卒業する頃に一度会うて、出身地にUターンして就職すると聞いたけれど。社会人になっても「肩書き」を気にしてるやろか。

1月19日(金)

 久しぶりにお菓子の話題など。
 コンビニで「ムースポッキー、関西に上陸!」なんて書いて大量に並べてある。関東では爆発的な人気で生産が追いつかず、関西での発売が遅れたとかいう。朝のラジオを聞いていたら、「ムースポッキー」食べたさにスーパーの開店と同時にお菓子の売り場に人が並んだとか、じきに売り切れ手に入らんとかいうことを話題にしている。
 そんなうまいものなら、こらもう試しに食べたくなる。それで、コンビニで手にとってみてみると、どうもかかっているチョコレートの質や軸になるプレッツェルの素材なんかは一度食べたもののような気がする。「明治Fran」というお菓子と実によう似ておる。そこで、わざわざ「Fran」も買い、食べ比べをしてみることにした。そこまでせんでもと思うでしょ。そこはそれ、探究心というやつですわ。
 さて、その結果やけれど、ことチョコレートの味に関しては、「Fran」の方が上。さすがは「ちょっこれいと、ちょっこれいと、ちょこれーとーはーめ・い・じ」と昔から標榜しているだけのことはある。軸のプレッツェルに関しては、「ポッキー」を食べ慣れてる人にしたら「Fran」は太くて食べにくいと感じるかもしれへん。ホワイトチョコレートのかかってるのは、これは五分五分。どちらを食べてもたいしてかわりはない。
 ということは、「ムースポッキー」が売り切れていても「Fran」を買うたらそれでええ、いや、味を楽しみたい人は「Fran」の方がええと思うぞ。
 ああそれなのにそれなのに。なんで「ムースポッキー」は売り切れるほどの人気があるのに「Fran」はさほど話題にならへんのや。
 ここがコマーシャリズムの面白さというものやろうね。「ムースポッキー」の場合、まず最初は「モーニング娘。」をCMに起用したという話題作りから始まり、関頭で人気があって関西での発売を延期したという情報で品薄感をあおる。普通の人は「ムースポッキー」と「Fran」の食べ比べなんかせえへんから、店に「Fran」が置いてあっても見向きもせん。たいして変わらんかかえってマイルドでおいしかったりしても、そういう情報は喧伝されへん。
 というわけで、「ムースポッキー」が手に入らへんというあなた、「Fran」を食べといたらそいでええよ。なにも焦ることはありません。

 21日の日曜日は「たちよみの会」の例会と新年会があります。例会に一度参加してやろうという方、大歓迎。新年会のみ参加しようという方は、17時頃、「ジュンク堂京都店」の前で待ち合わせであります。ひとつよろしく。

 明日は所用で遅くなるので、更新はお休み。次回更新はうまくいったら日曜深夜の予定。月曜深夜になる可能性もあるかもしれへんけれど、なんとかしてみせましょう。


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