ぼやき日記


1月1日(月)

 あけましておめでとうございます。
 本年も当サイトをよろしくご愛読のほど、お願いいたします。
 例年通り、京都の実家に帰る。今年はなんかくつろいでしもうて珍しくだらだらとテレビを見て過ごす。「筋肉番付」のプロスポーツ選手版で、実は毎年実家に帰るとこの番組をだらだらと見てしまうのであります。
 なにが面白いか。スポーツ選手の姿勢が変化していくのを見るのが面白い。競技自体はよく考えられてはいるもののお遊びに近いものや。ただ、手を抜くと怪我をする危険性はある。最初は気楽な表情で参加している選手たちの目が、だんだん本気になっていく。その変化が興味深い。
 何をやるにしても、競争相手がいたらそいつには負けたくない、そういうアスリートのファイティング・スピリットに火がつくと言うたらええのか。そして、そこにプロの選手としてのプライドも垣間見える。むろん、テレビ番組の企画の一環やから、公式戦のそれとは比べ物にはならへん。それでも、スポーツ選手の本質的な一面をちらりと覗くことができる、その一瞬に心をひくものがあるんやね。
 特大の跳び箱を、シドニー・オリンピックの金メダリストに跳ばせる企画でも、メダリストたちがしだいに真剣になっていくのがわかる。アスリートの魂は、どんな企画であってもそれが自分の闘争心をかき立てるに値するものならば、一気に燃え上がるものやねんなあ。
 そういう意味では、プロ野球選手がしょうもないゲームを芸能人とやってその価値を落としてしまうようなものは、見たくないね。あんなもんはプロに対する冒涜やないか。
 というわけで、ついつい遅くまでプロ選手版「筋肉番付」を見てしまったのでありました。
 私はわざわざ実家に何をしに帰ったんやろうねえ。

1月2日(火)

 昨日今日といつもよりもテレビを見る機会が多い。ふだんほとんど見てへんのにねえ。
 そやから、コマーシャルなんか知らへんものばっかりで必死で見てしまう。特にええのは、ホンダの「ASIMO」が出てくるコマーシャルやね。
 白人の女の子と「ASIMO」がいっしょに踊ってるんやけれど、女の子は母親に呼ばれてあっちへ行ってしまう。「ASIMO」が急いで追いかけていく。その追いかけていく様子になんともいわれへん表情を感じてしまう。もっといっしょに遊んでよと呼びかけてるような気がする。
 実家の母は「えっ、誰か中に入ってるんやと思た」と驚いてたけれど、それくらい自然な動きやね。私には妹が二人いてるんやけれど、そのうち一人は「S−Fマガジン」を読むような人で、もう一人は全く縁がない。縁のない方の妹が「なんで『ASIMO』って名前なん?」と聞く。私と「S−Fマガジン」読者の妹が「アシモフというSF作家がいて、ロボットの出てくるSFをたくさん書いていて、そこからとった名前で……」となるべくわかりやすく説明したつもりなんやけれど、それでもわかりにくかったみたい。「ロボット三原則というのを考えた人で……」などとよけいなことを言うたんがいかんかったかな。
 SFに縁のない人にSFがらみの話題をするのはやっぱり難しいねえ。SFというジャンルはやっぱり一般的やないんかなあ。
 まあしかし、「ASIMO」の名前の由来はわからんでも、「ASIMO」がすごいということはわかってもらえたとは思う。思うけど、たいていの人は母のように「中に人が入ってる」と思うてるかもわからんな。ホンダは「ASIMO」が純粋にロボットやということをもっとアピールせんとあかんで。

 明日は所用で遅くなります。次回更新は木曜深夜の予定です。

1月4日(木)

 3日の朝刊を読んだら、SF作家のアーサー・C・クラークさんが自分の遺伝子を宇宙に送るんやそうな。民間の宇宙業者「エンカウンター2001」(そんな会社があるんやねえ)が計画してる、個人の写真や記念品を人工衛星に積んで打ち上げる中にクラークさんの髪の毛も入れるんやそうな。ちゃんと本人の録音した「これはアーサー・クラークでなくクローンである」というメッセージもつけて。
 つまり、人間が絶滅したあと異星文明がそれを発見してクラークさんのクローンを作ってくれることを期待していると、こういうことらしい。なんというか、遠大な計画やけれど、果たしてその異星人が英語を解読してくれるかどうか、そこにポイントがありそうやね。「なんや、こんなところにゴミをほったらかしにて。粗大ゴミは毎月第3火曜日!」とかいうて捨てられへんことを祈るばかり。
 まあしかし、夢があってよろしいな。その宇宙会社もクラークという名前とそのクローンという夢を宣伝することによるメリットは大きいやろうね。だいたいなんのために個人の記念品を宇宙に打ち上げるのかわかりにくい。それだけでは申し込み者が集まらへんやろうけど、「これは宇宙に向けたタイムカプセルですよ。ほら、クラークは自分の遺伝子を乗せてるんですよ」と言えば自分もいっしょに何か打ち上げてもらおうという気にはなるかもね。
 まあ、実現する可能性は非常にうすいやろうなと思うけれど、なかなか面白い試みではありますね。宇宙人によって再生され、ペットのように可愛がられるクラーク……あんまり想像したくないけど。

1月5日(金)

 桂三木助さんの訃報に接する。享年43。芸に行き詰まっての自殺と報じられている。なんともやりきれない。三木助さんは先代の実子で、柳家小さん門下。先代の三木助は「芝浜」を得意とした人で、当時は志ん生、文楽、圓生らに続く名人と呼ばれたそうだ。私は上方落語ならまあまあ知識もあるけれど、東京落語はそれほど親しみがあらへん。それでも先代三木助の「芝浜」はCDで聴いている。現在でもそういった録音が流通しているということは、先代が落語ファンの記憶に常に残る落語家やったことを示してるわけですね。
 で、当代の三木助さんなんやけれど、私はテレビでワイドショーのレポーターみたいなことをしているところしか見たことがない。そやから、三木助さんが先代と比較されていたのかどうかは知らない。ただ、三木助さんの場合、先代の弟子ではなく小さん師匠に入門しているということがポイントなんやないかとは思う。
 例えば、上方落語でいうたら六代目松鶴は実父である五代目の門下。当代の小米朝も師匠は実父の米朝。東京では馬生と志ん朝の兄弟はあの志ん生の実子であり弟子である。親子で師弟であるということは、まわりにどう言われようとその芸のすばらしさとともに欠点も知り尽くしているやろうと想像される。それでも周囲からは名人の息子と期待され、かなりのプレッシャーはあるやろう。そこで、父とは違う落語を作り上げていっている、そんな気がする。あ、三平の息子のこぶ平もそうやね。
 さて、三木助さんはどうやったんやろう。これはもう本人にしかわからんことではあるやろうね。六代目松鶴の実子、枝鶴はプレッシャーに負けたのかどうなのか、落語界から消えていった。三木助さんの落語を聴いたことがないものがとやかく言うことではないけれど、もし自分が先代のような落語家になろうとしていたんやったら、それは悲劇的な考え違いやったかもしれへんね。
 芸の行き詰まりとは残酷な言葉やね。43歳か。もし、私がこのまま書評を含む雑文書きとして同じポジションでその年になったとした時、もしかしたら行き詰まりを感じてしまうかもしれへんな。ほんまに芸人さんの自殺はやり切れへん。
 謹んで哀悼の意を表します。

1月6日(土)

 昨日の日記で桂三木助さんの享年を44と書いてしまいましたが、43の誤りでした。訂正いたします。メールでご指摘いただきまして、誤りに気がつきました。新聞を一読したその記憶だけで書いてしまうのはいけませんね。今後はちゃんと確認いたします。

 所用で心斎橋へ。用事をすませたあと「OPA」に寄る。いやー、「ユニクロ」の紙袋を持った人がどこどこといてるのは壮観ですな。以前紀伊国屋書店が入っていたフロアは全部古着屋が占めているし。書店がつぶれて古着屋や低価格のカジュアルウェアの店が入る。なんか現在を象徴してるね。
 CDショップ「HMV」でクラシック輸入盤の新譜を見てまわるけれど、特に欲しいものはなし。ベルティーニ指揮のマーラー交響曲集が安くで出てたけど、1〜5番までやったから食指はのびず。せっかく全曲録音してるんやから、全集で出してほしいよなあ。国内盤ではブレーズ指揮のマーラー「大地の歌」が出てたけど、これは輸入盤が入荷するのを待とう。1000円は違うからね。なんかもう再発盤か昔の演奏家の放送録音ばっかり。「レコード芸術」で紹介されてたストコフトキー指揮のホルスト「惑星」を探してるんやけれど、見つからへん。
 Jポップのコーナーでテントの「わらびもち」というCDを見つけたんで買う。インディーズ盤かなあ。あ、テントというてもわからんか。漫談家で上岡龍太郎の弟子にあたる人。おもろいのかおもろないのかようわからん不思議な芸風を誇る。自作の歌をライヴハウスで歌ったものの録音らしい。20年前と芸風が変わってないのが凄い。帰ってからさっそく聴いたけれど、予想通りおもろいのかおもろないのかようわからん。そやけど、こういうCDは見つけた時に買うておかへんと後からはなかなか入手でけへんからね。ジャケットにメールアドレスが書いてあったんで、このCDが気になる方はそこに問い合わせしてみて下さい。勝手にアドレスをここに書くのははばかられるんで、私にメールして下さったら教えます。あ、心斎橋「OPA」の「HMV」にはまだもう1枚あったな。早いもん勝ちやぞー。別に関心はありませんか。そらそうかも。
 そんな収穫(?)はあったけど、やっぱりクラシックCDに「これは何がなんでも買いたい!」というのがないのが寂しいなあ。今月末にはウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのCDが出る。テレビは見逃したんで、CDで聴くことにしよう。アーノンクールの指揮やから、きっと面白いに違いない。それまでは特に欲しいものは出てないやろなあ。

1月7日(日)

 どうも今年に入ってからテレビをよく見る。野球と相撲くらいしかテレビを見ない私にしては珍しい。昔はテレビっ子やったのにね。
 昨日から始まった「幻のペンフレンド2001」はけっこう期待できそう。そう、あの「NHK少年ドラマシリーズ」の「まぼろしのペンフレンド」(原作・眉村卓)のリメイクであります。
 
冬樹蛉さんは「まぼろしのメル友」にしたらどうかと日記に書いてはったし、私も今どき「ペンフレンド」もないやろうと思うたら、いやいや、なかなかうまいことそこらへんは処理してあって感心した。主人公が理想の恋人をヴァーチャルソフトで作成してコンテストのサイトに応募する、その設定をいたずらされて「趣味は文通」になってしまったことから、その理想の少女から手紙が届くと、こうくるか。近未来が舞台で、遠隔地の父親とテレビで会話していたり、時代背景をそれらしく出しているところも憎いね。その上でちゃんと原作通りに主人公の少年のデータを取りに謎の一団がやってくる。
 「少年ドラマシリーズ」で育った世代にはもうこたえられん。「六番目の小夜子」以上に「少年ドラマシリーズ」らしさを全面に出しているぞ。惜しむらくは栗山千明クラスの美少女が登場してないこと。あ、でも、「少年ドラマシリーズ」にはあれだけの美少女は出てきませんでしたな。斎藤とも子は可愛かったけど。
 それでも「少年ドラマシリーズ」を知らへん世代には「『中学生日記』みたい」と言われてしまうのかな。このドラマの世界はああいうもんなんやから、ああいうもんとして受け入れてほしいとおっちゃんは思うんやけどね。
 昨日の放送を見て、原作を再読したくなってきた。読み返したら古臭い感じがすることはわかってるんやけれどね。

1月8日(月)

 今日が成人の日と言われてもなんかまだピンときませんな。1月15日が成人の日と決められたのには根拠があったはずやのに「連休を増やして需要をのばし景気回復する」てな果たして実効性があるのかどうかわからん理由で変更するのは伝統破壊以外の何ものでもないと思うけれど、どないですか。昨日成人式をしている自治体もあるみたいやし。もっとも、新成人の一部のあまりの態度が悪さに、市長が祝辞をやめたてなところもあったそうで、それやったら税金の無駄遣いやから成人式自体をやめなはれ。儀式としての成人式が形骸化し、晴れ着合戦のお祭りになってる状況というものがあるとしたら、儀式的なことは廃止して「成人祭」にしたらよろし。それやったら酒盛りしようと私語で祝辞が聞こえへんかっても問題なかろう。

 私は昨日は高校時代のクラブのS先輩が東京から京都に里帰りしてきたというので、おがわさとしさんの声かけで新年会。同期のかげぼしさんほか数名で楽しく飲んでおりました。NHKエンタープライズで「忍たま乱太郎」の制作をしているというS先輩からちょっとした裏話を聞いたりして、なかなか面白かった。女性陣は子持ちもいて、NHK教育テレビの話題に花が咲く。
 喫茶店での二次会で散会したあと、私とおがわさんとかげぼしさんは河原町にある「秘密結社ショッカー」なるスナックで三次会。内装は「仮面ライダー」のショッカー基地を模したつくりで凝ってはいたけれど、店員さんは普通のお兄さんで特に特撮オタクが集まる店というわけではないみたい。まあ、そういう客を限定してしまう店はじきにつぶれてしまうやろうから、普通のスナックでつくりがちょっと面白いという程度でないとやっておられへんのやろうな。我々の他には別に特撮ファンでもなんでもなさそうな普通の若い女性がカウンターでお兄さんとおしゃべりしていただけ。ま、どんな店でしゃべっていても我々はマニアックな会話をするんやから関係ないか。

 明日は所用で遅くなります。次回更新は水曜深夜の予定です。

1月10日(水)

 いよいよ新学期が始まったけれど、休み気分が抜け切れず、昨日は帰ったのが遅かったせいか今朝は朝寝坊。ぼちぼち体をならしていかんと。

 昨日は所用で京都へ。一日おきに京都に行ってるな。約束の時間までちょっと間があったんで、いつものことながら書店に。大阪府パナソニック市やサンヨー市には大きな書店があらへんから、ここぞとばかりにハシゴをする。
 クラシック音楽業界の暴露本を立ち読みしていたら、若い女性が二人私の後ろを通り過ぎざまにこんなことを言うているのが耳に入った。
「本て一回読んだらもう読まへんやん」「そやなあ」「なんか買うのもったいないし、借りたらええと思わへん?」
 思わへん! 確かに1回読んでそれっきりの本はほとんどやし、それどころか買うて何年にもなるのに一切手をつけてへん本も大量にある。それは特殊な例やと言われたらそれまでやけれどね。
 そんなにのべつまくなしに読書をするというわけでもない人からしたら、本を買うのはもったいないかもしれへん。ただ、それを
書店の中で言うなああああっ。最低限のマナーというものがあるでしょうが。
 日本酒のおいしい店の中で「お酒て酔うてしもたらいっしょやん」「そやなあ」「高いお酒飲むのももったいないし、ワンカップでええと思わへん?」と言うか。CDショップの中で「CDてMDにダビングしたっておんなじやん」「そやなあ」「なんか買うのもったいないし、借りたらええと思わへん?」と言うか。
 営業妨害やぞ、立派な。そない思うんやったら書店に一歩も足を踏み入れるな。何しに本屋に来たんや、あんたらは。なんかもういらいらしてきた。そやからと言うてそんなところでけんかを売ってもしゃあないしなあ。
 しかしまあ、ふつうはそんなもんなんやろうなあ。そやけど、他のものに比べたら、本というのは決して高いとは思わへんけどなあ。本は高いかなあ。


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