ぼやき日記


4月22日(日)

 昨日は仕事のあと京都の医者に行き、夜は心斎橋で「日本芸能再発見の会」例会。二次会にも参加。そして今日は日曜参観で出勤。けっこうハードな週末でございました。書評のための本もなんとか読み終えたから、明日の代休で原稿を書こう。

 てなもんや囲炉裏端でも話題が出たけれど、指揮者のジュゼッペ・シノーポリがオペラを指揮している最中に心筋梗塞で倒れ、急死。享年54。精神科の医師の資格もあったシノーポリやったけれど、自らこういう形での病死は予見でけへんかったということか。
 若くして死んだ指揮者というと、飛行機事故のカンテルリ、海水浴中に水死したケルテスなどがいて、彼らはさあこれからというところでの死去でその死を惜しまれたものやったらしい。それらは私が生まれる前か子どもの頃のことなんで、書かれたものでその当時の状況を推し量るしかないんやけれど、さてシノーポリの場合はどういう惜しまれ方をするのか。
 というのも、私としてはシノーポリはもうすでに過去の人っぽい印象があったからね。フィルハーモニア管の指揮者としてドイツ・グラモフォンからばんばんCDが発売されていた頃はそれなりに話題にもなり注目もされていたけれど、ドレスデン・シュターツカペルレを任されるようになってからはなぜか急に録音も減り、CDが発売されてもそれほど話題にもならへんようになった。あのフィルハーモニア管時代の騒がれ方はいったいなんやったんやろうと思うくらい。
 もともと私はシノーポリの演奏に感銘を受けたことがないから、ああドレスデンとシノーポリの相性はあんまりようないのかなあくらいにしか思うてへんかったんやけれど、それにしてもこれほど注目されへんようになるとはちょっと極端な気がしていた。そこへ持ってきてこの劇的な死。オペラの振れる指揮者やったから、今後はオペラ指揮者としてその地位を築いていく途中やったかもしれへん。私はオペラには弱いから、そこらあたりの評価はちょっとしかねるところはあるんやけれど。この劇的な死でシノーポリの評価がどのように変わるのか、しばらくは「レコード芸術」誌などに注目しておきたいところやね。
 よう考えたら、シノーポリという指揮者の評価はレコード会社の営業政策によって左右されてたんかなあという気がする。当初は斬新やった楽曲解釈に聴き手が慣れてきて、CDの売れ行きが下がってきたら、CD自体をあまり出してもらわれへんようになり、批評家も以前ほど手放しで絶賛せえへようになった。ある意味ではジャーナリズムの犠牲者といえなくもない。それでもシノーポリにはオペラの指揮という武器があったわけで、その指揮の途中の急死というのはなにか彼の生涯を暗示しているような気がする。
 謹んで哀悼の意を表します。

4月23日(月)

 今日は日曜参観の代休。どうも平日という感じがしない。明日が月曜みたいな感じがするね。体内カレンダーが微妙にずれるという感じやね。

 朝刊のすみっこに、漫画家のあすなひろしさんの訃報を見つけた。享年60。死因は肺ガン。「消えたマンガ家」(太田出版)という本でも取材されていたけれど、友人の借金の保証人になったりしたこともあって、漫画を書くことがでけへんようになってしもうてからずいぶんになる。20年ほど前は、そのセンシティヴな作風としっかりした画力で独特のポジションに立っていた人やった。
 私は「青い空を白い雲がかけてった」を少年チャンピオンで読んでから、すっかりファンになってしもうた。そやから、その名前が漫画誌から消えてしもうたときは寂しかったし、「消えたマンガ家」でその消息を知った時は、ぜひ復活してほしいと願うたものやった。
 しかし、それもかなわぬ願いとなった。昨今の復刊ブームの中でも忘れ去られたようになってるし……。死んでからでは遅いけれど、代表作だけでも漫画文庫でええからぜひ復刊してほしい。
 謹んで哀悼の意を表します。

 なんかここのところお悔やみばっかりやなあ。こういうのもなんかなあ。明日はもうちょっと明るいかアホらしい話題にしたいもんです。

4月24日(火)

 いやあ、結局小泉純一郎でしたなあ。どうした麻生太郎、なんのために出てきた麻生太郎、本選には出ないのか麻生太郎、二代目失言宰相を襲名できるのはあんたしかあらへんのやぞ麻生太郎。しかし、これで本選で橋本龍太郎が逆転当選したりしたらおもろいんやけど、まあこのまま小泉首相ということになるんでしょうな。こうやって自民党は命脈を保っていくんですなあ。なんともかんともしたたかな政党ですわい。

 NHKのドラマ「陰陽師」がおもろない。なんであの原作でこうも退屈な話になるんか。妻は主演の稲垣吾郎の演技に原因ありと見ている。私も稲垣くんでは神秘性が不足していると思うし、だいたい無表情なのは演技力不足であってやね、同じ無表情でも蜜虫役の本上まなみはなにやら人間でないみたいで実によろしい。本上まなみには次回はアンドロイドかマネキンの役をやっていただきたい。寺尾聡なんか黒澤映画の演技ですぞ。声だけ聞いていたら宇野重吉そのまんまやね。
 そやけど、主役が大根でも脇がちゃんと固めてたらボロは出ないと思うんやけど、それでもこれだけ退屈なんは脚本やと思うね。陳腐な恋物語でしかないもんね。それに公家の女性がやたら外に顔を出して金切り声をあげたりするのがどうも平安時代らしくないように思う。そう、平安時代に見えへんのや。時代考証に厳しいNHKらしからぬできばえやね。
 私としてはもっと物の怪を出したりやね、式神をちょろちょろさせたりしてほしいところなんやけどね。まあそういうものを出さへんで晴明の不思議な力を見せようという意図なんやろう。それが裏目に出てるという感じがする。
 それだけドラマ化しにくい題材、ということかもしれへんね。

4月25日(水)

 てなもんや囲炉裏端でのブックカバー談義はそろそろ出尽くした感じですね。みなさんいろいろ工夫してはるなあと思うたけれど、要は本をどのように考えているかというそこらあたりやないかと思う。美しいブックデザインの本はやっぱり汚したりしたくないからね。特にハードカバーの本にはそれがある。ハードカバーに関していえば、私の好きな装丁者ベストスリーは順不同で日下潤一、南伸坊、和田誠のお三方であります。文字の入り方が美しい。遊び紙などの色にも工夫をこらしてる。そしてすっきりしている。奇をてらわないところに好感が持てる。
 実は、本文の活字(写植、フォントと今はいえばええんかな)の書体や字間行間にもその本のデザインセンスのよさや悪さを感じたりする。活字の時代の本の良さはそこらあたりやろうね。写植の時代になって創刊されたK社やS社の文庫の書体には子ども心に違和感を感じた。児童書の文字というのは、読みやすくてバランスのええものが多かったし、文庫を読み始めたころの老舗のI書店、S社、K書店などは文庫でも風合のある活字で「ああこれが大人の本の文字なんやなあ」と感じたもんです。嫌な子どもやな。
 ヤングアダルト文庫ではそこらあたりに気を使うてる版元と、とにかく写植ベタ打ちみたいな文庫があって、読む時にずいぶん差を感じる。
 その点に関しては私はちょっと保守的かもしれへんけど、やっぱり最初に受けた印象というものは原体験として刷り込まれてるもんやからねえ。本らしい本、好きやなあ。最悪なんはビジネス書というたぐいのものかな。目をひくためにやたらポイントをでかくしてごてごてと打ち込んみどぎつい赤で飾った表紙の文字を見てるだけで嫌になるもんね。まあ、ビジネス書に装丁の美しさを求める方がいかんのかもしれへんけれど。

4月26日(木)

 テレビでタイガースとジャイアンツの試合を見ていたら、解説は川藤幸三さんと掛布雅之さん。川藤さんがタイガースびいきなんはまあそれを期待されるという役どころやから当然としても、掛布さんかてタイガースOB、いや、ミスタータイガースと呼ばれた男なんやからジャイアンツサイドに立ったものの言い方はやめてほしいなあ。東京ドームのジャイアンツの試合でも解説する掛布さんやから、ついその習慣が出てしまうんやろうけど、甲子園での試合なんやで。掛布さんが「このカウントなら和田に打たれますよ」とジャイアンツの鄭の視点で言うた時はがっかりというか情けなかった。「和田が打ちますよ」となんで言われへんのや。こうなったらABCが高額の契約金で掛布さんを引っこ抜いてくれへんもんか。そしたら掛布さんも心おきなくタイガースサイドに立って喋られるやろう。
 掛布さんというたら、最近は「納豆いち」のCMに出演してるね。赤井英和さんと西村知美さんと掛布さんが社員食堂らしき所でご飯を食べている。赤井さんが「赤ーいなっとういち」と歌うと西村さんが「ごはんに」と受けて掛布さんがにかにか笑いながら「かけふ〜」と歌う。西村さんが掛布さんのご飯に納豆をかけると赤井さんが悔しそうににらむという、まあたわいないCMではあります。正直申しますと、西村知美さんの起用だけ納得がいかん。赤井さんと掛布さんはだじゃれでキャラクターを作ってるのに、彼女だけがだじゃれになってない。ここはやはり飯島愛さんや飯島直子さんや飯田蝶子さん(故人やけど)というような「飯」のついたタレントを起用してだじゃれつなぎを完成させなあかん! これはもう画竜点睛を欠くと言わざるを得んね。CM制作者の見識を疑う所であります。猛省を促したい。促しても別に人類の運命には何の影響もないことではあるけど。

4月27日(金)

 中国でドロマエオサウルスという恐竜の羽毛のはえた姿の化石が見つかったという記事が今日の朝日新聞(大阪版)の夕刊に掲載されてた。
 子どものころ「恐竜図鑑」をむさぼるように読んだもんですが、たいてい恐竜というのは灰色か茶色で時々カラフルな色彩のものもなくはなかったけれど、まあだいたいトカゲやワニみたいな色で描かれてたもんです。まあ、恐竜が爬虫類で、形態がトカゲの大型となると、色彩もそのように想像されるわな。そやけど、ヘビの体色がけっこうバラエティに富んでたり亀の甲羅の柄がカラフルやったりするのを見てると、恐竜の色も中にはかなり派手なやつもあったんと違うかと思う。
 ところが、実際に発見される化石はたいてい骨格だけやから、色まで再現するのは難しいやろうし、体毛が生えていたかもしれへん。まあ、トカゲやヘビから類推するに、毛むくじゃらなものはそんなにはいてへんかったかしれへんけど。それでも、恒温の恐竜がいてたという説もあるくらいやから、そういう恐竜は体毛が生えていたかもしれん。
 今度の恐竜の化石から恐竜の体色がわかったわけやないけれど、その羽毛がどんな色をしてたのか、オスとメスとでは違うたんかどうか、いろいろと想像は深まるね。
 それでも、子どものころに刷り込まれた印象というのはなかなか抜けへんからね。映画「ジュラシック・パーク」に出てくるような恐竜やないと恐竜やないような気もする。ほんまに化石に残された遺伝情報から本物が再現される時がきた時、失望してしまうかも、なんて考えてしまう。
 羽毛の生えた恐竜か。なんか恐竜やないみたいやなあ。

4月28日(土)

 この連休は転居に向けて片付けに専念。今日は雑誌のバックナンバーをまとめたり本を箱詰めしたりする。そのまま引っ越せるくらいとまではいかないまでも、なんとか目鼻をつけたいところ。

 土産物には簡単な栞がついている。特にその地の古い名物やと、やれ将軍の口に入ったの皇室御用達やの藩主御愛用やのと能書きが書いてある。先日妻の実家からいただいた鹿児島土産の「かるかん」の栞には笑いました。霧島山麓に自生する「自然薯(じねんじょ)」に米の粉を加えて蒸しあげた銘菓であるという説明はよいとして、それに続いてこない書いてあった。以下、一部引用する。
「百三十年の歴史ある鹿児島の代表銘菓で、
薩摩の殿様も召し上がったと言われています」。
 おいおい、そんな弱気な書き方でええんかいな。これは菓子メーカーによって違うんやろうけれど、老舗やったら「第×代当主が時の藩主某公に献上したところ、いたくお気にいられて云々」てなことを書いてるもんやけれどなあ。このかるかんを売ってる和菓子屋は分家かなんかでそういう故事が伝わってないのかな。これやったらほんまに薩摩の殿様が召し上がったかどうかわからんがな。これでは銘菓であるという自慢にはならんぞ。
 京都やと、老舗も分家も競って新しい和菓子を開発しているから、その能書きもなかなかうまいこと書いてある。そこらあたりは同業者間での切磋琢磨というようなものを感じさせるね。いや別に鹿児島の和菓子屋が切磋琢磨してへんというつもりはありませんよ。ただ、老舗が競い合ってそういった文化を形作ってきた京都の文化的洗練を思うと、他のどの地方の菓子の栞を読んでもつい比べてしまうというだけで。そう、こういうのもその土地の風土に根付いた文化なんやと思うね。

4月29日(日)

 昔、自分が書評を書いていたころ、つまり14年前の「SFアドベンチャー」が出てきたので、片付けの手を止めてページをめくってみる。自分の書いている号と同じ号で北野勇作さんの名前を発見したりして驚いている。「森下一仁のショートノベル塾」のコーナーに読者投稿の入選作として掲載されているんですね。私と同い年やから25歳くらいの時の作品ということになるね。ちょっと読んでみる。今に通じるなんともいえない味がある。
 そこで今度は自分の文章を読んでみる。基本的な文体というのは変わらへんもんですな。私は特に文体を意識して書いてるわけやないのやけど、自然に個性というのが出てくるもんやねんなあ。ただ、違うのは、若さにまかせたようにかなり危なっかしい書き方をしている。読んでて「こらこら、そんなことを書いてはいかんよ」と注意したくなるくらい。また、なにが言いたいのかよくわからない文章というのもある。もちろん今の私が常に達意の文章を常に書けているというわけではないけれど。
 しかしまあ若僧がよくあんなに偉そうなことを書いているもんやと14年前の自分に対して感じてしもた。初めての商業誌連載ということでかなり肩ひじはってたんやなあ。しかし、今の自分にはない思い切りのよさみたいなものも感じて、正直羨ましくなった。そやね、ちょっと安全にいこうとしているかもな。
 14年前の自分に出会い、気持ちが新しくなったような気分やね。初心に帰るというのか。たまにはこういうのもいい刺激になっていいもんです。

4月30日(月)

 実家から筍を送ってくる。朝掘の筍ということで、すぐに茹でんと硬うなる。妻が実家に帰っているんで、片付けで疲れてはいたけれど私が茹でな仕方ない。『はじめての台所』という本を開く。結婚当初、平日には毎日のように夕食を作っていた私のバイブルであります。もう書かれている通りに茹でる。ただし、筍がでかいので茹でられる鍋がない。でかい筍は半分に切って分けて茹でることにする。確か去年は妻は金盥を鍋代わりに使うて茹でていた。それを思い出し、私も真似して金盥に水をはり、筍を入れて糠を振りかけ火をかける。
 火加減が難しい。本には「吹きこぼさない程度に」なんて書いてあるけど、そんな器用な真似は私には無理。コンロのところに糠が少々吹きこぼれてしもうた。なんとか柔らかくなるまで茹でられた。あとは一晩かけて湯をさます。なんでもすぐに水洗いなんかしたらエグ味が残るということらしい。
 今日はゴミの日なんで、朝の9時までには皮を剥いてそのままゴミとして出してしまわな。早起きして皮を剥く。剥いても剥いても皮ですな。あんなに大きかった筍がえらい小さくなる。これやったら最初から皮を剥いて茹でてもよさそうなもんなんやけど、本によると筍の皮には筍を柔らかくする成分が含まれてるらしい。
 皮を剥いたら細かく切ってタッパーに入れて冷蔵庫へ。明日は私は外出して夜いないんでそうやって保存しておかんと料理に使われへん。
 しかし、初めて茹でたけれど、エグ味が残ってへんか心配やね。かじっても仕方ないし。旬の味なんやからおいしく食べたいしなあ。さて、どないなってますやら。

 明日は都合で更新できません。次回更新は水曜の深夜の予定です。


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