ぼやき日記


9月11日(火)

 いやあ驚いた。まさかマンハッタンの国際貿易センターとワシントンの国防総省を直撃するテロが起こるなんて。へし折られてまさにもくもくとしか形容するしかない煙が吐き出される国際貿易センタービルの映像を見ながら唖然呆然としてしもうた。キングコングでさえへし折ることのでけへんかった(あ、ディノ・ディ・ラウレンティス制作のリメイク版の方です)ビルが滑落するように倒壊していく映像はとても現実のものと思われへん。アメリカ経済は当然ストップするやろうし、日本経済に与える影響も尋常のものやなかろう。今後世界情勢はどうなっていくのか、私の乏しい知識では想像もつかん。えらいこっちゃ。第三次世界大戦? まさかね……。

 よく胃薬の宣伝でストレスがたまって胃がシクシクと痛むというのがあるが、私にはそういう経験がない。ストレスに強いわけやない。ストレス性のチックには慢性的に悩まされていて医者にかかっているくらいやからね。ほならどこにくるかというと、腸にくる。
 ストレスがたまると便秘になりやすい。何日も排便がなかったりする。そうかと思うと体調を少しでも崩すとおなかがピーピーになる。ひどい時にはやっと硬いのが出たかと思うと栓が抜けたみたいに液状のものが一気に出るといった具合。これは正直きついですよ。肛門が痛いね。医学的に正確かどうかは知らんけど、タイプとして胃にくる人と腸にくる人がいてるんやないやろか。
 ここ数日思うように原稿が書けへんでストレスたまりまくりの上に、今日はプール指導。台風の余波で風は吹くし小雨が降るし、水にしばらくつかった後で監視用の高い椅子に座ったもんやから体が冷えきってしもうた。体力の消耗はなはだ激しく、一気に腸にきた。それでも今書いてる原稿だけは今日中に仕上げてしまいたいしなあ。
 というわけで、この後は原稿書きにいそしむことにします。風野春樹さんもほっとしてんと早う原稿書きや。お互い大変ですなあ。
 今日は汚い話でごめんなさい。しかしほんまに便秘と下痢が連続してくるのはきついぞお。

9月12日(水)

 昨夜のアメリカ「同時多発テロ事件」の映像をテレビで見て「まるで映画みたい」と思うた人は多かったやろうね。つまりそれは自分の想像を超える現実に直面した時、それを受け入れるために自分の知っている虚構と重ね合わせるということなんやろう。
 いや、それだけやない。テレビの映像を見ている時点では、この事件はまだ自分の生活に直接影響を与えてないわけで、文字通りの「他人ごと」でしかない。それだけに現実のものとして受け入れるに至らんという心理が働いたのかもしれへん。
 それでも私は貧弱な想像力で今後の世界情勢の展開を予想して自分の生活に与える影響を予測することができる。そして戦慄を覚えたりもする。そやけど、私の勤務する学校の生徒たちにとってはこの事件は全く自分の生活には関係のないものであり、彼らの最大の関心事は給食に出た嫌いなおかずをどのように食べるかであったり、運動会の集団演技を覚えることであったり、明日の時間割を確認することであったりする。彼らにとってこの事件は、自分に関係がないどころかこの世に存在しないことというてもええ。そして私もまた明日の世界情勢を気にしながら、仕事を始めると全く変わらへん日常生活に埋もれてしまい、いかに生徒に運動会の演技を指導するかに心を砕いたり、12月のはじめに行われる学校行事の計画をたてたりすることの方が大切やったりする。
 こういう大事件が起こると、人間というものは最終的には自分を中心にものを考えるしかない存在やねんなあと思う。そして、自分の主観でとらえた時の現実と虚構の境界線のあいまいさを感じる。そして、そういった実態に対して自分自身の精神的なバランスをとるためにはSF的な思考がやっぱり有効なんと違うかなあなんて感じたりする。
 それにしても、戦争を起こすには相手を特定でけへんで国家的威信とかいう幻想を守ろうとしても実父のようにはいかんブッシュ大統領の自らを鼓舞するような演説を聞いていると、器やない者がリーダーになるということの哀愁を感じてしまうなあ。

9月13日(木)

 転居してからというもの、仕事帰りに寄る適当な書店が見つからなくてちょっと困る。梅田に寄り道をして「旭屋書店」に行くのもええんやけれど、ちょっと広過ぎて新刊チェックだけには手間がかかる。週刊誌を気軽に立ち読みしたりしながら買うことができないのも難点の一つやね。たいていの週刊誌はコンビニで買えるんやけれど、「週刊ベースボール」となるとあまり売れへんのか多くのコンビニには置いてない。あったとしても夕方には立ち読み客の手垢と折りじわで買う気にならへん。
 こういう時に前の住まいの最寄り駅近くにあった書店はありがたかった。小規模ではあるけど新刊文庫の入荷や週刊誌の仕入れなどきちっとしてたからね。
 そこで利用するようなったのは駅の売店。立ち読みの客はもちろんいてへんし、小さい駅でもそれなりに部数を仕入れている。当面はこれでやり過ごすしかない。
 それでもやっぱり便利な小規模店があるに越したことはない。帰り道、原チャリのスピードをゆるめてなんとか見つからへんものかと毎日探している。引っ越して1ヶ月半、一所懸命探してるんやけれど、候補はあっても帯に短したすきに長し。当分は今のパターンでいくしかないんやろうかなあ。

9月14日(金)

 ベランダに出て上空を通過する飛行機を見てたら、これまではなんとも思わんかったのに、あれ以来こっちに突っこんできたら……なんて考えてしもうてほんまに怖い。映像の衝撃度というのは強いもんやなあ。
 ところであの事件の首謀者と噂されているイスラム過激派の黒幕、オサマ・ビン・ラディンなる人物の名がいつのまにかオサマ・ビンラディンになっていた。ロナルド・リーガンと呼ばれていた大統領候補が一斉にロナルド・レーガンになったようなもんかね。
 もっとも、アラブの人の名前の発音なんて私のような知識のないものには皆目わからへんわけやけれど、事件が起きた翌日の朝日新聞にはオサマ・ビン・ラディンとなっていたけれど同日の毎日新聞はウサマ・ビン・ラディンと表記していたし、コンビニでちらりと見た産経新聞にはオサマ・ビン・ラーディンとなっていた。それどころか朝日ではラディン氏と書いてあったのに毎日にはウサマ氏と書いてあった。どっちが苗字なんかすらわからんとは困ったもんでな。
 まあ、新聞によって名前が違うというのは不便なんで表記は統一しておいた方がええんかもしらんけれど、こう一斉に変わるとかえって気色悪いもんやね。それでもNHKのニュースでは相変わらずラディン氏とアナウンサーは言うてるが、放送局は関係ないんかしらん。テレビ東京系のニュース番組「ワールド・ビジネス・サテライト」ではビンラディン氏と呼んでたから、いずれNHKもそう呼ぶのかもしれへんけれど。
 ところでなんでラディンがビンラディンに変わったかというと、アメリカなどのメディアではビンラディンと呼んでるかららしい。「私たちはアラブ系のことはわかりませんから、よその国に揃えます」というのもなんか情けないような気がするぞ。「私たちには定見はありません」と看板あげてるみたいでねえ。
 ところでビン・ラディンの「・」が取れてビンラディンになったのを見てもうひとつ思い出した。プロ野球でかつてバファローズに在籍したテリー・リー選手がテリーリー、ヴァンス・ロー選手がバンスローと登録されてたんやね。なんか間抜けな感じやなあと思うてたけれど、そうするとビンラディンもなんか間が抜けてるね。「・」という表示はそれだけでけっこうな働きをしているものなんですな。

9月15日(土)

 大事件が起こって相撲中継どころやないのはわかります。それにしてもNHKの中継の仕方はなんぼなんでもそれはないやろというのが今場所は多い。
 十両の中継がカットされるのはあきらめるとしましょう。そやけど、何日目やったかな、十両の中継をやった日に残り1番だけというところでいきなりニュースを入れたのには驚いた。しかも新事実が発表されたとかいうのやない。30分前にやったのと同じ内容のニュースをしている。これは時刻が4時になったんで機械的にニュースを入れたということらしい。
 幕内前半戦の相撲を中継でけへんで、後からまとめてビデオで見せるのはまあ仕方ないと思う。それやったらそれで1番ずつじっくり見せてくれたらええのに「それではNHK総合テレビをご覧の皆様には連続でご覧いただきます」というて一気に続けて見せた日もあった。間に力士紹介も何もはさまへん。これでは落ち着いて見てられへん。ニュースを長々はさんでカメラが両国国技館にもどったら勝負がついていたことも何度もある。そのうちの1回は物言いがついて取り直しになったらしいけれど、リプレイは取り直しの一番だけ。物言いがつくほど微妙な勝負こそ見ていて楽しいというのに。ニュースで飛ばしたんやから、それも見せてほしいよ。私はケチらんと受信料を払うて見てるんよ。いくらなんでも視聴者をなめてるとしか思われへん。
 よくよく考えたら衛星第2チャンネルではニュースも何もはさまんときっちりと中継してる。相撲が好きでじっくり見たい人は衛星チャンネルと契約しなさいということか。それはいくらなんでもセコいんと違いますか。地上波でテレビを見る者はまっとうな視聴者扱いしてもらわれへんのかなあ。今場所に限ってはNHKよりもテレビ朝日の「大相撲ダイジェスト」の方がきっちりと見られるみたいやね。
 とにかく妙な短縮放送ばっかりやって面白いところを飛ばしてばかりいるようやったら受信料支払い拒否もせねばなるまい。あ、うちは銀行口座から自動引き落としやった。拒否でけへんがな。

 明日は「たちよみの会」例会です。ぜひぜひご参加のほどをよろしくお願いします。

9月16日(日)

 今日の「たちよみの会」には、私以外には次期実行委員長も含めて「京都SFフェスティバル」の歴代実行委員長が4名。今年の京フェスの企画どころか「その企画は来年にとっておきましょう」なんて話題まで出る。SFコンベンションの企画というのは数があればいいというもんでもないし、自分たちだけ楽しかったらええというもんでもない。そこらあたりのさじ加減を、1回生の時からスタッフとして動いていき、他のコンベンションに参加する中で身につけていくんやろうなあと感じた。そういう意味では「京大SF研」という学内サークルが少しずつメンバーを入れ替えながら毎年引き継いでいく、いい意味での「伝統」というものを形作っているんやなあと少々羨ましくも、感じた。
 というのも、私が学生時代に加入していたサークルは現在では(おそらく)解散してしもうているようやし、私自身6年間も大学に通いながら年の離れた世代にうまく自分たちの作ってきたものを「伝統」として伝えることがでけへんかったという心残りがあるからですね。
 こういうことを書くと、歴代京フェス実行委員長の面々はきっと「そんなオーバーな」と思うかもしれへんけれど、「伝統」というものを作るというのは並み大抵のことやないし、スタッフとして参加していくうちに「自分の代ではこういうことをやりたい」という気持ちを自然に作り上げていくというのが「伝統」の力やと思うわけです。
 こんなこと、ここで書かんでも、本人たちに直接言うてもええんやけど、それはそれでちょっと気恥ずかしい。まあ、彼らの仲間にちょっとでも加えてもらいたいなあなんて気持ちもあって、今年は初めて合宿で自主企画をすることにした。内容はまだ秘密ですが、少しでもイベントを盛り上げることがでけたらええなあ、なんてがらにもなく思う。あとで顰蹙をかうことにならへんかったらええんやけどね。

9月17日(月)

 「別冊宝島Real021 アイドルが脱いだ理由」(宝泉薫編著)を読む。元アイドルの「ヘアヌード」の虚しさ、「熟女ヌード」の哀しさ。そういった感情がわく理由を私自身うまいこと言葉に出けへんかったんやけど、著者が納得がいくように書いてくれた、という感じかな。私はアイドルに対する思い入れが強い割に「元アイドル」が脱いでもそれほど強い感情に突き動かされるということはあらへんかった。そやけど、この著者にとってはこうした「アイドル」のヌードというのは私が感じる以上に強いなにかをもっていたみたいやね。
 私にとっての「アイドル」は字義通り「偶像」やったし、それは今も変わらへん。私にとっては「アイドル」は生身の女の子ではなかったし、理想の恋人でもなかった。「アイドル」という時代の徒花でしかない存在そのものを、その虚像であるが故に愛しく思うていたというべきか。そやから松田聖子みたいにその存在が「アイドル」を超えてしまうとそれはもう関心外に置かれてしもうたし、「アイドル」がスキャンダルを起こしてもそれでもその虚像を保ち得るのであればスキャンダルなんか気にもならへんかった。
 「元アイドル」のヌードを何の感慨もなく見られたのは、それがもう「アイドル」ではなく「アイドル」の死骸やと感じたからやろうし、私にとってはその「元アイドル」のヌードよりも彼女が「アイドル」やった頃の写真集の方がエロスの対象となるからやろうと思う。
 かつて「アイドル」に対して思い入れが強かった分、私は「アイドルが脱いだ理由」を面白く読んだし、刺激されていろいろと考えが浮かんだりもした。
 そろそろ私の中の「アイドル」に決着をつけるべく何か書こうと考え、それはおそらく「おニャン子クラブ」と「モーニング娘。」の対比やろうなあと漠然と考えていたんやけれど、このムックを読んだおかげでなんとかまとまりそうな気がする。今書き始めている原稿が一段落したら、そろそろ手をつけられるように思う。「アイドル」という虚像のはかない美しさ。なんとかまとめておきたいもんです。

9月18日(火)

 もう中畑清を解説で使うのはやめにしたらどや、日本テレビ。今日のジャイアンツとタイガースの試合をテレビで見ていたら、タイガース先発のハンセルがチェンジアップを多用しているのに対して「ジャイアンツの選手はハンセルのストレートを嫌がってるんだから、もっとストレートで勝負しなくちゃダメですよ」と言う。まあそれはそれでよろしい。そのハンセルが高橋由伸に満塁ホームランを打たれ、リプレイを見るとど真ん中の速球を打たれている。ここで中畑はなんと言うたか。「ストレートでストライクを取りにいったら打たれますよ!」。おいおい、さっきと言うてることが違うやんか。その場限りの出たとこ勝負は現役時代とまるで変わってへんけれど、それにしてもあまりにもお粗末。テレビの音声を即消して、ラジオに切り替えた。そちらの解説は牛島和彦さん。ソフトな大阪弁で実に理論的な解説をする。投手心理の分析など素人にも手に取るように解る。ただ、TBSのアナウンサーが牛島さんを紹介する時に必ず「炎のストッパー、牛島和彦さん」と言うのには閉口した。「炎のストッパー」というあだ名はカープのリリーフエースとして一時代を作った今は亡き津田恒美さんのことやないか。牛島さんは「炎」というより頭脳型のクールなストッパーでしたぞ。決め球のフォークをいかに有効に使うかという配給の絶妙さで鳴らした投手やないか。それを他の投手のあだ名で紹介するというのは牛島さんに失礼やと思うぞ。
 なんで東京の放送局の中継は解説かアナウンサーかどちらかがトンチンカンなんや。ああ、ABCのアナウンサーと解説をそのままレンタルしてやりたいわい。

9月19日(水)

 テロリズムはいかんと思うんやけれど、それに対して「処罰」(「報復」と報道されているけれど実際は大統領たちはこう言うている)などという鼻持ちならん大国意識をふりかざすアメリカ合衆国という国にも困ったもんやなあと思う。図体がでかく誰からも直接どつかれたことのないガキ大将が背中からどつかれて逆上し冷静さを失い学校のどこかの教室に隠れた相手を教室ごとぶち壊そうとしているとしか見えへんのやけど。
 その上何かというと星条旗というシンボルをふりまわして多様な国民をひとつのものにしたがるというのもアメリカという国が成熟してへんことを示してるように思う。ある放送局なんか自主的に放送禁止曲を決めたらしいけど、その中に「イマジン」が入ってるところなんか熱が出そうやね。「反戦平和」の象徴である歌は時局にふさわしくないということか。アメリカは自由の国なんてイメージが消し飛ぶね。
 ターバンを巻いてヒゲをのばしてるだけで殺されたインド系の人もいるし、過激派とは何の関係もないイスラム教徒が多数殺されているというのもなんかアメリカの民度の低さを物語ってるように思う。
 同盟関係にあるから協力はやむないとは思うけど、日本政府はあんまりアメリカに追随し過ぎるとテロの対象にされてまうのと違うか。アメリカは今ある種の躁状態にあるわけやから、そこらあたりをよく見極めて冷静な外交をしてほしいと思うね。他人の喧嘩に加勢してとばっちりをくらうというのは、他人の借金の保証人になって自分は何もしてへんのに財産を失うようなもんやないかと思う。ちょっと違うか。
 被害にあわれた方やその家族の気持ちもわかるけれど、殺されたから殺し返す、では結局のところ何も解決したことにならへんわけで、これをきっかけに本格的な中東和平が進むということにならんと犠牲者の失われた命に報いたことにならへんと思うんやけれど。これを平和ボケというなら平和ボケけっこう。私は喧嘩は嫌いです。ずるずると第三次世界大戦に巻き込まれるよりはずっとましやからね。

9月20日(木)

 昨日の晩にメールチェックをしたら「書評して下さい」と題されたやたらメールを受信し、なにか受け切れずにメールソフトが突如ダウンしてしもうた。推測するに自分の書いた小説を私に読ませて批評を聞こうというメールやないかと思うんやけれど、私は基本的に商業出版物の批評のみを仕事としているので、そういうメールやとお断りせざるを得ません。
 しかもメールが重すぎたかウィルスでも含まれていたかしてメールそのものも読むことがでけへんままゴミ箱行きとあいなってしまいました。メールを読もうとソフトを開いても必ずダウンするんやからね。これはしかたない。アプリケーションのフォルダからそのメールを外したらやっとソフトが立ち上がった。心当たりの方は、もしそういうメールやったら送らんようにお願いします。というか、私に送るよりも出版社に持ちこむなり新人賞に応募するなりした方がよろしいと思う。作家になりたいならそうしましょう。私のような三文零細書評家ではどないもしようがない。
 しかしなあ、もしアマチュアの作家志望の人が自作の小説を私に批評してもらいたいと送ってきたもんやったら「書評して下さい」は日本語としてはおかしいな。その時点で「もっと勉強しなはれ」と作品も読まずにつっぱねますぞ。まずは言葉を誤用しないこと。これです。
 とにかくただでさえ新刊を読む時間を捻出するのに四苦八苦している。その上に学習発表会のシナリオ作成なんかもしていかねばならんのです。こういうアホな日記を書いてるからというて決して暇をもてあましてるわけやないんですわ。そこのところをご理解願いたい。


てなもんや囲炉裏端 ゆっくりまったり掲示板ですお気軽にご利用下さい。

メールはこちらまで。どうぞよろしく。


過去の日記へ。

ホームページに戻る