ぼやき日記


9月1日(土)

 いよいよ新学期開始。この9月はものかきのお仕事もけっこう入っているので片付けを一段落させて本腰入れて取り組まねばならんな。

 それにしても新宿の雑居ビル火災事故には驚いた。何が驚いたというて最初ラジオのニュースで40人死亡という報道を聞きあわててテレビのニュースに切り替えたらNHKでは27人死亡17人重体と言うておる。で、民放にチャンネルを切り替えたら重体で病院に運び込まれた人も亡くなっていて44人死亡となっている。ことこの件に関してはNHKの取材の方が民放に遅れをとっておったわけで、これには驚いた。
 それからニュースでは火災の発生した3階の店を「麻雀ゲーム店」と報道してるんでてっきり麻雀のテレビゲームがずらりと並んだ店やと思い込んでいた。被害者の年齢が18歳〜55歳と言うてるんで4階の風俗店に55歳の客がいておっさんすけべえもたいがいにせえよと思うてた。ところが目撃者の証言を流しているのを聞いてたら「雀荘から爆発するような音がして……」と言うてるやないか。雀荘やったら55歳の客がいててもおかしないわな。
 「麻雀ゲーム店」と「雀荘」ではえらい違いやないか。朝日新聞の夕刊でも「麻雀ゲーム店」と書いてある。報道用語では「雀荘」のことを「麻雀ゲーム店」というんやね。ここでも報道機関が「言葉」というものをいかに粗略に扱うているかがわかり、ほんまに驚いた。「雀荘」という用語に何の不都合があるんや。「雀荘」は「雀荘」。「麻雀」をする店であって「麻雀ゲーム」をする店やあらへんぞ。「雀荘」という言葉は関係者だけの符丁とは違う。世間一般に認知された呼称でしょう。なんも「麻雀ゲーム店」なんちゅうインチキくさい言葉に直す必要はないやんか。なんで放送局や新聞社はそういう「言葉」のねじ曲げ方をするんやろう。「雀荘」がまるで差別用語であるかのような言い換えをする必要はあるのかなあ。
 あらためてわけのわからん造語を作ってそれがさも正しい表現であるかのようにするのはやめてほしいなあと思うた次第。

9月2日(日)

 いやはや断片的な情報で物事を決めつけてはいけませんな。
 昨日の日記で報道が「雀荘」を「麻雀ゲーム店」と表記するのはけしからん旨書いたけれど、今朝の新聞を読んだらくだんの新宿歌舞伎町火災事件の『麻雀一休』なる店は20台ほどの麻雀テレビゲームを設置している店やと書いてあるやないか。つまりテレビなどの報道は全く正しい表現をしていたわけで私のぼやきは完全に見当はずれのもんやったわけですな。お恥ずかしい限りであります。
 ということは、目撃者がインタビューに答えていうていた「雀荘」が誤りやったというわけやね。さて、ということは、なんで目撃者が「麻雀ゲーム店」を「雀荘」と言うたか。私を見当違いのぼやきに走らせた原因がそこにあるだけに、気になるところではある。
 おおまかに考えて2つ原因が考えられる。一つはその目撃者は『麻雀一休』という店について実態を知らずただ看板を見て「雀荘」と思い込んでいた。一つは新宿歌舞伎町では昔ながらの「雀荘」がすたれて「麻雀ゲーム」を置く店のことを「雀荘」と呼ぶようになってしもうている。
 もし後者やとしたら、別に学生時代雀荘に入り浸っていたわけやないけれど、それはそれで寂しいものがある。遊技としての麻雀が人と人が直接対峙するものやなくテレビゲームやネット上で争われるものに変質しているということになるからね。私は子どもの頃に父に家庭麻雀で遊び方を教わって一通り打ち方は知っているわけやけれど、あれは相手の表情やら癖なんかを見ながら打つとこに面白さがあるんやからね。テレビゲームの麻雀が普及することでそういった文化が失われてるとしたら、寂しいどころかちょっと恐ろしい気がする。
 まあ、たぶん前者やろうけれどね。『麻雀一休』という看板だけ見たら私も「雀荘」と言うていたやろうな。もっとも雀荘には独特の雰囲気があるから実際に歌舞伎町に行ってみんとこばっかりはわからん。
 それにしても断片的な情報だけでものを書くことの難しさを改めて感じました。時事ネタを扱う時は気をつけないかんな。

9月3日(月)

 引っ越して以来1ヶ月がたった。本の入った段ボール箱とCDの入った段ボール箱はなんとか全部開いて手当りしだいに棚に詰め込んでいき、やっとのことで収納はできた。ところが順番はバラバラなんで、資料として本を探したりするのにしてもいちいち全部の棚をひっくり返すようにせんといかん。CDとなると聴きたいCDがすんなり出てこない。落語のCDだけは箱詰めした時に分けておいて棚におさめる時も順番を確認したからちゃんと出せるんやけれど、これはクラシックなどのCDよりも相対的に数が少なかったからできたこと。
 というわけで、まずは本より数の少ないCDの方を並べ直すことにした。まずは雑然と棚に並べられているCDから交響曲だけ抜き出す。ちょっとさわると崩れ落ちそうに積んだCDを一枚ずつ確認して作曲家別に分ける。次は各作曲家の交響曲を番号順や指揮者別に並べる。その作業がすんだら作曲家の年代別にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズてな具合に順番に棚に入れていく。少しやり始めただけでひいふう言うておる。これをこの後管弦楽曲、協奏曲、器楽曲、室内楽曲、声楽曲、アイドル、コミックソング、ポップスてな具合に繰り返さんならんわけですな。こらしんどい。
 さらにそれがすんだら文庫本の棚をひっくり返して日本SF、海外SF、ヤングアダルト、時代小説、日本ミステリ、海外ミステリ、ノンフィクションと繰り返し、それから新書、ハードカバー、漫画……。ううむ、1年以上はかかりそう。その上に新刊や新譜が加わるわけでしょう。むろん毎日ちゃんと仕事には行くわけやし、原稿も書かねばならんし、適当に紙袋に突っ込んだ細々としたものの整理もしていかんならん。いやもうこうやって書いただけで気が遠くなる。
 まあ無理をせんとぼちぼちやりますか。なんか「前途遼遠」というのはこういう時に使う言葉なんやなあと実感してますわ。ああしんど。

 明日は所用で遅くなるので更新はお休み。次回は水曜深夜の予定です。

9月5日(水)

 今週発売の「週刊朝日9/14号」に掲載されている「マリコのここまで聞いていいのかな」を読んで感じたことを書く。これは作家の林真理子さんが聞き手となって各界の第一人者と対談する連載。今週号のゲストは宮部みゆきさん。宮部さんの人柄がにじみ出た対談となっていて、まあそれはそれでええんやけれど、林さんの発言に疑問を感じる箇所があった。以下、引用する。
「今、ミステリーで、強姦シーンとか殺人シーンを、微に入り細をうがって、書きながら酔ってるんじゃないかと思うぐらい書く人がいて、私、ページを飛ばしちゃうんですけど、宮部さんはお人柄なのか、そういうところ、すごくさらりと書いてますよね」。
 確かに個人の趣味として読書をする場合、嫌な場面は飛ばし読みをしてもかまわんやろう。ただ、この発言をした林さんは「日本ホラー小説大賞」の選考委員やということを考えたら、この発言はあまりにも不用意やないかと思う。ホラー小説に強姦シーンや殺人シーンが必要不可欠とはいわへん。そやけど、ストーリー展開上そうしたシーンを「微に入り細をうがって」書く必要のある小説もあるわけやろう。そうした作品は必ずしも「書きながら酔ってるんじゃないかと思うぐらい書く」かどうかは読み手からはわからへんことで、しごく冷静な計算に基づいて「微に入り細をうがって」書いているかもわからん。林さんは恋愛小説を書く時にその恋愛描写を「書きながら酔ってる」のかもしれへんけれど、誰もが林さんと同じ書き方をしているわけやなかろう。そういった先入観や偏見で「日本ホラー小説大賞」の最終審査に臨んでるととられても仕方のない発言やなかろうか。
 これならば牧野修さんが「スイート・リトル・ベイビー」で「日本ホラー小説大賞」の佳作を受賞した時のとんちんかんな選評にも合点がいく。その時林さんはありもしない「強姦シーン」に対して批判的な選評を書いている。もしかしたらその時彼女は「ページを飛ばしちゃ」ったのかもしれん。でないとああいうことを書いた理由に辻褄が合わへん。いや、実際は飛ばし読みはしてへんかもしれへんよ。それでもこの発言を読むとたとえ飛ばし読みをしてへんでも嫌なシーンに目をそむけるようにして読み勝手に「強姦シーン」があったと思いこんだんやないかという疑いがわいてくる。たとえ飛ばし読みをしてへんでも、そうしたんやないかという疑問の残る発言ではあるわな。
 この発言は「日本ホラー小説大賞」の選考委員としては非常に問題があると思うし、こういうような姿勢で作品を読んでいる人に選考委員をまかせてええんやろうかというように感じる。
 この発言、「日本ホラー小説大賞」の関係者の人たちが読んだらどう思うやろう。そういったことを考えると実に不用意な発言やなと、選考委員としての林真理子さんに対して感じたんでありますね。

9月6日(木)

 今日から私は満39才。ううむそうかそうか。予定ではもうとうに国民栄誉賞と上方お笑い大賞とブルーリボン助演男優賞とノーベル文学賞を受賞しているはずなんやけれど、なかなか予定通りにはいかぬものであるなあ。あ、第1回「おひさま大賞」優秀賞というのがあったか。なんだかもうものすごい過去のことになってしもうてる。人間、過去の栄光にすがるほどみっともないことはないですね。今を生き、未来を生きるのじゃ。ただ、その未来が1年ずつ減っていっていると思うとつらいなあ。

 あの、大きな書店に行くと店内で女性の販売員さんが英会話教材のチラシを配ってるね。私はもろたことないんやけれど、あれってちゃんと商売として成立してるんやろうか。一度だけ若い女性がチラシをもろて販売員さんと話しこんでいるのを京都の「丸善」で見かけたことがあったけど。たいていの人は素通りしてるやんか。それでも人を雇うてずっと営業は続けているわけやから、それなりにあのチラシを見て英会話の教材を買うたり教室に通うたりする人はいてるんやろうね。そやなかったらとっくの昔に販売員さんは書店から姿を消してるはずやから。
 ほかにも商売として成り立ってるかどうかようわからんものはあるね。駅前で配られてるポケットティッシュを見て消費者金融に金を借りに行く人はどれだけいてるんやろうか。あれだけ配ってるんやからそれなりの宣伝にはなってるんやろうけれど、元はとってるんかなあ。フィットネスクラブが駅前でうちわを配ってたりするけれど、あのうちわであおいでいるうちにそこに通おうという気になる人はどれだけいてるんやろう。書店で本を袋に入れてもろうたらよく入ってる結婚相談所のチラシもどれだけの対費用効果があるのかわからん。まああのチラシにはハガキがついてるからなにかのついでに出すという人もいてるんかもわからんけど。昔学習塾に勤めていた時に塾生募集のチラシを作って団地のポストに投げ込んでいったことがあったなあ。あれもあんまり効果がなかったような記憶がある。それよりもダイレクトメールや新聞の折り込みの方が生徒が集まったんやなかったか。まあ塾なんてのは子どもや親の口コミが一番効果があったりするんやけれど。
 町を歩くといろんなものを配っていて膨大な量のゴミになってるように思うけど、なんか効率が悪いように感じるのは私だけかなあ。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるとはいうけれど。ああいうものがなくなるだけでかなりすっきりするんやけどなあ。

9月7日(金)

 ホルスト作曲「惑星」組曲の新譜を買う。マーク・エルダー指揮ハレ管弦楽団の演奏で、このCDの特徴は、原曲に加えて新作の「冥王星」が演奏されていることなんです。
 ご存知ない方もいてはると思うので簡単に説明しておくと、ホルストがこの「惑星」を作曲した1914年の時点では「冥王星」の存在は一般には知られてなくて、「火星」「金星」「水星」「木星」「土星」「天王星」「海王星」の7曲で構成されている。太陽系の惑星のうち、「地球」と「冥王星」が欠けているということですな。
 もっとも、「冥王星」が知られていたとしたらホルストは現在「海王星」として知られている曲を「冥王星」にしまた違った曲を「海王星」として作曲してたんと違うかと思う。つまり「海王星」という曲は太陽系の一番端の星という位置付けで深遠な宇宙に消えていくようなイメージで作られているのですね。そやから終曲が「冥王星」でもなんの不都合のない曲想になっているわけやね。
 なんか一つ星が欠けているのか気になる人はいるもので、ハレ管弦楽団の前任の音楽監督ケント・ナガノはコリン・マシューズという作曲家に新たに「冥王星」を作曲するよう依頼、2000年5月に初演された。「惑星」という曲自体「海王星」で完結しているわけやから、そこにいったいどんな曲を付け加えたか、実に興味深かった。さっそく聴いてみる。
 音が深遠な宇宙に消えていった後、前衛音楽のような曲想の動機が現れ、いきなりジョン・ウィリアムスばりの派手な動機に変わり、また前衛的な動機に戻って曲が終わる。なんやこれ。せっかく女声合唱の神秘的なたたずまいで外宇宙への距離間がでているのに、なんか中途半端な音楽をくっつけて「惑星」という組曲全体を貫くテーマをぶち壊しているとしか思われへんかった。私はコリン・マシューズという人が他にどういう曲を書いているんか知らんのでこの人選が作曲を依頼した時点で適当やったかどうかの判断はつかへんのやけれど、結果としてできあがったものを聴くと失敗やったと言わざるをえんね。
 どうせやったらジョン・ウィリアムスに作曲を依頼したらよかったんやないかな。「スター・ウォーズ」の音楽なんかは「惑星」の影響を受けている部分が明らかにあるし、どうせ派手に盛り上げるんやったらジョン・ウィリアムスの方が格段にうまかろう。
 この「冥王星」の作曲はいうたらシューベルトの交響曲「未完成」に新たに3・4楽章をつけ加えたりするのといっしょ。それよりも21世紀の音楽として新たな「惑星」組曲を作曲した方がよかったんと違うかな。ケント・ナガノもよけいなことをしてくれたもんです。まあ、今後新たに「惑星」を演奏、録音する指揮者がこの「冥王星」をつけ加えた形にすることはほとんどないと思う。そういう意味ではこの新譜、珍盤ということで残るかもしれへんね。演奏自体はスタンダードで立派なものだけに「珍盤」扱いするのはもったいないんやけどね。

9月8日(土)

 携帯電話への迷惑メールが絶えない。たいていは出会い系サイトの宣伝なんやけれど、たちの悪いのになると立て続けに5回くらいメールを送ってきたのがある。返信しても宛先不明で戻ってくる。ひどいのになると私が私にメールを送った形にしたのもある。自分に返信して抗議してどないする。なんでもランダムにアルファベットを並べてメールを送れるソフトがあるらしい。
 対抗手段としては頻繁にアドレス変更をするしか手がないのかもしれへんけれど、有料情報サイトと契約したりしてるから、ちょっと変えにくかったりもする。
 ふと気がついて送られてきたメールからその出会い系サイトにいって「お問い合わせはこちら」と書かれているアドレスに抗議のメールを出してみることにした。まだ1件くらいしかしてへんけれど、果たして効果はあるのかどうか。かえって相手を刺激してアドレスをもっといろんなところに流されたりしたらかなわんしなあ。
 他にも迷惑メールに悩まされている人は多いと聞く。なにか有効な対策はないものか。ご存知の方がいてはったら、ぜひ教えていただきたい。いきなり着メロが鳴りだしてあわてて見たら「激しいHをしたい女の子がいっぱい待ってます」てなメールやったりしたら「いつまでもずっとずっと永遠に待っとれ!」と文句を言いたくなる。みなさん、ほんまにええ方法はありませんかねえ。

9月9日(日)

 久しぶりに予定の入っていない休日。こういう日は原稿書きに集中せねばとキーボードに向かうやけれど、これが書かれへんのね。書評の原稿やと自分なりに書き方が身についているんで頭の中でほぼできあがってる状態でキーボードに向かうんやけれど、SF大会の企画レポートとなるとまた違う。かなり書くのが難しい企画ではあるんやけれど。結局書き切れず明日に日延べ。ほかにも書かんならん原稿はあるんやけれど、まず大会レポートを書いてしまわんと。ああきつい。

 神戸中国道中一女子殺害事件の容疑者が逮捕された。なんと34才の中学校教師。同業者でしたか。しかしなあ、私は以前中学校で講師をしていたけれど、毎日接すれば接するほど中学生の女の子なんて異性として見ることがでけへんようになるけどね。子どもやもん、明らかに。まだちゃんとした人間になってへんように思うもんな。それが自分の教え子やなかっても、例えば中学生の女の子が道を歩いているのを見たとしても「おっ、ええ女!」とはまず思わへんなあ。「10年後が楽しみ」くらいは思うことはあるけどね。
 私が中学校で講師をしてたのは20代後半。今回の事件の容疑者よりも生徒と年は近かったわけやけれどとても恋愛の対象とは思われへんかったね。そやけど、この容疑者は違うかったみたい。ここらあたりになるともう個人的な趣味の問題なんかもしれへん。
 新聞記事では「採用時にきっちり面接をして」とか「採用後に研修をちゃんとして」なんて書いてあるけれど、いくら厳しくそれらを行ってもこういった犯罪がなくなるとは思われへん。自分も教師という立場でこんなことをいうのもなんやけれど、教師には純粋培養で社会的な常識を身につけへんまま「先生」と呼ばれて人間が歪んだと思われるような人も中にはいてるとは思う。それはもう採用時に生育歴やアルバイト歴やなんやらかやら個人的なことを洗いざらい調べて心理カウンセラーに面接させて、それでもやっぱりどうしようもないという問題やと思う。
 被害者の中学校の生徒が「やっぱり教師は信じられない」とか言うておる。そやけど、被害者の中学生かてテレクラを利用して男と会うたりしてるのですよ。それを全体に敷衍して「今時の中学生は誰でもそんなことをしてる」と決めつけられるのと同じことやと思うんやけどね。そこらあたりがわからんところがまだ子どもであるということやろう。容疑者はそういうまだ考えが浅いような子どもの方があれこれと考えながらつきあわんならん大人の女性よりもつきあいやすかった、ということやろうか。34才やろ。毎日中学生と接してたら頭の中身も中学生みたいになっていったということかいな。

9月10日(月)

 ううう。SF大会レポートは書くには書いたんけど、読み返すまでもなく文章が硬い。まるで職場の上司に提出する出張報告書みたい。これではあかんな。これをベースに書き直すしかないか。ああもう次の原稿にいつ移れるのやら。

 私の職場の同僚の先生が、娘さんに「なんでお父さんもお母さんも教師なの」と責められたらしい。気の毒としかいいようがない。教師が不祥事をおこしたら、なんかもう教師全体が虞犯者であるかのように思われるのはかなわんよ。
 「中国道中1女子放置死亡事件」ですか、なんか「寿限無」みたいな命名ですな。殺人事件やないからこういう命名しかしようがないのはわかるけど。で、その容疑者の教師やけれど、やったことがやったこととはいえ、今日のスポーツ新聞で「レンタルビデオ店にスーツ姿で毎月数回、『少女レイプもの』頻繁に借りる」と書かれていたのは気の毒ではある。こういう犯罪をした奴はもともとそんな趣味の奴やったんやから、きっと犯人に違いない、という紋切り型の警察発表ですな。
 あの「Mくん」のビデオが山積みにされた部屋の写真もそうやったけれど、犯罪と直接関わりのないところまで公開されたらたまったもんやないで。男性にしろ女性にしろ、誰にかてあんまり公開されたくないところというのはあるわけで、もしこれが冤罪やったとしたら、逆に新聞社は名誉毀損で訴えられても仕方ないのと違うか。逮捕されたらなにを書かれても我慢せんならんのか。
 これを発表した警官や報道した新聞記者はよほど聖人君子とみえる。人の恥部を暴いて自分自身後ろめたさを感じないのかしらん。社会正義のためならなにをしたかてかまへんという傲岸不遜な人間であることよ。
 別に私はこの容疑者が犯したと見られる犯罪に対して弁護する気は特にはあらへん。そやけど、なにもここまで公開せんでもええやないのと思うばかりやね。


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