ぼやき日記


11月1日(木)

 常々感じてることなんやけどね、交差点の交通信号のところに例えば「北喜多哲」「南喜多哲」てなぐあいに地名を示す標識がついてあるね。で、あの標識にはローマ字で「Kitakitatetsu」「Minamikitatetsu」というようにふりがなが打ってある。漢字の読まれへん外国の人に対するサービスなんやと思うけど、それやったらひらがなのふりがなも打った方がええと思う。難しい漢字を使うた地名もある。漢字の読み方がわからん地名もある。ローマ字のふりがなでもその読み方はわかる。そやけど、自動車や単車を運転しててそこそこのスピードを出している時に、あのローマ字のふりがなというのは、一瞬の間に判読でけへんことがままある。ついでにひらがなのふりがなもあった方が助かる地名もあるよね。
 実はこれ、バリアフリーという発想にもつながる。知的障害者には漢字は読まれへんけれどもひらがなならなんとかなるという人はけっこう多いはず。実際、私の勤務している学校に電車通学をしている生徒たちが駅を間違えずに電車に乗れるのは、ホームに掲げられている駅名の表示板にひらがなが用いられていることもかなり大きいと思う。
 障害者だけやない、漢字もローマ字も苦手という人も、特に年輩の方にはいてるやろう。そういう人たちにとってはあの地名標識は何の意味もないものやろうね。
 標識のふりがなにローマ字だけがあってひらがながないというのには、なんかバランスの悪さを感じる。ごてごてと書き過ぎるとかえって読みにくいというのなら、いっそのことふりがななんかふらん方がまし。ささいなことやけれど、実に気になる。なんであれ、ひらがなのふりがなをつけてへんのやろうね。

11月2日(金)

 今日は勤務校の創立記念日で休日。原稿書きにいそしむ。
 子どもの頃から「創立記念日」がどうやって決められてたかについては不思議に思うていた。そうかて「学校ができた日」というのは何をもって起点とするのかわからんでしょう。それもなんかうまいこと連休につながるようにできてたりする。
 今の勤務校は4年前に独立した学校で私が最初に赴任した時は別の学校の「分教室」やった。そやから「創立記念日」がどうやって決められたかを最初から知ることができた。実は「開校式」は4月2日。学校の名称が決定し校長が任命されたのは1月1日。それをもって「創立記念日」にすると休みが増えへん。いくつか「創立記念日」の候補があったそうな。建物のくわ入れをした日、建物が竣工した日などなど。その中から今日11月2日となった根拠というのが確か「入札した建築業者の中から実際に施工する業者が決定した日」かなんかやったと思う。「契約をかわした日」やったかもしれへん。
 なんでそんな日が「創立」になるんやと思うけど、要は休業日にしたい日で学校建築に関わった理由が何かあったらええということやねんな。他の学校の「創立記念日」はどういう根拠で決められてるんやろう。どなたかそういうのばっかり調べたサイトをつくりませんか。そんな暇な人はいてへんな。

11月3日(土)

 いちおう原稿を書き上げる。まだ見直ししたいところがいくつかあるので、一晩寝かしておいて明日じっくりと読み、加筆修正することにする。一日中モニターを見つめていたんで目が疲れた。根を詰めて書いたんで立つと少しふらつく。今日は早く寝よう。

 コンビニで「超人ヒーロー伝説」というラムネ付きフィギュアを見つける。コナミの発売。バンダイもそうやけど、おもちゃの会社がお菓子業界に参入してるというてええのかな、こういう場合は。いやしかし、箱を見て苦笑しましたよ。マグマ大使にスペクトルマン、快傑ライオン丸、ザボーガー、ストロングザボーガー、タイガージョーというラインナップ。他にもシークレットキャラクターが封入されているらしい。箱に書かれてるシルエットを見るとゴアさまと宇宙猿人ゴリみたいやね。ピープロダクションのキャラクター集合ということになる。
 この市場が全体に中年のおっさんを対象にしていることはだいたいわかってたけれど、ここまでくると子どもの消費者なんか眼中にないと言わざるを得んね。ビデオ化もほとんどされてへんような作品のフィギュアですぞ。今の子どもが知るはずあらへんやん。私らにとっては懐かしいキャラクターやけどね。今の子どもがゴア様が出てきたというて喜んでたら、そらそっちの方がこわい。おまえいくつやねんとつっこみたくなる。
 しかし、お菓子付きフィギュアもここまできましたか。次の狙い目は愛プロダクションシリーズやな。レインボーマン、コンドールマン、ダイヤモンドアイなんちゅうところであります。レインボーマンは7体全部ほしいとこやね。ついでに魔神バンダー、突撃ヒューマンやら円盤戦士バンキッドなんてところがあると最強かも。いやいや冗談やない。ネタが尽きてきたらそこまでいくのはおおいにあり得る。

11月4日(日)

 昨日の雨ですっかり冷え込んだ。今日は風が強くさらに冷え込んだ。明日は天気がよくなってもっと冷え込むらしい。ついこないだまで日中の最高気温が20度を超えてて、仕事中は半袖を着たりしてたのになあ。こらセーターの一つも引っ張り出さんとあかんのと違うか。
 ラジオで気象予報士の人がこの冷え方を説明していた。昨日みたいに雨がふって冷えるのを「雨冷え」、今日みたいに風が吹いて冷えるのを「風冷え」、好天で放射冷却のために冷えるのを「底冷え」というんやそうな。「底冷え」は知ってたけど、昔からあるこういう言葉の感覚というのはきちっと記憶しておいて次の世代に伝えていかねばならんと思うね。
 例えば「小春日和」やとか、「秋晴れ」やとかいう言葉がそれにあたるのと違うかな。四季の表情の変化を五感を使うて感じとり、なんとか言葉で表現しようとしてきた、そういう先人の工夫というものが感じとれるね。言葉というのはもともとそうしたもんやし、日本列島というのは四季のうつろいやら季節の変化に応じて微妙に変わる雨や風によってその文化が育まれてきたんやなあと思う。
 それはともかく、そろそろ「木枯らし第一号」が吹くらしいから冬仕度もしていかなならんということやね。今年の夏あれだけ暑くて汗をじゃーじゃー流してたのが嘘みたい。

11月5日(月)

 本日発売の「週刊DIAS」に「岡田監督待望論」の記事が掲載されていることを新聞の広告で確認し、帰りにコンビニで立ち読み。私の寄稿した原稿用紙1枚分のコメントはどう料理されてるやろかとわくわくしながらページを開く。いやあ、ほとんどがカットされてますな。わずか5行程度が引用されてるだけ。しかも私は「ファームの試合もほとんど見ている童話作家」と説明されている。見てへん見てへん。週刊誌の記事というのはこうして作られるのですな。おもろいといえばおもろいけど、喜多なる人物はいったい何者と思われるかもね。私は「一軍の試合をかなりテレビで見ている兼業書評家」であります。誤解のないように。
 先日、勤務校で撮影のあったNHK教育テレビの「ストレッチマン」がテレビで放送されたので録画して見たけど、こもあれだけ時間をかけて撮影したのをみごとに刈り込んで5分ほどにまとめている。私はその時の日記にも書いたけれど、その撮影風景を見学している。あれこれと注文をつけたのもあんな具合に編集するためなんやなあと感心した。撮影されている最中にディレクターは放送されている映像を頭に浮かべながら注文をつけてるんやろうけれど、うまいもんです。
 なんにせよ、週刊誌やテレビの編集作業というのは集めた素材をいかに刈り込むかに勝負がかかってるんやろうな。そこらあたり見せ方はけっこう参考になるねえ。

11月7日(水)

 昨日は所用で夜遅くに帰宅。更新ができませんでした。実は前々から用事があることはわかってたんやけど、忙しさにまぎれて忘れてしもうていて、朝になって思い出した。もうひとつ思い出したことがあるんやけれど、そちらは週末になんとかしたい。忙しさを喧伝する気は毛頭ないんやけれど、余裕がないのは事実やね。せっかく招待していただいたSFのイベントにも結局欠席せざるを得んかった。ほんまに余裕がない。

 急に冷え込んできたので引っ越して初めてリビングの「温水床暖房」なるものを使用する。フローリングの床にべったり座るわけにはいかへんのやけど、椅子に座ってる時にはスリッパを脱いで靴下の上からほかほかと熱が伝わってくるのを感じてみる。
 ううむ、ぬくい。ストーブで部屋全体がぬくもるのとはまた違うぬくさやね。あたりまえやけれど。ただ、床に接している部分はぬくもるけど、それ以外のところはそれほどぬくもらへんのが難点か。畳敷きにこたつでぬくもる方が効率はよさそう。
 最近の新築マンションはたいてい床暖房が標準仕様でついていて、新居に決めるまで何ケ所かモデルルームを見てまわったけど、ほとんどのマンションに設置されていた。今日使うてみて、ないよりあった方がええとは思うたけど、標準仕様にせんなならんほど魅力的なものというようにも感じなかったなあ。けっこうガス代を食うらしいし。
 ま、なんにせよ、暖房機具がほしくなる気候になったということです。暦の上では今日が「立冬」やそうやけど、確かに冬が近づいてきたという実感はあるね。前の住まいは壁がコンクリートむき出しのところに白ペンキを塗っただけというなんぼがんがんあっためても暖気が逃げていく部屋やっただけに、今年は少しはましになるやろうと期待はしている。床暖房の使い過ぎには気をつけたいところではあるけどね。

11月8日(木)

 朝日新聞の朝刊に毎週十代の若者が悩みやら意見を寄せてそれをものわかりのよさそうなアーティストやらクリエイターやら民営の学校のスタッフやらがいかにも共感しているふりをしながら実につまらん平板な解答をしている「ティーンズメール」なるコーナーがある。私はそのくだらなさが好きで毎週読んでいる。読みながら「子どもも情けなければ大人も情けないのう」とせせら笑っておるのだ。ひとりピーコさんだけがまともでつまらん悩みにがつんとまともに説教を食らわせてる。なに新聞に投稿する若者たちも実は説教してもらいたいがために投稿してるんやから、ピーコさんの姿勢は実に正しい。大人が子どもに無理に共感してどないすんねん、と思う。
 今日は18才の大学生が「上京してきたが東京の大人たちはせわしなくゆとりがないのにがく然としている」という主旨の投稿があって笑うてしもうた。私ならこういう投稿には「暇があって金がないのが学生で暇もなく金もないのが勤め人で暇があって金があるのが成功者です。あなたは東京に住む人々の全てを見たわけではない。わかったようなつもりになって愕然とする前にほんまもんの金持ちの家で家庭教師でもしてみなさい。余裕のない階層と余裕のある階層があるのです。余裕のない人間がせかせかしているのを見るのが嫌なら政治家になるか革命でも起こすかして東京に住む全ての勤め人に余裕と潤いのある生活を保障したらよろしい。せわしなくしている人はまだ幸せです。失業率は高くなり、生活に苦しんでいる人たちがたくさんいるという事実があるのです。四畳半一間風呂なしの安アパートにでも下宿して、金はなく暇はあり余裕がない階層にじかに触れてみなさい」とでも書くところやろね。
 ところが本日の回答者の白井智子さんという「ドリームプラネット・インターナショナルスクール・チーフスタッフ」の肩書きを持つ人物は、「私もそんな『ゆとりのない大人』の一人かもしれない」と自己批判をし、「絶対にならないと誓った『守りに入った大人』『余裕のない大人』になっていた」と慨嘆し、「私は、また、自分がすべきことから始めます」と意志表明をしている。こら、子どもに引きずられて自分まで悩んでどないすんねん。子どもを叱らん大人が多くなると子どもは健全な発達をせずバランスの取れた人格形成がでけへんということを、私は障害児教育を通じて知った。こういう増長した子どもには大人がしっかりと指導してやらんと自分の狭い視野が全て正しいと思いこむゆがんだ大人になることは目に見えてると思うけどね。
 いやほんま、このなんともいえん一種異様な問答が実におもろい。朝日新聞というと大阪版の伝統であるほんまもんの大人がアホらしい質問におおらかに回答するというものがある。歴代回答者は中島らもさん、寒川猫持さん、チチ松村さん。それだけに、東京と大阪の対比ができてさらにおもろい。この違いはどこからくるんかね。
 結論。確かに東京にはゆとりがない。そんなもんも知らんと上京し。勝手に失望する若者があかん。

11月9日(金)

 本日、「S−Fマガジン」編集部より「SFが読みたい2002年版」用のベストSFアンケート用紙が送られてくる。またまた悩む季節が来たなあ。
 リストを前にしばし黙考。ペンを片手にまず読んだ本をチェックしていく。その中からあまり高く評価しないものを消していく。残ったものからこれだけは外せないというものを選んでいく。投票する冊数は5冊だけやから、そこから5冊を選んでいく。一作家一冊とする場合もあるし、その作家が面白いものを連続して出していたら結局は一度外したものを復活させる場合もある。どうしても5冊にはおさまらん。
 そういう場合はどうするか。いきなり大所高所に立って自分がその本に投票したがためにバランスを欠いた投票結果になるということがないように決めたりする場合もあるけれど、私はそこまで偉い人間やないんで、そんなことはしない。読了後すぐに書いた感想、つまりこのページの「読書感想文」のコーナーを収めたファイルを開き、読んだ時点でどう感じたかという記憶を掘り起こす。そうすると自然に順位も決まってくる。
 できればこれは一日寝かしておいて翌日にこれでええのかと検討する。これでよしと決まれば気が変わらへんうちに編集部に送る。
 さてさて、今年はどうしよう。いろいろ悩みながらも最後は自分の直感でえいやっと選んでしまうんやろうなあ。まだ書けてへん原稿があるから、それを書き上げたらにしよう。実は1位だけはもう決めてるんです。それは来年に「SFが読みたい」が出てからのお楽しみ。

11月10日(土)

 実家の家族が遊びに来た。前の住まいは遊びに来てもろうてもなかなかくつろいでもらわれへんかったからね。こちらも落ち着いてきて来客に対応できるようになってきた。転居してよかったことのひとつであります。

 同じ階に住む小学生の男の子がいる。やんちゃな感じの子やけど、人なつこくてかわいらしい。時々、朝家を出るときにいっしょにエレベーターに乗ることがある。「おっちゃん、お仕事、なに?」ときいてきた。私は背広も着てへんしネクタイもしめてへんから、外見から職業を想像でけへんかったと見える。「学校の先生をしてるねん」というと、ふうんとだけ言うてその時は終わった。しばらくしてまた同じ時間にエレベーターを待つ機会があった。「おっちゃん、学校の先生やねんやろ」。と話しかけてくる。「学校でなにしてるの? ペンキ塗ってるんか?」。ううむ、意表をつく質問や。確かになあ、その時の服装はベージュ色の綿のチノパンに銀鼠のコンバースのスタジャンで作業でもするようなかっこうではあったけどなあ。子どもにしたら学校で働いている人はみんな先生やから、もしかしたら用務員さんかと思うたんかもしれへん。私は彼には教師には見えへんかったんやろうかなあ。「お勉強を教えてるんやで」と答えると、この前みたいにまたふうんと返事をして黙ってしもうた。さて、この次に話しかけてくる時はどんなことをきいてくるんやろう。「ペンキを塗ってるんか」ときかれた時には予想外のことでちょっと動転してありきたりな答えをしてしもうたからね。今度はちょっとはおもろい返事をしてやらねば。さあ、おっちゃんはもう心の準備ができてるぞ。どっからでもかかってきなさい。
 そやけど、子どもというのはほんまにおもろいなあ。相手に気を使わへん分、ストレートな言葉が出る。おっちゃんは大人や。子どもには負けてられへんぞ。


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