ぼやき日記


2月11日(月)

 刷りこみのこわさとでもいうんかなあ。冬季オリンピックの開催されているソルトレイクシティという地名を聞くと、なんか危険なところというような感じがしていかん。
 と書くと、勘のいい方にはもうおわかりかと思う。シャーロック・ホームズ第1作のコナン・ドイル著「緋色の研究」で、ソルトレイクとモルモン教はもうむちゃくちゃな書かれようをしているんでありまして、私は久米元一の翻訳した子ども向きの本で小学生のときに読んだんやけど(「赤い文字の秘密」というタイトルやった)、その印象が強すぎる。
 読んでない方もいるかもしれへんので、あんまりくわしく書くのはやめとくけど、ブリガム・ヤングなる教祖率いる邪教の集団で、裏切り者は平気で暗殺してしまう、という描き方。そのあとで読んだ山中峯太郎翻案のもの(「深夜の謎」というタイトルのポプラ社版)ではさらにどぎつく描かれている。登場人物紹介に「怪人ヤング」と書かれてるんですからねえ。モルモン教の信者の人が読んだら卒倒するぞ。
 そういうモルモン教観はビクトリア朝時代の英国紳士の常識やったんかもしれへんけど、それにしても偏見の塊。おかげで中学生のころは「ブリガム・ヤング大学」という名前を聞いただけで「退学しようとしたら暗殺されそう」などと思うたりしたんやから、今思うと失礼な話ですわ。モルモン教の布教のために自転車で走り回っている白人男性たちを見て、その印象はかなり変わったけど。
 今でも「緋色の研究」は完訳版が刊行されている。今はちゃんと解説でモルモン教に対する偏見があることを示しているんやろうとは思うけど、私の子どものころはそんなことわり書きはなかった。私と同世代で子どものころに「緋色の研究」を読んだ人は私と同じような刷りこみがなされているはずやけど、どないして克服しはったのかな。
 ほんまに子どものころに読んだ本の影響は大きいと思うぞ。

2月12日(火)

 今朝は新聞休刊日。そやから朝は新聞受けを見ないでそのまま朝食をとる。仕事に出かける時に新聞受けを見たら、なんと新聞がはいってるやないか。讀賣新聞や。特別版と書いてある。そのまま出かけたけど、こんなん宅配してるんやったら、休刊日の意味がないやんか。
 いつも休刊日は駅売りのスポーツ新聞をコンビニで買う。今朝もコンビニに寄って愛読してる日刊スポーツを買う。あらら、スポーツ紙だけやないぞ。一般紙も並んでおるではないか。朝日新聞まであるぞ。結局朝日も買う。
 だいたい新聞休刊日というのは宅配する新聞販売店にも休日を、という主旨でもうけられてるわけで、新聞記者まで休むわけやない。そやからスポーツ新聞みたいに駅売りだけ発行してもおかしくはないわけやけど、何もそこまでする必要があるんかなあ。連載記事なんかは基本的には掲載されてへんし、ニュースだけやったらテレビ、ラジオ、あるいはインターネットで十分知ることができる。速報性という意味ではテレビなどには逆立ちしても勝たれへんわけやしね。
 宅配の一般紙というのは結局はニュースを掘り下げた解説が目当てで読んでいるというところが、私にはある。そういう記事の面白いのは連載の形をとることが多い。それならば休刊日にわざわざ駅売りのものを出さんならんこともあるまいに。オリンピックの記事やったらスポーツ新聞にまかせといたらよかろう。なにもスポーツ新聞のまねを一般紙がせんでも、と思う。
 宅配の売れ行きが落ちてきて、駅売りやコンビニ売りの比重が高まってるということなんかなあ。それともオリンピック報道のためなんかなあ。そこらあたりは、次の新聞休刊日にまた駅売り用の新聞が発行されるかどうか、そこでわかるか。

2月13日(水)

 最近は電子楽器の元祖としてテルミンがもてはやされているけど、その昔はオンド・マルトノという電子楽器が揺るぎなく元祖の座を保っていたもんです。武満徹はオンド・マルトノを使った曲を書いているし、最近では池辺晋一郎が大河ドラマのテーマ曲でよく使用してる。音色はテルミンよりも硬質な感じ。ただ、それらの曲を聴いているとオンド・マルトノというのは旋律楽器というよりは音響効果に適したものという印象を与えられていた。
 ところが、違うんですね。最近入手した輸入盤のCDで「Les Ondes musicals」というオンド・マルトノを主旋律にしてピアノ伴奏のついている小品集を聴いたら、そのイメージを一新させられた。Genevieve Grenier(ジュヌヴィエーヴ・グラニエとよむのかな?)という女性オンド・マルトノ奏者のアルバムなんやけど、ここで演奏されているドビュッシーやラヴェル、サティの曲を聴いていると、シンセサイザーの直接の先祖であるところのオンド・マルトノの音色が実に不思議な感興をもたらしてくれる。テルミンと違うて鍵盤を叩いて演奏するから見た目には不利かもしれへんけど、何もない空間からポーポーと音が出てくる感じで、非常に面白い。
 演奏者が少ないのと楽器自体がばかでかいのとシンセサイザーが発達したのとでちょっとその存在が忘れ去られているオンド・マルトノやけれど、このCDを聴いた限りではまだまだ可能性を秘めているように思うた。
 テルミンのライバルとしてオンド・マルトノもお忘れなく。と、PRしたくなってきたぞ。なかなかの掘り出し物のCDでありました。

2月14日(木)

 今朝の新聞に「試験休み、なくなる」という記事を発見。期末試験から終業式までの間、教師が成績をつける期間として大阪の公立高校では授業を休んでいる。これを試験休みという。私が高校生の頃は、京都でもそないしてたんやけど、今から十数年前に京都の定時制高校で講師をした時は、なるべく試験休みを作らんようにとスケート教室をしたり球技大会をしたりしてたけどね。大阪ではまだ試験休みがあったんですわ。
 これ、困る。私は養護学校の教員やから関係ないと思うでしょ。ところが、関係あるねん。今年は係を離れたけど、私は7年ほどずっと普通高校との交流行事の担当をしてきた。私の勤務校から相手校に行くには授業時間内でもなんとかなるけど、相手校の生徒全員が私の勤務校にくるのは不可能。で、生徒会役員の生徒たちなど一部の生徒だけにきてもらうことになる。あるいは、「人権問題研究部」なんかの部活の一環としてきてもらう。となると、通常の時期ではきてもらいにくい。そこで、相手校の試験休みを利用させてもらうというわけ。これがなくなるとなると、交流行事が不成立になる可能性もでてくる。長年担当をしてきた身としては、交流行事が途絶えるようなことになってしもうたら、これまでの積み重ねが無になってしまう。それだけは避けたいんやけど、相手校の都合もあることやから、こればっかりはどないもならん。
 確かに週5日制の完全実行で授業時間が確保できなくなるというような事情はわかる。そやけど、一見ムダに見える試験休みを利用して地道に活動を続けてきたものがいてるというようなことを教育委員会は調べもせんのやなあと、そこが悔しい。
 実際のところ、私は中学校の講師をしていた頃、期末試験が終わっても授業をしていたという経験がある。そやけど、これは辛いもんですよ。生徒にやる気を出せという方が無理。生徒が授業にのらへんとこっちもトーンダウンしてしまう。中学校でも試験が終わったら休みは無理として球技大会やら団体鑑賞やら遠足やらという形で終業式までつないでほしいと真剣に思うたもんね。
 一見効率的でないと思われるものにこそ、実は意義があるということは多い。試験休みもそれやと思う。試験が終わって気が抜けている者に対して授業をするということがどういうことか、教育委員会の先生方には理解でけへんはずがなかろうと思うんやけどね。
 私は、試験休み廃止に反対したい。

2月15日(金)

 クラシック指揮者、ギュンター・ヴァントの訃報に接する。享年90。
 晩年は巨匠指揮者としてベルリン・フィルとのブルックナー演奏がもてはやされたヴァントやけど、私はまだ彼が「巨匠」扱いされてへん時期にその緻密な解釈のベートーヴェン交響曲全集(演奏は北ドイツ放送交響楽団)でその魅力を知った。そのあと、モーツァルトやチャイコフスキーの交響曲などを演奏したCDを買い、曲のエッセンスを絞り出したような演奏を愛聴人たものです。いわゆる「巨匠」やない。若い頃は現代音楽のエキスパートとして知られたともきく。
 クラシックファンの友人で辛辣な批評をするA氏は、彼を「巨匠」扱いする風潮に「鳥なき里のコウモリ」と揶揄していたが、私もそれは同感。ヴァントの本質は職人気質ともいえる頑固なまでの音楽のエッセンスへのこだわりにあったと思っている。指揮者が前面に出るのではなく、あくまで音楽そのものを追究するという姿勢。そこに魅力があった。
 深遠な解釈をする「巨匠」でもなく、世界をまたにかける「スター」でもない、ドイツという土地に根ざしたローカル性の強い「音の職人」。そういう彼が「最後の巨匠」ともてはやされるのには、ずっと違和感があった。
 現代のクラシックの世界に「巨匠」はいなく「スター」もいない。いるのは全て「鳥なき里のコウモリ」ばかりや。それでええんである。そのなかで、こういう昔気質の職人指揮者が自分のポジションを守り続けてきた。そのことに意味があったと思う。
 謹んで哀悼の意を表します。
 ところで、彼の死を報じる新聞記事は「ギュンター・バント」と表記してたけど、野球やないんやから「バント」はないやろ。新聞はそろそろV音を「ヴ」と表記することにしたらどうか。なんか別人の訃報みたいでしたぞ。

2月16日(土)

 本日、書店で『SFが読みたい!2002年版』(早川書房)が並んでるのを見る。郵便事情からかまだ私の手元には届いてへんけれど、今年の特集企画「ファンタジーが読みたい」はなかなかいいブックガイドになってますぞ。私は18冊分紹介してます。特に「陰陽師」関係の本を紹介した見開き2ページは、全て私が紹介文を書いている。本の選定は三村美衣さんがしてたりするんやけれど(私は4冊だけ選ばせてもろうた。さて、どれとどれでしょう。あてたらえらい)、まるで私の企画ページみたい。SFには伝奇関係のライターは他にいてへんのか! そんなことはないと思うけど。他には「伝奇アクション&異世界ファンタジー」の年間回顧を書いております。私の書いたところはともかく、楽しい座談会など読みどころ満載であります。と、ここまでは宣伝。

 仕事帰りに医者に行く。かかりつけの医者で、定期的に投薬してもろうている。梅田から阪急に乗る。行きは梅田が始発なんで、楽々座られて本を読んだりしてたんやけど、帰りの電車は途中乗車なもんやから、座られへんかった。薬を受け取ってから、駅前の書店でどっさりと買いこんだ本の袋が重い。それでも鞄から本を出してひたすら読む。終点梅田まで後半分というようなところの駅でちょっと乗客が降りて補助席があいた。やれやれと座ったところに上品そうな年輩の女性二人が乗ってきた。私の隣に座っていた若い女性が、さっとそのうちの一人に席を譲る。これはたまらんですよ。そのまま座ってられませんぞ。座ったところで、しかも読みかけの本のページを開いて片手に持っている。寝たふりをするわけにもいかへん。
 譲りました。ちゃんともうお一方にも座っていただきました。ああもう、やっと重い本の袋を床に置けると思うたのになあ。いえいえ、若い元気な者は立っててもよろしいの。たとえ本業でいろいろいろいろあってしんどかっても、そんなん端からはわからへんからねえ。
 結局終点まで立ったまま本を読んでおりました。ああもっと悪人でいられたらなあ。平然と老人を立たせられる無神経な人間やったらなあ。あるいは本を開いて片手に持った状態でとっさに寝たふりのできる器用な人間やったらなあ。
 今日こそ早う寝よ。

 明日はたちよみの会例会です。みなさんお気軽にご参加下さい。

2月17日(日)

 「仮面ライダー龍騎」も今日で3回目。まだ今日の分はビデオに録画したけど見てへん。主題歌が女性になったというのでちょっと変な感じがする。それに、歌詞に「仮面ライダー」も「龍騎」もはいってへん。これが実は違和感のもとかもしれへん。アニソンファンの同僚A氏は苦々しく「avexですよ!」と言うた。人気歌手を多数かかえている新興レーベルですな。「名探偵コナン」「犬夜叉」「サイボーグ009」などなど、番組の内容と関係のないような歌を主題歌として使用し、人気歌手を起用しているのはたいていavex。
 私は日下三蔵さんほど濃いアニメカラオケ歌いやないですからなんですけど、昔のアニメソングというのは番組の内容をちゃんと歌で表現していたからカラオケで歌うていてもその記憶がまざまざとよみがえってきて楽しく歌える。今のアニメはあんまり見てへんから歌自体を知らんのやけど、例えばV6hitomiの歌う「犬夜叉」をカラオケで歌いたいかというと、そんな気はせんなあ。MAHO堂の歌う「おジャ魔女どれみ」シリーズやったら歌おうかという気になるけど。
 avexの問題点は、アニメの主題歌を人気歌手のプロモーションに使うているというだけにはとどまらん。コロムビアキングといった老舗のレーベルが「アニメソング全集」のCDを製作した時に、avexだけは楽曲を提供しないという問題点が出てくる。かつてコロムビアは自社音源は他社に提供せんかったけど、最近はそうでもない。「ウルトラマン・ミレニアムベスト」というCDにはちゃんと「帰ってきたウルトラマン」のオリジナル音源が収録されている。これまでは使用させてもらえずカヴァーヴァージョンが収録されたCDがほとんどやったんやけどね。逆にコロムビアから出ている「サンライズ・ロボットアニメソング集」にはキング音源のものが提供されている。て、「ウルトラマン・ミレニアムベスト」やけど、ここでは「ウルトラマンティガ」だけがカヴァーヴァージョンを使用している。オリジナルはV6が歌うているから、音源提供してもらわれへんかったんですな。
 アニメソングや特撮ソングはいわば一つの文化として私たちテレビっ子世代に深く浸透している。それは歌を聴くとそのアニメや特撮番組の内容が映像とともに脳裏によみがえってくるということを含めて、私たちの血肉となっているもんなんである。それをあくまで商売の道具としてしか考えてへんようなレーベルに食いつぶされているような感じがする。
 せめて「ベスト盤」や「大全集」というようなものにはオリジナル音源を提供してほしいもんです。今の子どもたちが大人になった時、そういったオムニバスCDにオリジナル音源が収録されてへんかったら、それはとても寂しく感じるやろうからね。そこらあたりの機微がわからん連中にジャンルを食い荒らされるのは遺憾としかいいようがないね。

2月18日(月)

 「SFが読みたい!2002年版」(早川書房)が本日届く。じっくりと「関西SF作家爆笑座談会」(北野勇作、小林泰三、田中啓文、谷口裕貴、司会・冬樹蛉)を読んで涙が出るほど笑ってしまう。これは出席者全員と面識があるということもあるかもしれへん。読んでたら、声が聞こえてくるんですね、みなさんの。その座談会直後にいっしょに鍋をつついたりしてるから、よけいにおかしい。ああなるほど、あの宴会はこの座談会の流れでああなってこうなって……。てなことを思い出すんである。
 ただ、この座談会のニュアンスは、上方演芸のノリがわかってへんと伝わらんかもしれへん。これだけのアホなことをしゃべるために、この人たちの頭は超高速で回転しているんやということが理解でけへん方は、「金を払ってこんなものを読ませるなんて、早川書房は堕落した!」てなことを言いかねんなあ。いやほんま。
 あ、この座談会の構成の素晴らしいところは(笑)というのを一切つけてへんことやね。あの「ここで笑え!」というあざとさのある記号は、私は好きやない。馬鹿笑いの声が挿入されているアメリカのテレビコメディみたいなもんです。なんでそこで笑えるかな「世界の料理ショー」。(笑)という記号を排することで、この「爆笑座談会」のどこが「爆笑」なのか、読者を試しているというても言い過ぎやなかろう。
 実は、私は「SFJapan」の座談会の構成で(笑)という記号を外すか残すか実に悩んだ。で、結局残した。それはかなり真面目な話題も出た座談会やったから、ボケたりツッこんだりしてるところに(笑)をいれておかんと理解してもらわれへんやろうと判断したからやね。まあちょっと日和ったわけです。そやけどこうやって(笑)のない座談会の記事を読むと、日和った自分が恥ずかしくなるなあ。
 というわけで、この(笑)のない座談会が掲載されているというだけで「SFが読みたい!2002年版」は座談会史に残る金字塔となったのであります。ほんまか。

2月19日(火)

 仕事帰り、コンビニの前を通ると、ゴミ箱の前でかがんでいるおじさんがいてた。ゴミ箱をあさってるんかいなとちらりと見たら、様子が違う。新聞紙を引きちぎっては一枚ずつゴミ箱にほかしてるんである。何のためにそういうことをしているかはわからんが、故紙の再利用に協力したくないという強い意志が感じられる。新聞やぶりおじさんと命名したい。
 妻の話によると、かつて電車通勤していた頃の彼女は、さまざまなおじさんに遭遇しているらしい。あまりにインパクトが強かったのは、銭まきじじい。京阪淀屋橋駅で遭遇したそうです。そのおじさんが歩くと、チャリンという音がする。足下には一円玉がころがっている。このおじさんは次々と一円玉をとりだしてあたりにまき散らしているんやね。発車待ちをしてる普通列車にのりこんだと思うたら、開いたままの扉から一円玉が飛び出してきたという。銭形平次顔負けの鋭い銭つぶてやったそうな。
 梅田の阪急百貨店からJR大阪駅に行く途中の横断歩道の車道につくもっていたのはお絵描きおじさん。車が通っていようとおかまいなしに何色かのチョークでひねもすお絵描きをしていたという。
 難波の高島屋が閉店したあと、シャッターの前に犬を引き連れて座っていたのはシェパードおじさん。どうもホームレスらしいのになぜかドイツシェパードともに暮らしていたという。それも2頭。どんな餌を食べさせていたのやら。このおじさん、シャッターがしまるまでは日本橋の電機店街をシェパードをおともに練り歩いていたというからすごい。
 詩情あふれる草笛おじさんもいたとか。地下鉄御堂筋線の駅のホームのベンチに座っている普通のおじいさんなんやけど、心にしみいるような草笛を吹いていたという。それでお金をとるわけやない。ただ草笛が吹きたいから吹いているという風情やったそうな。妻の知人によると、このおじさんは四ツ橋線にも現れていたらしい。
 私は学生時代アルバイトをしていた京都の大丸百貨店でラジカセおばさんに毎日遭遇した。派手なムームーを着てマンガみたいなサングラスをかぶったおばさんが、小さいラジカセをがんがん鳴らして店の中をうろつくんであります。
 関西地方の方で、こんなおじさんやおばさんと遭遇した経験のある方は多いはずです。今読んでて「あ、おったおった」とうなずいてる人もいてはるに違いない。桂雀々さんの落語で枕に出てくるなぞなぞおじさんは他に目撃例はないらしいけどね。

2月20日(水)

 今週の「週刊ベースボール」はまるでタイガースのファンブックみたい。以前はジャイアンツの記事が多かった同誌やけど、最近は極端なジャイアンツ寄りやなくなっている。というか、かなりタイガース寄りになっている。編集長の方針なんかもしれへん。
 編集方針でいえば、星野監督就任以来、徹底してタイガースをほめちぎっているのは「週刊現代」。もう毎週のようにタイガース情報を掲載し、いかに今季のタイガースがいい方に変わったかということをこれでもかこれでもかと書いている。それに対してあくまでタイガース、いや、星野監督を叩くかに腐心しているのは「週刊ポスト」。ドラゴンズのフロントの恨み節を乗せたかと思うと星野−田淵空中分解を予言し、星野監督のスポンサーを書きたてたり……とやっきになってけなしている。そろそろけなすネタがなくなりこじつけてけなそうとしているけど、結果的にほめているというところまできている。
 ここらあたり、週刊誌の部数争いというものもからんでいるのかな。「現代」がいち早く星野支持を打ち出したんで、「ポスト」はアンチ星野でいこうということやないか。もっとも「現代」は以前からタイガース寄りの記事がけっこう多かったから、編集部にタイガースファンがいてるに違いない。
 ファン心理というものは面白い。「現代」がここまでタイガース応援記事を続けられるという根底には、編集長の気持ちがあるはず。そうでなかったら、心にもないことは書き続けられへんやろう。
 シーズンに入ったらどう変わるかはわからんけど、このままの勢いが秋まで続いてほしいなあと思う。

 明日の夜から関東方面に出張します。千葉にある養護学校の研究授業を参観にいくのです。よって、2日間ほど更新は休みます。掲示板には書きこむかもしれませんが。次回更新は土曜の深夜を予定しています。


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