ぼやき日記


10月1日(火)

 avexが発売してるCD−R書き込み防止のCDというのを初めて買うたけれど、CDプレイヤーならちゃんと聴くことができるけれど、例えばMP−3対応のDVDプレイヤーなんかやと不具合が生じることがあるとか書いてある。ううむ、DVDプレイヤーをメインのオーディオ装置として使用している人かていてるやろうになあ。パソコンでも聴かれへん場合があるそうな。しかもMacintoshには対応してないんやて。Macで仕事をしながらCDを聴いてる人かていてるやろうにねえ。
 確かに著作権保護という意味では、コピー防止というのは必要やろうなあと思う。特にCD−Rの場合、海賊版として流通する危険性もあるわけやしね。ところが、技術的制約から普通にCDを聴くだけということまででけへんとなると、それはそれで問題があるのやないかな。一刻も早くコピー防止仕様のCDを出したかったという気持ちはわかるけど、こういう不完全な形で市場に流通させるというのにはちょっと疑問を感じるね。
 しかも、MDやカセットテープには録音可能となると、例えばレンタルCDからダビングはできるわけで、CDそのものの売り上げがこの機能でのびるということにはならんやろう。なんかそこらあたり中途半端やなあと思う。
 私はなるべくCDは買うようにしている。というか、私の聴きたいCDはクラシックや落語ですからね。レンタルCD店には出回らんのですよ。ほしかったらCDを買うしかないからね。
 まあ、いずれはどんな再生装置にも対応していて、かつダビング不可能というCDも出るかもしれへんけどね。今回avexが不完全ながらもコピー防止CDを発売したというのは、それだけCDのメーカーも苦しいところにきているということなんやろうとは思うね。確かに安くで借りてコピーした方が正規にCDを買うよりは安上がりやけれど、ほんまにほしかったらそれだけの対価を払うべきやんかと思う。

10月2日(水)

 今週末に祖母の納骨で北陸に行く予定があるんで、チケットショップで電車の切符を買う。そのあと書店に寄って時刻表を調べたら、法事の始まる時間と目的の駅につく時間がどうもうまいこといかん。
 一番近い時間の特急雷鳥は、ちょうど法事の始まる時間に目的の駅につく。これでは間に合わへん。その次に近い雷鳥は、目的の駅の一つ前の駅には止まるけど、目的の駅に行こうと思うたら乗り継ぎの各駅停車が来るまでホームで30分以上待たんならん。その前の雷鳥は目的の駅には止まるんやけど、法事の始まる2時間前についてしまう。時間つぶしをしようにも、どこで時間をつぶしてええんか、なじみのない土地だけに困ってしまう。
 つくづく数分の感覚で電車がくるという都市生活との格差を感じざるを得んね。地方は地方でゆったりとした時間感覚で過ごせてええのかもしれへん。それはそれで羨ましい部分がないこともない。とはいえ、こういう形で突発的に行くということになると、やっぱり地方は不便やなあと感じてしまうね。
 今のところ2時間前に目的地につくのがまだ遅れるよりはましかなと思うている。しかしなあ、どうやって時間をつぶそうか。でかい本屋が1軒駅前にあったら私たち夫婦は2時間が3時間でも時間つぶしできるんやけどね。それもちょっと期待できそうにないし。知らん間にジュンク堂が「北陸随一の規模!」という触れこみでそこに出店してた……ということは、たぶんなかろうね。困ったなあ。

10月3日(木)

 うちのマンションの近所に中学校がある。明日が体育祭らしい。土日の休日、午前から夕方まで吹奏楽部がひたすら練習していた。今朝は出勤のためにエレベーターで降りようとしたら、体操服を着た中学生が乗っていた。えらいはやく登校するんやなあ、今日が体育祭なんかなあと思うてたら、学校全体が早出で大縄跳びの練習をしていたと妻からあとで聞いて驚いた。むろん教師も早出やね。
 私が10年以上前に京都府下の中学校で講師をしていた時に、同僚の先生から「喜多さんも中学校の教職採用試験を受けたらいいのに。その方が合格しやすいよ」と言われたことがある。その時は適当に返事をごまかしたけど、実は何年か中学校で講師をして、その体質に我慢でけへんかったんで、中学校で採用されたいとは思わんかったんですね。その前に定時制の高校で講師をしていたという経験もあったから、自分が高校向きか中学向きか判断ができたというのもある。
 中学校で教えてはる方が読んだら気を悪くするかもしれへんけど、これは私個人の資質の問題なんで、怒らんといてほしい。中学校というのは、やたら生徒に全体が団結するように指導するという傾向がある。講師時代に担任をした時に、合唱コンクールという行事があって、クラス単位で毎日練習させていたけど、私のクラスでは生徒にまず練習方法を考えさせて、これではうまくいかんというところで助け舟を出そうと考えていた。そやから、練習もなんかだらだらしたようなものやったけど、それはそれでかまわんとほっておいた。そしたら、副担任の先生や学年主任の先生が、私が教室にいてるにも関わらず入ってきてしゃんとせいのなんのと指導をしてくる。私は確かに講師という身分やったから、主任の先生には頼りなく見えたんやろうけどね。なんでそう完璧な結果を生み出させようという方向で指導するかなあと思うたもんです。
 体育祭では応援合戦やらなんやらとにかく一糸乱れず美しい演技ができるよう徹底的に指導し、文化祭ではとても中学生のレベルとは思われんような劇を作ろうとし……。確かにうまくいった時の満足感というものを経験させるのも大事かもしれへんし、そのためにはどのような過程を経たらよいかを体で覚えさせるのも一つの方法やろうけれど、なんか見た目にこだわっているように感じられてならんかった。
 きりきりに締め上げたら、そこから脱したとたんにきつい反動がきてしまうというのはままあることで、そういう意味では大縄跳びをするのにしても朝早くから体操服で登校させたりというのはやり過ぎやないのかな。モチベーションが高まった結果、猛練習をしてこそ成果もあらわれると、私は思うんやね。そやからなんやろうな、中学校の体質というのが私には合わんのですわ。
 ゆとりやの総合的な学習やのという前に、そういう体質をなんとかしたらんかいと思うんやけどなあ。

10月4日(金)

 久しぶりに文庫解説の依頼がきた。私の書評家生活もかなり長くなってきたけど、これまで文庫の解説は1冊しかしたことがない。しかも畑違いとも思われる海外SFのスペースオペラですねん。いや、ほんまは畑違いやない。学生時代、同人誌に文庫のチェックリストを掲載するにあたっては、ひたすらスペオペを読みまくったものである。それでも、書評家としては伝奇アクションを中心とした活動をやっているわけで、まあ、私とスペオペを結びつけてくれる人はあんまりいてへんように思う。
 今回の依頼は伝奇アクションのど真ん中というべき菊地秀行さんの、しかも魔界都市ブルースのシリーズでありまして、久々の文庫解説としては実に嬉しい。よう考えてみたら、伝奇アクションは多くが新書ノベルスか文庫書下ろしやからね。最初から文庫の場合は作者あとがきだけで十分。ノベルスの場合は文庫化されることが非常に少ない。架空戦記なんかそのほとんどが文庫化されてへん。文庫解説がつかん場合もある。
 というわけで、けっこう肩に力が入っていたりするわけやけど、まああんまり気合いを入れ過ぎて失敗することはままあることで、なるべく自然体で私らしいものを書こうと思うている。
 なんかえらいはしゃいでると思われるかもしれませんが、ほんまにはしゃいでいるのです。書籍の形で残ることのない仕事を続けている身としては、たとえ他人さんの本であろうと自分の文章が「本」に掲載されて残るというのは嬉しいもんなんですよ。これをきっかけに文庫解説のお仕事がもう少しきてくれたらありがたいんやけどね。

10月5日(土)

 祖父の七回忌と祖母の納骨のために福井県めがね市に行く。2日の日記に書いたように法事の始まる時間の2時間前につく特急に乗った。どう時間をつぶそうかと思案するまでもなかった。駅前にはいい感じの広さで品揃えもよい書店があったやないですか。文庫のコーナーではハルキ文庫の「ヌーヴェルSFシリーズ」やら徳間デュアル文庫が平積みにして置いてあったりして、ますます好感を持った。それどころか、大阪の書店では見かけることのなかった本があって、思わず買おうとしたら、妻に「買うんやったら荷物になるから帰りに!」と注意されてしもうた。こと本のことになると思考回路が働かんのはいかんねえ。
 めがね市の中心部にある商店街を歩いてたら、「今月は駐車はこちら側」という看板がところどころに立っている。道が狭いんで、路上駐車は月代わりで停める側が決まってるらしい。なんかのんびりしたところがよろしいね。
 妻が交通信号を見て「ここは冬にったら雪が積もるんやわ」と言う。三色のランプが縦に並んでるんですな。私も同じものを見てたのに気がつかなんだ。妻の洞察力に感心する。
 食堂で読んだ「福井新聞」の一面は北朝鮮拉致事件の詳報。そうか、拉致の生存者は福井県の海岸から連れ去られたんや。おそらく、私たちとはまた違う思いでこのニュースをとらえてるに違いない。
 めがね市は大阪よりも湿気てはいてへんかったけど、やっぱり暑かった。納骨に行く途中で「夏を走ろう 北陸路」てな電光掲示板を見つけて苦笑。もう秋やがな。10月にこんなに暑いのがおかしいんでありましてねえ。ただ、その電光掲示板の文言が全然季節外れに感じられへんかったけどね。

10月6日(日)

 福井の土産に買うてきた「けんけら」というお菓子を食べる。私、このお菓子、好きなんです。素朴な味わいがあって、京都の洗練されたお菓子にはないものがある。母方の祖父母の田舎である福井に行くと、このほかにも「満照豆」、「豆らくがん」やとか「雪がわら」、「牛皮こんぶ」、「羽二重もち」とけっこう独特の味わいのあるお菓子が多い。特に冬にしか発売されへん「水ようかん」は絶品です。
 ところで「けんけら」とはまた変な名前やね。これは大豆の粉と白ゴマを水飴で練って平らにのばしたものを均等の大きさに切って少しひねって乾かしたもの。かなり堅い。昨日買うた「けんけら」の袋には初代藩主が名前のなかったこの菓子に「堅い菓子を造るわが家来はさぞ心も堅いことであろう。よって『堅家来(けんけらい)』と名付ける」と命名したとある。はて、前に買うた「けんけら」の袋には刀で切らんと切られへんくらい堅いから『剣切羅』と呼ばれてるというような理由で命名されたとあったぞ。どっちがほんまなんや。
 ネットで「けんけら」を検索してみると、これだけやないんですな。「建怪羅」という僧の名をとった、「賢い家来」から転じた、なども見つかった。
 ちなみに「けんけら」という名前は登録商標で、〈福井県菓子工業組合けんけら部会員〉のみが使用しているものやそうです。それくらい重要な物産品やのに語源がこんなにばらばらとはどういうことやねん。推測するにもともと「けんけら」という名前だけがあってその意味が現地の人にもわからなんだんで、諸説入り乱れるという結果になったんやろうね。まあそれくらい古いお菓子ということか。
 それにしても、ほんまの語源はいったいなんなんやろう。

10月7日(月)

 「仮面ライダー龍騎」と「サイボーグ009」を見ていていつも感じるのは、スーパーバイザーとして参加している小野寺章さんの凄さである。石ノ森章太郎さんの遺産をみごとに生かし切っているとしかいいようがない。「龍騎」の場合、「クウガ」や「アギト」とともに仮面ライダーという石ノ森さんのコンセプトを守りつつオリジナリティのある作品を生み出すことに成功しているし、「009」では原作に見事に忠実な作品作りをすることによって、石ノ森イズムというべきものを現在に蘇らせている。
 スーパーバイザーという肩書きがいったいどういう仕事であるんかはようわからんが、単なる「監修」やなかろうと思う。なんでかというと、どちらもまるで石ノ森さんがまだ生きていて新作をつくっているような感じがするからね。
 そういう意味では、手塚プロはいったいどないなってんのやと思うたりもする。遺産で食いつないでいるというと言い過ぎかもしれへんけど、過去の手塚作品をリフレッシュさせるような企画を手塚プロから出してくるというようなエネルギーが私には感じられへんのやね。このままやと新作の「鉄腕アトム」も心配やね。手塚眞さんに小野寺章さんの役割をしろとは言わん。手塚眞さんはクリエイターとして自分のオリジナルをつくることに専念すればそれでよいと思う。手塚プロの人たちがやるべき仕事はまだまだあると思うんやけどなあ。なんで手塚プロから「龍騎」みたいなものが生まれてこないのか。それだけ手塚治虫の存在が偉大なんかもしれんけど。ここは手塚プロに「小野寺章さんに負けたらあかんで」とエールをおくっておくことにしよう。
 いやほんま、今一番おもろいSFは「仮面ライダー龍騎」やないかと真剣に思うているんですよ。

10月8日(火)

 今日は夜に勤務校の地域にある保育園、小学校、中学校、高校で組織する研究会の分科会に出席する。私が参加しているのは「総合的な学習」に関する分科会。文部科学省が新しい学習指導要領のカリキュラムで力を入れている分野でありますね。
 それぞれの学校での実践が発表されたわけやけど、どこも苦労してはるなあというのが正直な感想。自分で考えたり調べたりして自発的な画集姿勢を育てると一口にいうても、勉強なんていうものは子どもの頃はそうそう自発的にはやらんもんですよ。興味のあるものに関しては徹底的に調べたりするけど、そんなもん、学校でやることかいと思う。
 例えば私の場合、小学校時代は「怪獣怪人全百科」を飽くことなく読み、こと怪獣に関しては学校中の誰にも負けん知識を習得した。中学校に入ると、阪神タイガースの選手名鑑をなめるように読みタイガースの歴史、ひいては日本プロ野球の歴史に精通するようになった。また手塚治虫の漫画を精読し、そのヒューマニズムとペシミズムに強い影響を受けた。さらに大相撲の鑑賞を通じて、その技や歴史を学んだ。そして、漫才や落語に強い関心を持ったが、それらが一般の会話には応用でけへんということを知った。あの頃はボケとツッコミによる会話などというものを意識的にやるやつなんていてへんかったと思うぞ。高校ではアニメーションとSFに目覚め、大学では同人誌編集を行い、アイドル歌手の研究にいそしんだ。それが学校でどう評価されたか。そんなもん誰も評価してくれへん。変なことにむやみにくわしい奴、ただそれだけやね。それどころかそういうものにばかり熱中してたせいで、いざ教科書を開くと関心のないものにはまるで手も足も出さんというかたよった学習方法が身についていた。
 ところがですな、現在私がよって立つ基盤は、学校とは無関係に自分が興味をもって熱中したり調べたりしたことなんですな。こういうことは強制的に身につけるもんやないし、学校で教えられるようなもんやないと思う。ところが、新しい指導要領ではそれをやらさんならん。これは大変なことですぞ。
 つまりその、学校の教師に求められるのは「オタク」を育てるということかもしれん。「オタク」で悪けりゃ「マニア」。私流に「総合的な画集」を読み替えたら結局はそういうことになる。私が学校の勉強とは別に好き勝手やって身につけた方法を学校でやろうとしてるとしか思われへん。「調べ学習」なんて湯桶読みみたいな造語までつくって正当化してるけど、つまりはそういうことやと思う。
 これまで「総合的な学習」という概念が私にはもうひとつわからんかったんやけど、分科会に参加してようやっとわかってきたぞ。そうかそうか、文部科学省までが「オタク」を育成するようになったか。これからますます「オタク」が世の中を動かしていく、そういう時代が進むんであるなあ。
 根本的な誤解があるのかもしれんと、ちょっと不安になってきたけど、まあええか。

10月10日(木)

 2人一度にノーベル賞受賞者が出て、しかも一人は43才の若さで民間企業の研究員というのがよろしいね。
 やっぱりここはノーベル賞を記念して岐阜では「スーパーカミオカンデまんじゅう」を作るべきでしょう。アイデアはあるぞ。プラスチックの板に半球をぼこぼこと打ち出してですね、くずまんじゅうをその中に詰め、円柱型の深い箱の底に入れておくわけです。どないだ。あきませんか。
 ならば京都で「タンパク質分離生八ツ橋」を売るというのも考えたが、京都の和菓子屋がそんなもんに便乗するということは絶対的にあり得へんから、これはどんなに秀逸なアイデアを出しても実現不可能でしょう。
 それはともかく、博士号もない民間企業の研究員でもこうやって評価されるということになると、企業もおちおち安心してはいられへんぞ。実際、社内で開発された特許を二束三文で買い取って会社は莫大な利益をあげ、相応の特許料を支払えというような訴訟が起きている時代やからね。これからもこういう形の受賞者は続々登場してもおかしくない。
 もしかして数年後に小林泰三さんにノーベル物理学賞が授与されたりするかもわからん。受賞記者会見で「文学賞と同時受賞を狙ってたんですけど」とこともなげに言うたりしてるかもしれへんぞ。もっとも、小林さんが勤務先でどんな仕事をしてるか私は全く知らへんのですけどね。ただ、そういう想像ができるというだけで楽しいやないですか。

 ただいま発売中の「本の雑誌」10月号の「極地小説」特集に私も寄稿しております。私の担当は「秘境小説」です。ぜひお読み下さい。


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