ぼやき日記


2月21日(金)

 妻がNHK金曜時代劇「人情とどけます」を見ている横で、ひたすら読書。むろん、どんなドラマかなんてわからへんしセリフも耳に入ってこない。
 と、女優さんの声に反応して一瞬テレビに目を向けてしもうた。特にどってことない役みたいで、なんでその声に反応したんかわからん。すぐに本に意識を戻す。本を読み終えて、テレビに目を向けたら、エンディングの画面。配役のテロップが流れている。その中に「宮村優子」の名を見つけた。もしかして、声優の宮村優子? ということは、あの時私が反応したのは彼女の声やったんか。
 実は、私はテレビがついてる横で本を読んでいて、どんなに本に集中していても芸人さんが出ていたりアニメが始まったりするとすぐに反応してそちらに目をやることがよくある。ほんまに読書に没頭していても、その時だけはわかるんやね。その度に妻は私の敏感さに驚く。「なんで?」と不思議がる。知らんがな。たぶん、目に見えない触角があって、センサーの役割を果たしてるんでしょう。
 もっとも、声優さんが顔出しでドラマに出ていても、声の演技に特徴があるんで、セリフばかりが耳につくということはあるかもしれへん。演技の質が違うんやね。逆に、アニメに声優専門でない俳優さんが声の出演をしていたら、これもまたはっきりわかる。声のトーンや演技に抑えたような調子があるように思う。
 私はそんなに耳がええ方やないんやけれど、妙なところで敏感に反応するわけで、これも一種の才能かもしれん。ただ、これが何の役にもたたんというのはなあ。なんか役にたつようなことはないかな。ないわな。

2月22日(土)

 妻が「機動戦士ガンダムSEED」を見ている。その横で読書。番組が終わって、CMとなる。上戸彩が「ハロが満1歳をむかえました!」と言うている。「ガンダム」に登場する球形の愛玩ロボット、ハロのしゃべるおもちゃが発売されて1年になるというわけですな。
 実は我が家にも妻が買うてくれたハロがいてる。買うてもろうた当時はこまめに電池を入れ替えてそのおしゃべりを楽しんだりしてたんやけれど、年末くらいから電池を入れ替えるのがめんどうになってうちのハロは実に無口であります。なんでかというと、構造上そうする必要があったのか、電池を替えるのにいちいちドライバーでねじをゆるめんならんのですね。電池はかなり早く減るし、データのバックアップの関係上、電池を替える時には20秒以内にやらんと、初期設定に戻ってしまう。
 テレビのCMで「ハロ、ゲンキ」と言うてるのを聞いて、明日くらい久しぶりに電池の入れ替えをしてやって、生き返らせてやろうかなあ、なんて思う。携帯電話みたいに、夜のうちに充電できるようなシステムにしといてくれたらええのになあ。

2月23日(日)

 「仮面ライダー555」を見ていて思うのは、これはもう子ども相手のものやないということ。事故で死んで蘇った若者がまわりの人間全てに裏切られたり、少女が徹底したいじめにあい孤独にうちひしがれたりして、その結果怪人になってしまうという設定があるのやけれど、自分が人間でないものになってしまうことへの恐怖とたたかうところなど、小学校低学年までの子どもには難しすぎるんやなかろうか。「仮面ライダー龍騎」も子どもには難しいと思うたけれど、こらもう一作ごとに物語が深くなっていってる感じがする。それどころか、夜に大人向けにやっている1時間枠のドラマなんかの方がよっぽど単純で子どもだましという感じがするね。いや、ちゃんとドラマを見ているわけやないけど。自分が見ていた範囲でいえば、吉本の若手芸人が出ているからという理由で見ていた「明日があるさ」にしても、今毎週見ている「武蔵」にしても、「仮面ライダー」のシリーズに比べたらわかりやすすぎておもろないもんな。今日放送の回でいうたら、怪人になってしもうた少女がメル友から心配しているというメールをもらい、それを見て無言で苦しんでいるという場面なんか、セリフとナレーションで石舟斎に敗れた武蔵の心境を全部説明してしまう今日の「武蔵」よりもずっとずっとずっとすばらしかったぞ。
 とりあえず玩具にできるものをちゃんと作って出しておけば、あとは自分たちの好きにできるというような作り方をしているように思う。ここらあたり、往年の「日活ロマンポルノ」で、若手の映画監督たちが、Hなシーンさえ入れておけばあとは自分の好きにできるとばかりに、驚くほど質の高い作品を作っていたというのと似ているかもしれん。アニメでもそうですね。「萌え」の要素を押さえておいて、あとは好きに作っているというようなものがあったりする。
 「仮面ライダー」の新シリーズではまだいいたいことはあるんやけど、今日はこのへんで。

2月24日(月)

 本日、入試。前期日程ということで、他の府立高校よりかなり早く行われた。昨年度までは私は養護学校の「入学検査」で入学予定の生徒の発達の様子などをテストしたりしていたのが、今年からはペーパーテストの試験監督やら採点やらをすることになったわけで、まさに別世界ではあります。入試に関わるのは初めてやない。今から14年前に定時制の高校で講師をした時に一度試験監督やら採点やらをしている。そちらは全日制の試験を全て落ちた生徒の二次試験が主体やったなあ。
 小論文の採点というのがなかなか難しかった。私は書評なんてものをやってる関係で文章を読むのは早い。しかし、それに点をつけるというのが困難なわけでね。文章にこめられたメッセージを数値化するなんて本来できるわけないやん。そこをなんとかせなならん。まことに難しい。しかも、中学3年生の文章やからね。決して読みやすいものやない。私は新人賞の下読みというのはしたことがない。一度依頼はあったけど、稼業があり書評のための読書の時間を捻出するのが精一杯という状況で下読みは不可能と、お断りした。一次選考の下読みというのは、かなりしんどいときいた。とても小説になってないものを何本も読まなならんのは、確かに苦痛やろうなあ。600字程度の作文を100人分近く読んだだけでもうへろへろですもんね。てなことを、小論文の採点をしながら思う。
 それでも、模擬試験でかなり練習したんやろうなあ。論旨が一貫してへん文章であっても、なんとか結論づけようとする努力はしてるもんね。この必死さが、入学したら薄れるのはもったいないなあ。もっとも、これをずっと続けてたら息がつまってぶっ倒れてしまうかもしれへんけど。

2月25日(火)

 元NHKアナウンサーの北出清五郎さんの訃報に接する。享年80。先月の26日に心不全で亡くなってはったんやけれど、北出さんの遺志で公表は控えられていたという。
 北出さんといえば相撲中継。私が相撲に熱中しはじめた小学生の頃、相撲中継のメインは北出さんやった。細かな動きを的確に描写する実況、豊富な知識から語られる相撲の魅力、玉の海梅吉さんや神風正一さんの解説も、北出さんとのやりとりがなかったらあそこまで私のような小さな相撲ファンにもわかるようなものだったかどうか。
 中学生の頃、北出さんが出した「相撲のわかる本」や「大相撲への招待」といったガイドブックは、私の愛読書やった。現在も大相撲の入門書はいくつか出ているけれど、初心者から通までを満足させるものという意味では、これらを超えるものはいまだにお目にかからない。私に相撲の魅力を教えてくれたのは、北出さんであり、玉の海さんであり、神風さんやったと、改めて思う。
 最近の相撲アナウンサーは、勝負がついた時によく「軍配は西にあがった!」というような実況をするけれど、北出さんは違うた。微妙な一番でも、勝ち力士はどちらかを自分で見た通りに実況した。また、同じ実況アナウンサーとして杉山邦博さんというよきライバルもいた。精密な語り口の北出さんに対し、落ち着いたトーンの杉山さんの実況は、甲乙つけがたいものやった。
 貴乃花引退の時、民放では杉山さんをゲストに呼んでいたけれど、その時に「北出さんはどうしてはるんかなあ」と思うた。もうテレビに出られる状態やなかったんかもしれへん。朝青龍のすばやい動きなど、北出さんならどのように実況するやろうとふと思うたりもする。
 慎んで哀悼の意を表します。

2月26日(水)

 今日から学年末テスト。試験監督のために教室にいく。つい2日前、入試の試験監督をしたばかりやから、雰囲気の落差を強く感じる。やはり、入試というのは自分の人生を変えるほどの重大事やから、受験生の緊張の具合も一通りやない。こちらもその緊張感に引きこまれる。それに対して、定期テストはそれなりに緊張はしていても、その度合いが違う。リラックスしているというてもいい。試験監督をしていてもなんかのんびりしている。
 昔、定時制高校で講師をしていた時、定期テストで試験監督をしながら新聞を読んでいた先生がいたことを思い出す。まあ、私はそこまでリラックスはしませんけどね。
 あと、入試の時は出勤途上で同じ方向を歩く生徒たちのソックスが白や紺の短めのものばっかりやったのは新鮮やったなあ。毎朝、電車からおりて改札へ向かう途中、生徒の後ろ姿を見てるとルーズソックスがまだまだ多いもんなあ。
 やっぱり、入試というのは一大イベントなんやね。受験生にとってもそうやし、教師にとってもそう。もっとも、ここ数日毎日採点とチェック業務が続いていささか疲れ気味ではあるけれど。

2月27日(木)

 妻が新聞を出してきて「ほらほらこれ」と見せてくれたのが、集英社の出版広告。恩田陸さんの「ねじの回転」のコピーに「書き直された歴史はどこへ向かうのか? 歴史SF大作!」とある。「キャッチコピーに『SF』って書いたら売れへんから『ホラー』って書かれたりしてたって、言われてたやん。一般文芸の出版社が『SF』って打ち出せるようになったんやねえ」と感無量のおももち。なるほどね、そうかもしれへんなあ。どんなに質の高いSFであっても、SFというだけでこむずかしい印象をあたえるやのなんやのとされ、それが「SF冬の時代」てな言説になったり、ジャンル内だけで盛り上がった例の「SFクズ論争」につながったりしてた時期が確かにあったからなあ。「そんなことない」という人もいてるかもしれへんけれど、私の感触ではそういう時期はあったと思う。実際、ある作家さんは「SFを書きたい」と担当編集者に言うたら、「ホラーでデビューしたんだから、そんなことを言ってはいけません」みたいなニュアンスのことを言われたと教えてくれた。
 結局、関西勢の活躍や「SFが読みたい!」の定期的な発行、「SFJapan」の創刊など、作家や編集者の方たちの地道な努力と、SFに対するセンスを持った作家がいろんなジャンルから登場してきたというようなことで、売れる売れへんは別として、SF小説の質そのものは充実してきたとは思う。それだけに、そろそろ「SF」と銘打っても部数が減らんようになるんと違うかなあとは思うてはいた。
 もちろん、恩田陸さんという人気作家やからできたという見方もあるやろう。そやけど、どんな人気作家の作品であっても、本人が「これはSF」と思っていても、広告のキャッチコピーに「SF」の文字はなかなか使われへんかったのも事実やし。そういう意味では、これからはもう少し「SF」の文字が出版広告に登場するようになるかもしれへんな。というか、なってほしいな。

2月28日(金)

 今日、仕事帰りに寄った書店で、「手塚治虫マガジン」なるもののポスターを見た。3月25日発売やそうで、手塚作品を雑誌で再録するものらしい。ま、いうたら、「ジョー&飛雄馬」の二番煎じですな。なんで「手塚治虫マガジン」なんかというと、2003年がアトムの(作品上での)誕生年やからということで手塚ブームがくるのを期待しているからなんやろうね。版元はKKベストセラーズ。いかにも便乗企画を出しそうな版元ではある。
 これは実物を見てみんと評価のしようがないけれど、果たして思惑通りに売れるのかなあ。例えば、手塚作品は初出時のものと単行本収録のものを比べると、かなりの加筆や訂正がなされているけど、「手塚治虫マガジン」では積極的に初出時のものも収録していくというような「おまけ」がほしいなあ。特に手塚ファンではない読者層に手塚作品の魅力を知ってもらえる機会であると同時に、全集や文庫本では企画しにくいことをやれる機会でもあると思うからね。問題は、編集者がどれだけ手塚作品に思い入れを持っているかというところかな。KKベストセラーズというあたりに対する不安は、実はそこにある。「SFJapan」の手塚特集は、編集長の思い入れが過剰なまでに出ていたという気がする。「COMIC Cue」の特集もそうやった。あそこまでする必要はないとは思うけれど、鉄腕アトムイヤーに便乗して既存の作品を安直に再録するだけというのでは寂しすぎる。ここらあたり、手塚プロダクション側も安直なものは許さないというくらいの気概でいてほしいね。
 さて、どんなものが出てくるのやら。とりあえず1ヶ月後、創刊号を待つことにしよう。


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