ぼやき日記


2月1日(土)

 いろいろな作家の書いた宮本武蔵小説の読み比べをしていると、それぞれによってエピソードが極端に違うのが面白い。どうも基礎史料となるものが極端に少ないかららしい。例えば歴史上の人物でいうと、幕末から明治にかけての関係者はかなり克明な史料が残っているから、想像力の羽根をのばしにくいんやそうですな。確か半村良さんがエッセイでそない書いていたはず。戦国時代でも大名クラスはいろんな史料が残っているから、オリジナルなエピソードは案外作りにくいらしい。そやから豊臣秀吉を主人公にしたものなんかはその事蹟がはっきりしてへん幼少時代やら出自やらはけっこう好き勝手書けるけど、織田信長の家臣になってからはそれほど突飛なことはさせられへん。実際の行動をどう解釈するかというかにとどまる。
 つまり、宮本武蔵なんてものは歴史上の人物としては小物どころかどうでもええ人なんですな。せいぜい講談の主人公でしかない。それが多くの作家にとりあげられるようになったのは吉川英治の「宮本武蔵」がヒットしたからということになる。
 実は坂本竜馬も司馬遼太郎が「竜馬がいく」を書いてから、歴史上の重要人物と認められるようになったという話をきいたことがある。新選組の場合は子母澤寛がその役割を果たしたとか。そういう意味では時代小説が歴史好きに与える影響は大きいんやねえ。
 というわけで、もうしばらく私の「宮本武蔵」遍歴は続きます。SF書評家がそれでええんか、と非難されそうやけれど、年末年始にかけて仕事読みが続いたから、その反動がきてるんやと理解していただきたい。いや、これだけ好き勝手に料理できる「宮本武蔵」という素材は、なんとなくSFのテーマの扱い方に通じるものを感じたりはするんです。そう、「宮本武蔵」はSFだ! と、これはちょっとこじつけ過ぎたか。

2月2日(日)

 いやあ、驚いたなあ、スペースシャトル「コロンビア」の事故。昨日の日記を書いた後でニュースを見て知った。昨日の晩は情報収集でテレビやネットに釘づけで寝られへんかった人も多かったんと違うやろか。
 私ですか。私は、ニュースを見てたら同じことを何度も繰り返すばっかりなんで、すぐに寝ました。今日はクラブの付き添いで出勤せんならなかったというのもあったからね。
 それにしても、今回に限らず、ニュースの解説委員の人というのは大胆ですねえ。事故が起きて間もなく、ほとんど情報がないのにその事故の原因をいろいと説明するんやから。まあ断定はしてへんにせよ、よくもまあああいう風に「解説」できるもんですな。ああいう「芸」を求められているからできるというのかねえ。「これだけでは何のことやらわからんやない」やとか「そんなこと今の段階で言うてええの?」とテレビに向かってつっこみたくなるぞ。ああいう時に、アナウンサーの「どうなんですか?」という質問に「わかりません!」と答える潔い解説委員はいてへんもんやろうかな。それではニュース番組が成立せんか。でも、間違うた情報で視聴者を惑わすよりはずっと良心的やと思うぞ。

2月3日(月)

 先日社会科用の職員室で仕事をしていると、廊下で男子生徒がなにやら言うているのが聞こえてきた。
「ほら、この歌、なんていう題名やったかな。今春が来て君はきれいになったー」。
「そいつ、冬は不細工やったんか!」。
 君らは人生幸朗か! 責任者出てこい!

2月4日(火)

 次の戦隊ものは「アバレンジャー」やそうな。今やってる「ハリケンジャー」は忍者という設定やったけれど、そのデンでいくと「アバレンジャー」は八代将軍吉宗をモチーフにしているのかな。オープニングでは馬に乗って砂浜を走り抜けるという映像を期待したい。
 それにしても、他にどんな名前の候補があがった上で「アバレンジャー」に決定したんやろう。よほどアホらしいものがそろったに違いない。「アバレンジャー」以外のタイトルの候補を知りたいなあ。
 昨日も今日も日記がしょうもなすぎますか。私もそう思う。喜多さんどないしたんやろねえ。

2月5日(水)

 最寄り駅の構内に、新しいマンションのポスターがでかでかと貼られている。若い女性が大写しになっていて、「私は月のような美しい家に住む」というコピーが麗々しく書かれている。私はそれを見て「そんな家には住みたないなあ」と思うた。月のような家ですよ。生き物も住まぬクレーターだらけの荒れ地で、日のあたるところは灼熱地獄、影に入ったら酷寒にこごえる。重力は3分の1。そんな家に住めるかいと心の中でつぶやきながら改札に向かう。これがあなた毎朝同じポスターを見せられるんですよ。その度に「月のような家になんか住めたもんと違うわい」とつっこんでは、ああ今日も同じことを考えておるなあと思う。きっと明日も同じことを思うんやろう。早いところはがしてくれんかなあ。精神衛生上、非常によくないわい。誰じゃ、あんなけったいなコピーを考えたやつは!

2月6日(木)

 駅前の書店が閉店した。小さい書店やった。新刊の品揃えも、配本そのものがなかったんやろうか、あんまりええとはいわれへんかった。それでも、毎日通えばそれなりに愛着もわく。雑誌の入荷などはきっちりしていてよかったし、駅前の書店らしくビジネス書を目につくところに並べるなど、それなりに工夫をしているところに好感をもっていた。
 もう少し売り場面積があったならなあ、と思う。仕方のないことなんやろうけれど。文庫などはなるべくここで買うようにしていた。ただ、雑誌中心の展開というのは、近くにコンビニが濫立しているだけに難しい面もあったんやろうなあ。
 あとは、家の近くにあるショッピングモールに入ってる書店と、やはり駅前にある年輩の店主がやっている店くらいか。前者は確かに新刊も多く入るし売り場面積も広い。でも品揃えに工夫がない。本に対する愛情が感じられへん。後者はいかにも地域の書店という感じで、これという特色がない。新刊の入り具合は今回閉店した店よりも悪い。
 私のようなものにとっては、ええ本屋があるかどうかは死活問題やからね。引っ越してきて1年以上たつけれど、ここという書店にめぐりあわれへんのが辛いところやねえ。
 いろいろと工夫していた小さな書店が撤退する。こういうのはなんともならんのやろうけれどものすごく残念やねえ。

2月9日(日)

 一昨日は最初から予定に入っていた飲み会、昨日は予定外でぽんと入った飲み会。2日続けて飲み歩くということが私にしては珍しい。私は酒を飲んでいても人に気を遣うてしまうところがある。特に楽しい酒になるような話題の振り方をしようというような、そういう気の遣い方でありますね。ところが、人のグラスが空になっているのには気がつかへんかったりする。つまり、飲みたかったら自分でついだらええやん、というようなところがあるのですね、私には。自分がそうやからかな。つがれたら飲まんならん、という感じになるでしょう、あれが苦手やねんな。私は酒は弱くはないけれど、つがれたらつがれただけ飲むという方でもない。どちらかというと自分のペースで飲みたい。そうやなかったら、つぶれてしまう。飲み会でのあの空のグラスがあったらついであげへんかったら失礼、というような慣習は、あれはなんとかならんかな。

2月10日(月)

 「哲学入門」という授業を受け持ち、学年末のレポートを書かせ、評価をつけ、そのレポートを冊子とすべく毎日のようにパソコンのキーボードを叩いている。高校生ならではの人生観がいろいろな形で現れている。みんな悩め悩め、悩んで大きくなれ、という感じですかな。
 そのレポートの中に、私に質問している生徒がいた。「人間は何のために生きてるんですか? 教えて下さい」。
 それを自分で考えるための「哲学入門」やんけ、というツッコミをしつつ、それが教えられるくらいやったら苦労せんよと、つぶやいてみる。
 こういう日記ではそんな深いテーマについて書くことは不可能ではある。また、ここに書いたからというて、質問をした生徒が読んでるとは限らんしね。ごく大雑把に、粗雑に、ええかげんに、一言だけヒントめいたことを書くのが精一杯。
「生きるために、生きている」。あるいは「死ぬために生きている」。
 名を残すために生きる人もいれば、刹那的に快楽を求めて生きる人もいてるやろう。どんな生き方をするにせよ、生きるという行為そのものに違いはなかろう。そして、やがて人は死ぬ。どんな死に方をしようが、死ぬという事実は疑いようもない。
 まあ、問題はそこから先でありましてね。生きるという行為そのものにどういう意味を持たせるか、それを考えるのが哲学なんかなあと思う。まあでも、若いうちにそういうことを真剣に考えるのは大切やと思うしね。そういうことから目をそらして生きるという楽な方法もあるわけやけれど、それでは生きてておもろないと思いませんか。
 というわけで、「人間は何のために生きているのか」なんて、私はよう答えられません。いや、この世の中にそれが答えられる人が何人いてるか。きっぱりと答える人というのは、ほんまに真理にたどりついた人か、粗雑な神経しかもってへん人のどちらかでしょうね。


てなもんや囲炉裏端 ゆっくりまったり掲示板ですお気軽にご利用下さい。

メールはこちらまで。どうぞよろしく。


過去の日記へ。

ホームページに戻る