ぼやき日記


8月21日(木)

 今日から授業再開。ただし3年生のみ。私は3時間目と4時間目に授業がある。それはちゃんとわかってるのに2時間目に教室に行ってそこが無人なので驚いたりする。1ヶ月も授業から離れるとここまでぼけるかね。
 というか、ここ数日は雑文や童話などを書いていて、頭が教師のそれに切り替わってへんかったんですな。生徒はそれなりに一所懸命やってるだけに、授業が始まるとこちらも気持ちが引き締まる。3年生ともなると、このままではいかんという気になるんやろうね。
 というわけで、短い夏休みも終り。積み残した宿題もあるけれど、それは午後から授業がないのでその時間に消化していこう。
 とはいえ、テレビで高校野球のハイライトをしてたりするのを見ると、気分はまだ夏休みやねんけどねえ。理性では「夏休みは終り」やけど感覚では「まだ夏休み」。このギャップをいかにして埋めていくか、でしょうな。

8月23日(土)

 どうもここ数年高校野球というものに興味が持てなくて、テレビ中継も見てなんだのやけど、今年は珍しく2試合も見る。平安高校と東北高校の試合は、評判の2年生投手、服部とダルビッシュの投手戦を期待してチャンネルを合わせたら、期待通りの緊迫した好ゲーム。今日は猛暑で何もする気が起こらず、ああ決勝戦やねんなと思いながらテレビをつけた。東北高校と常総学院の試合。こちらもハイレベルの試合で見ごたえがあった。たまたま見た2試合とも中身の濃いものやったからよかった。
 もっとも、夜にプロ野球の試合を見ると、難しいプレーをさも当たり前のようにやってのけたりするので、やっぱり私はプロ野球の方が好きやなあ。
 それはともかくダルビッシュ。彼の勝利インタビューは思ったことを素直に言い過ぎて傲慢に響く。閉会式では他の選手がじっと立っているのにあっちを見たりこっちを見たりもぞもぞと体を動かしたりといかにも落ち着きがない。あれは何やろうね。障害というほどのもんやないとは思う。そやけど、なんか気にかかる。そんなふうに選手を見てしまうというのは、職業病かもしれへんけれど。
 まあ何にせよ、久しぶりに見る夏の甲子園は、「感動」の押し売りさえなかったら、それなりに楽しめた。こうやって秋がくるんやなあ。それやのに何やねん、この暑さは。一瞬、秋がきたかと思うたら一気に夏に逆戻りやないか。ああしんど。

8月24日(日)

 昼は暑かったけど、夜になったら窓の外から秋の虫の声が聞こえてきた。高層マンションの20階あたりでも聞こえるんやから、かなりたくさんの虫が鳴いてるんやろう。やっぱり秋は来てるんやなあ。

 さて、毎度おなじみ「鉄腕アトム」ぼやき日記です。今日は20話「いつわりの楽園」。ピーターパンの人形劇一座がやってきて、それを楽しむアトムたち。しかし、その一座の団長はドクロベエさまやった。いや、それは声の出演が滝口順平さんやったというだけですけど。その団長は子どもを誘拐して、自分の作った楽園に閉じ込め、永遠に子どものままでいさせようという陰謀を抱いていた。団長の正体は慈善家で、子どもたちを可愛がるあまり、子どもを醜い大人の世界に巻き込みたくないという妄想を抱くようになった、というわけ。子どもたちは催眠電波みたいなもので操られ、自分の意志とは関係なく偽りの楽園につれていかれようとしてる。それを阻止するのが、アトムということ。
 筋立てとしてはぼやくようなところはないけれど、細部に気になるところがいくつかあった。ひとつは、永遠に子どものままというのが、肉体的なものなのか、精神的なものなのか、そこらあたりがはっきりしてへんところやね。体の成長を止められて閉じた空間で子どものまま過ごしたとしても、そこで一定の社会生活を営む以上、年数がたてば精神的に子どもの次期を脱していかんとあかんやろう。精神的な成長を止めるということならば、その仕組みはどうなってるんか。そこらあたりあいまいなのがひっかかった。
 もうひとつは、本当に永遠に成長しないアトムからの視点が欠けているというところ。アトムが団長に「僕は生まれた時にはこの姿で、壊れるまでこの姿なんですよ」というシーンがあったらもっとよかったのになあ。このアトム、ちょっと単純すぎる。
 もっとも、子どものすばらしさは「未来がある」ということなんやというメッセージは十分に伝わってはきた。いくぶん説教臭くはあるけれど、先週のマーク・ハンドラーの脚本よりも段違いに出来がいい。エンディングで見たら、小林弘利の名が。キャリアのある書き手にもっと好きに書かせたらどないだ。

8月25日(月)

 昨日あたりから落ち着いたけれど、一昨日には数十通の異常なメールが届いて驚く。いずれも添付書類つき。タイトルのほとんどが「detail」か、「Re:detail」というもの。おそらく無差別に大量にばらまかれたウイルスメール爆弾やないかと思う。もちろん即刻ほかした。私の場合はmacintoshなんで比較的ウイルスのターゲットにはなりにくいみたいやけれど、それでも中にはまじってるかもしれへん。仕事中心に使うているWindowsマシンは、マンションのポータルサイトのメールアドレスを使うていて、そのアドレスでメールを送るということはまずあらへんから、今のところ大丈夫やないかとは思う。
 それにしも接続したら、いきなり「サーバにメールが71通あります」ときたのには驚いた。うちいくつかはメールマガジン、いくつかは海外からくる一獲千金やら助平画像サイトの案内メール。71通あって、個人あてのメールは一つもあらへん。それもなんか寂しいなあ。

8月26日(火)

 パロディとは何やろう。そこにポリシーがなかったら、それは笑えんものになる。私はそない考えている。パロディは、単なる悪ふざけでもかまへんけれど、パロディの対象となったものがある以上、なんで悪ふざけをしたんかという裏づけが必要なものやないかと思うている。
 フジテレビがバラエティ番組で「ウォシュレット」をもじった「王シュレット」という「パロディ」商品を作った。私はそれがどういうものか見てへんかったんで、それに関して何か書くことはひかえていた。今日、雑誌で「王シュレット」の写真を見たんで、ようやく書ける。
 人の顔を便器の中に入れ、口から尻を洗う水を出させるというアイデア自体には、私は批判を加える気はあらへん。ただ、何のためにそれをホークスの王監督の顔にして、どういう笑いをとろうとしたかというところに問題がある。「ジャパネットたかた」をもじって「ジャパネットはかた」にした。それで通販番組のわざとらしさやうさんくささを笑い飛ばそうという面白さはわかる。博多関連でホークス、王監督という連想になったんやろうなというのもわかる。ただ、王監督の顔を便器の中に沈めたことで、通販番組のくだらなさを笑い飛ばすことができるかというと、それは無理やろう。通販番組のパロディにあるポリシーと、「王シュレット」という「パロディ」商品のアイデアが結びかなんだということやないか。そこに残るのは意味のない侮辱でしかない。
 構成作家もディレクターも芸人も、筒井康隆や小林信彦や清水義範や山藤章二をしっかり読んで「パロディ」のポリシーとは何かを体得しなさい、といいたい。「ゲバゲバ90分」のビデオが残ってたらなあ。
 王監督は人の尻を口から水を出して洗うほどのものに貶められんとあかん人物なんかどうか。「パロディ」の製作者たちが本気でそう思うていたんやったら、「王シュレット」も別に問題はなかったと思う。「テレビの放映権を認めない」という恫喝に対して局がすぐに謝り、「ジャパネットはかた」のコーナーもなくすということは、抵抗するほどのポリシーもなかったということやと、私には感じられた。私は製作者がどこかで反論するのを心待ちにしてるんやけれど。「パロディ」を甘う見たらあかん、ということやね。

8月27日(水)

 サンテレビでタイガースの試合の中継を見ていたら、某自動車用品チェーンが「タイガースが優勝した翌日から7日間、優勝記念セール実施!」というコマーシャルをしていた。すると妻が、「これでタイガースが優勝せえへんかったらどうなるの?」と実に素朴な疑問を投げかけてきた。
 小売店にはタイガースのマークがついた商品が並び、新聞社や出版社はここぞとばかりにタイガース関連のグラフ誌や単行本を発行するという「なんでもええからタイガース万歳」状態が続いている。これは前回優勝した1985年、優勝まであと一歩というところでこけた1992年でもここまではいかなんだ。不景気をタイガースの快進撃で吹っ飛ばそうという期待感の現れといえるけれど、ほんまにこれで優勝できなんだら大変なことが起こりそうやね。
 倒産する会社も出てくるやろうし、虚脱感から一転して暴動が起こってもおかしくないんと違うかな。まあ、ここまできたら優勝を逃すということはよほどでないとあらへんと思うけど。
 それにしても、関西全体の沈滞ムードを吹き飛ばす材料としてたかがプロ野球の一チームにこれほどまでの期待をかけてしまうということ自体、異常なことやと思うね。選手はそれに気がついているかどうかはわからんけれど、あまりにも重荷過ぎるということだけはいえる。
 ほんまに、ほんまに、優勝でけへんだら大変なことが起こりそうで、それが怖い。まあ優勝はもう間違いがないとは思うけどね。

8月28日(木)

 大阪教育大附属池田小学校襲撃犯の宅間被告に死刑判決が下った。被告の希望が通った形の判決に、無期懲役で反省するまで生かしておけというような意見も識者のコメントとしてでている。それはそれで納得できる。
 学校で起こった事件だけに、私自身いろいろと思うところはある。けれどもそれをうまく言葉にでけへんもどかしさがある。あれこれと書いてはみたものの、誤解を招くかもしれんと思い、ここに書いたものを結局みんな消してしまう。
 ただ、宅間被告の何か人目をひくことをして満たされない欲求を発散したいという心理は、誰もが心のどこかにあるものやないか、というようにも思う。むろん、普通は理性でそれを抑え込むか、前向きな方向で欲求を満たすかするのが普通やのに、宅間被告はそうやなかった。極めて理性的に負の欲求を最も効果的な方法で実行にうつした。私が彼に嫌悪感を感じるとしたら、自分の心の奥底に秘められた負の欲求を現実に見せつけられたような気がするから、なんかもしれん。
 現役の教員として、事件を食い止められなんだ小学校の教師たちの無念はいかばかりかと思う。

8月29日(金)

 職員の喫煙室で、サッカーファンの同僚からジーコの話を聞く。ジーコというのは日本のプロ野球でいうと長嶋茂雄みたいな存在なんやときいてなるほどと思う。監督として疑問符がつく采配や用兵をしても、批判しにくいらしい。
「ジーコになってよかったのは、海外遠征をした時に南米の有名チームが日本との試合を入れてくれるようになったことですよ」。
 つまり、ジーコの顔はそれだけきくということなんですな。そやけど、長嶋はそこまで海外で顔は売れてへんと思うぞ。海外のチーム相手なら顔がきくのは王貞治でしょう。ひと昔前までやったら、来日した外国人選手は王さんには表敬訪問にたいてい来たという話をきいたことがある。
「もっとも、南米のサッカーファンは日本のプレーは見ないでジーコの顔ばっかり見てるんですよ」。
 うーむ、私はジーコというとテレビのコマーシャルで「ひとりでできた!」と嬉しそうに叫んでる姿しか思い浮かばんのやけれどねえ。もっとも、野球を知らん人やったら長嶋というと「セコムしてますか?」やとか物真似芸人がやる「うーん、どーでしょーねー、いわゆるひとつの野球の面白さというんじゃないでしょーかー」というセリフくらいしか思いつかんのやないやろうか。つくづく思うね。テレビというメディアの作り上げるイメージのもつ怖さというかなんというか。

8月31日(日)

 昨日は職場の同僚の結婚披露パーティー。午後から京都に行く用事があって、とんぼ返りで大阪に。阪神百貨店に寄り、タイガースショップでお祝の品を買う。彼もタイガースファンなんである。
 パーティーは「仮装」でという話で、前日に新郎からも「喜多さん、期待してますよ」てなことを言われてたんで、私は甲子園でも着たことのないタイガースのハッピを買い、またタイガースのアロハシャツを買う。開宴まで時間がなかったんで、梅田から会場までタクシーを利用。失礼ながら、そこでアロハシャツに着替える。ハッピは会場に着いてから着よう。
 会場に着くと……。誰も仮装なんかしてへんやんけー。ちゃんと招待状を読めよー。礼服を着てる人もいてるやんけー。中途半端にアロハだけ着てたら単なる非常識なおっさんやんけー。えーわいえーわい。ハッピも着たる。帽子もかぶったる。応援グッズも首にかけたる。東京から来ていた新郎の友人の方で、芸能事務所でマネージャー業をしてはるという人が同席。「あのー。携帯のメールで東京の友だちに送ってもいいですか?」とカメラつき携帯を構える。ああもう好きにしなさい。ここまできたらなんでもかまわん。はい、ポーズ。
 披露パーティーはいろいろな趣向もあって面白かった。FMラジオの番組がバックアップしてるらしい。そういう結婚式関係の番組があるんやね。
 いやしかし、ハッピにアロハの結婚パーティーというのは、もうないでしょう。次に着る時は昨年からこの日記で広言している「タイガース優勝記念オフ会」かな。その時はみなさんよろしく。


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