ぼやき日記


6月1日(火)

 来年度の教科書採択にあたり、出版社からいっぱい教科書が送られてくる。必修科目などは採択されるとかなりの部数が購入されるわけやから、営業さんも一生懸命。私の担当する「倫理」の教科書は、出版社によってかなり力点の置かれ方が違うから、丹念に読み比べて結果を出したいところやね。個人的には鷲田清一さんが監修をしている教科書が一番面白いんやけれど、それは読み物としての面白さであって、例えばセンター試験を受けようという生徒についてはあまり向いてへん。そやからというて従来の教科書と同じ作りのものやと、哲学や思想のカタログみたいで、生徒の興味をどこまでひきつけられるかは授業担当者の腕次第ということになる。じっくりと読み比べるには少し時間が足りない。そやけど安易に決めてもいかん。最終的には今年使用したものをそのまま引き続き使う方が指導の一貫性という意味でも適当という判断を下すことになるんやろうけれどね。
 同じ教科の教科書でも、編集方針によってかなりの違いが出てくる。そこから何を選び出すか、教師としての力量の問われるところかもしれんな。

6月2日(水)

 佐世保での小学生の女子による同級生殺害事件には驚いた。職業柄、細かな事実がわからないところでのコメントはひかえたいところではあるけど。こういう場合、担任の教師がかなりきついんやないかなと思う。マスメディアなどは事件そのものについてのみ触れるだけでいいわけやし、まったく無責任な匿名の聴衆は加害者が特定できる写真をどこからか入手してネット上で公開するなどという自分が直接関係していたら絶対してほしくないことをやったりして面白がったりする(自分が傷つかない位置にいれば、人はどんな残酷なことでもできるんや、ほんまに)。担任の教師はそうはいかん。小学校6年生の女の子にとって、同級生の死、しかも友だちによる殺害というトラウマになるようなできごとや。いかにして教師は生徒たちに対してケアをしていくか。私が担任やったとしたら、どうするやろうか。正直、見当もつかん。
 子どもが無垢やなんて私は思わん。それどころか小ずるいところや残酷なところがむき出しになる分だけ対処が難しいと思う。今回の事件はそれが最悪の結果になってしもうた(頚動脈にカッターナイフがまともに入ってもうたのは、偶然の産物である可能性が高いんやないやろうか)。このことを教師は生徒にどのように受け止めるよう指導していくのか。その心情を思んばかるだけで、こちらまで辛くなる思いやね。

6月3日(木)

 今日の夕刊の報道では、佐世保の小学生は「頚動脈を傷つけたら出血多量で人は死ぬ」という知識を持ってはいたけれど、「死」そのものに対する実感があったわけやないみたいやな。自分が殺した友だちについて「会って謝りたい」と言うたそうやから。おい、自分が殺しといて何を言うてるんや、死んだ子にはもう会われへんのやで。そうつっこむのはたやすいけれど、実際にその友だちとは二度と会われへん、その現実に直面し、それをしたのが自分やという「殺人」という事実の重さに直面した時、この女の子の精神がどのような状態になっていくんか。
 私は子どもの頃、家でカナリヤを飼うていた。2羽いたカナリアのうち、1羽が苦しんで暴れた姿のまま死んでいるのを見た時に、私はかなり衝撃を受けたことを記憶している。「死」とはどういうことなのか。残されたもう1羽は、かなりの長寿でこちらは眠るように死んでいた。死に方の違いというものも、私の心に深く刻まれた。
 この女の子に、そのような経験があったのか、なかったのか。そこまではわからんけれど、具体的に「死」をイメージでけてへんということは、そういう経験をしてへんのやなかろうかと思われてならん。私が勝手にそう思うだけではあるけれど。
 情報過多の時代に、実感でけん「死」の事実。このアンバランスさが現代的といえばそれまでやねんけどね。子どもにネットを使わせるべきかどうかという論議以前に、このアンバランスがどこから生じたのかをつきとめていくことが大切なんやないやろうかと感じた。「死」を実感でけん者が「生」を実感できるやろうか。

6月5日(土)

 「虚航船団パラメトリックオーケストラ」の「ポットベトル」というお芝居を見に一心寺シアター倶楽へ。その前に演劇部顧問の地区会議というのがあって、そちらにも出席。阪急京都線沿線の高校から原チャリで天王寺までいったわけでして、今日は演劇がらみの1日でしたな。
 主役は北野勇作さん。市役所の環境衛生係で、小学生にゴミの分別回収について説明してたら横文字の言葉がすんなりと出てこなくて困るという人物の役やった。この人物が、目の不自由な女性の家に招かれて家中に積み上げられたゴミを分別するという作業の手伝いをすることになる。一方、資源ゴミを地中に埋めて自然に返すという目的の会社の人々が登場し、集めたゴミの保管場所を確保するためにトンネルを掘り始める。作業員にとんでもないのがいて、計画を無視して掘り進むものだから、北野さん演じる公務員、目の不自由な女性、その養女、そして公務員の妻の4名は作業員の開けた穴に吸い込まれるように地下に。かくして1人の迷惑作業員のおかげでたくさんの人たちが地下をさまようはめに……。
 ここのところあれもこれもやろうという感じで少し散漫になっていた印象のある秋山シュン太郎さんの脚本やけれど、今回のお芝居は地下でさまよう人たちの悪戦苦闘ぶりでストーリーを引っ張っていて、よくまとまった楽しいお芝居やった。北野さんの演技は前から自然な感じで好感を持っていたんやけれど、今回主役ということでその持ち味がよく発揮されていた。ええ役者さんやなあという感じで見られた。もっとも、公務員が横文字を常に間違えるという設定とストーリーとの間のつながりがもう少しわかりやすかったらなおよかったのに、なんて思ったりもする。それでも、全体にかなり面白いお芝居に仕上がっていて、次回公演も楽しみやね。

6月6日(日)

 今日は野球中継を横目に書評用のゲラ読み……の予定やったんやけれど、タイガースの試合は雨で中止。ならば読書に専念できたと思うでしょ。ところがやね、ついつい「きよし・なるみのめっちゃ漫才」なるテレビ番組を見てしまいましてね。やすよ・ともこ、麒麟、笑い飯の若手コンビから、中川家、そしていくよ・くるよ、こだま・ひびき、カウス・ボタンとまあ次から次へとおもろいコンビが登場いたしましてですね、2時間漫才ばっかり見てました。いえいえ、ちゃんとゲラは読めましたよ。この日記を書いたら書評も書きますから、担当さんはご安心下さい。
 それはともかく、司会の西川きよし師匠やけれど、相方のいてへん漫才師は、これだけのキャリアのある人でも間が悪くなるもんなんやなあとしみじみ感じた。なるみさんのフォローでなんとかカバーできてはいたけれど、往年の横山やすしさんや桂三枝さんなどとテレビ番組の司会をしていた頃の間のよさが、もうないように感じられた。相方がいてへん、そして、議員先生も長くなり(今度の選挙には出馬せえへんらしいけれど)偉くなり過ぎたことなどなど、いろんな理由はあるんやろうけれど。
 カウス・ボタンの漫才が、アドリブがばんばん出てきながらもみごとに笑わせてくれたのとは対照的。キャリアからいうてもそれほど大きくは変わらんわけやから、ずっとコンビを組み続けているのとそうでないのとの違いみたいなものがくっきりとあらわれた感じがする。そういう意味ではテレビというのはそのあたりをくっきりとえぐり出すようなメディアなんやなあと、その現実の残酷さをつくづく感じた次第であります。

6月7日(月)

 今日から中間考査。私の担当している科目の試験は初日の今日にあったんで、採点の時間も余裕でとれる。テストが終った直後に返却してあげたいからねえ。さっそく正解を作ってプリントアウトしようとしたら、プリンターの文字がかすれてしまう。インクはある。ヘッドクリーンを何度もするけれど、それでもあかん。そのうちに黄色のインクが切れてしまいパソコンが「インクが切れたので交換して下さい」とメッセージを出す。これではプリンターのクリーニングどころやない。
 帰宅の途中で梅田までまわり、ヨドバシカメラでインクを買う。インクだけやなく、カートリッジのフォルダーも買い替えることにした。もしかしたらフォルダーのインク排出口がつまってるのかもしれんからね。これであかなんだら、修理に出さんならんのかな。プリントの作成などでプリンターは必需品だけに、フォルダーの交換だけで問題が解決してくれたらええんやけれどね。
 あ、「オチがない」とつっこまれそうですな。ぼけてるんはプリンターで、今日はずっと私がプリンターにつっこみを入れてたんだ。私までが日記でぼけてたんではプリンターがなおらんような気がしてねえ。

6月8日(火)

 わーい。プリンターは正常に動きました。先代平和ラッパなみの大ボケをかましていたプリンターも、これで上岡龍太郎なみにクリアーな印刷ができるようになりましたとさ。例えがわかりにくいですか。

 今日、試験監督に行った科目には、私が担任をしているクラスの生徒も何人かいまして、私が答案用紙を持って教室にはいると「え〜、先生が試験監督なん〜」てなことを言う。試験監督でテストの点が変わるわけもなし。誰が監督しようといっしょやおまへんか。それとも、テストのできが悪いのを担任に横から見られるのが嫌、ということかな。担任というのは、なかなかこれで微妙なポジションなんかもしれんなあ。養護学校の場合は生徒とかなり密着していかんとつとまらなんだんやけれど、高校の場合は密着しつつ距離を置くという技が必要みたいやね。6月になってもまだまだ担任らしさが身につかんのであります。卒業までこんな調子なんやろか。ま、そういうタイプの担任というのがいててもええか。生徒から見たらどうなんやろうね。

6月9日(水)

 いくら本音と建前は別とはいうても、自衛「隊」が多国籍「軍」に参加をするというのは憲法上問題があるのと違うかなあ。むろん「人道支援」が目的で派遣されているということをわかってはいるんやけれどね。それでも他の国の「軍」といっしょに行動するからには、国際的には「軍」と認識されているということやないのかねえ。国内的には解釈上の問題ですまされても、対外的には詭弁としか受け止めてもらわれへんやろうからね。なんかもうなし崩し的に事が進んでしまうというこの状況というものが怖いのですね。どこかに歯止めが欲しい。ほんまに。

6月10日(木)

 「週刊百科」のたぐいもあれやこれやと出されていてネタが尽きてきたか最近は「機動戦士ガンダム」があたかも実際に起こった歴史であるかのように仕立てたものが出たりしている。今日書店で見かけたのは「仮面ライダー」。版元は講談社。ネタがネタだけに面白そうやったら買うてみようかなと思うたんやけれど、結局やめにした。
 読者対象を30代後半から40代に設定してるんやろうと思う。刊行予定を見ると、「仮面ライダーBLACK」以降は扱わんらしい。対象としているであろう年代の者にとっては「BLACK」や「RX」、そして「クウガ」以降の〈平成ライダーシリーズ〉は売れんと踏んでいるんやろうね。「百科」的なものにするのならば徹底的に追求してほしいところやのに、ほどのよいところで切るという発想が、私の食指を動かさんものにしているというてええやろうね。
 しかも、内容もシリーズの上っ面をなでたような感じのもので、写真は豊富に入っているけれど、それだけ。この中身のなさは何やろう。
 で、ふと思い出したのが同じ版元の「テレビマガジン」。写真をいっぱい使うてテレビのさわりを見せる、あれと感触が似ているんですわ。つまり、熱烈なファンやマニア向けのムックではなく、「仮面ライダー」で育ったけれど大人になる過程でそのことはどこかにしまいこんでおいたというようなおっさん相手に、大人向けの「テレビマガジン」を売りつけようという感じかな。ここには当時の秘蔵の資料を使うて「仮面ライダー」の世界を現代の視点から洗い出そうやとかいう発想はない。ただ「懐かしさ」だけで手に取る中年男性が大量にいてるやろうからそれらに買わしたろうという戦略があるのみ。
 そんな安易なことでええんかなあ。一時ばかすか出た「謎本」とたいして変わりがない。「謎本」は企画が安易で中身がないから飽きられたんやないかと私は思うているんやけれど、「週刊百科」もそろそろ飽きられる頃にきているんやないかなあ。駅前の本屋のおばちゃんが私にこぼしていたぞ。「こんだけ種類が出たら、棚がいっぱいになって困るわぁ」。売れていたら回転もええから本屋のおばちゃんもにこにこしてられるやろうけれど、客である私にぼやくくらいやから種類は増えても売り上げはかんばしくないのと違うやろうか。
 大人向けの「テレビマガジン」やったら、私は要らん。「テレビマガジン」は子どもやから楽しめるものやないかと思う。

 明日は都合で更新できません。次回更新は土曜深夜の予定です。


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