ぼやき日記


10月11日(火) 京都SFフェスティバル2005私的レポートその3

 アニメ『アニマル横町』の第2回目を見る。うーむ、第1回はナンセンスさが波長に合うと思うてたんやけど、一気にたわいないものになってしもうている。ギャグというのは難しいもんなんやなあ。そう思うと常に一定の水準でドタバタがエスカレートしていく『おねがいマイメロディ』はなかなかすごい。あの『ケロロ軍曹』も回によって出来不出来の差は大きいからなあ。『マイメロ』あなどりがたし、というところか。

世界文学入門
 さて、毎日ぼちぼち書き綴っている「京フェスレポート」であります。3つ目の企画は「SFファンのための世界文学入門」。出演は「SFマガジン」で「SFファンのための海外文学百科」を連載していた牧眞司さん(写真右)とやはり「SFマガジン」で海外SFの書評を担当している林哲矢さん(写真左)。要は、「海外文学なんていうから難しく感じられるので、面白い小説として楽しめばいいのです」ということなんやけれど、それをどう楽しむかということを実例をたくさんあげて教えてくれる、という企画ですな。文学を楽しむというのは、牧さんによると「いかもの食い」の楽しさなんやそうです。あれこれと文章による実験をしてしまい、イッてしまっているのが文学というもので、もうこっちの世界には帰ってこないのが楽しい、というわけ。読者は研究家やないんやから作品世界を掘り下げる必要もないし、「作者の言いたいこと」は何かなんて考えんでもええ。ましてや「人間が描けていない」なんてことを言う「文学爺い」なんてのはもう絶滅危惧種やねんから気にせんでもよろしい、となる。「人間が描ける」のは作品にリアリティを与える技法の一つに過ぎないということやという。とにかく現代文学は「人間を描く」ということよりもどのような表現をするかということに比重が置かれているということやそうです。
 お2人はいろいろと作品を紹介してくれはったけれど、確かに面白そうやなあ。つまらない作品は途中で読むのをやめて次にかかることにしているらしい。よう考えたら贅沢な読み方ですな。もっとも、私はここで紹介された作品には手は出さんと思う。今でさえ読書量が落ちているのに、これ以上手を広げるとえらいことになるぞ。
 とにかく、小説はどんなジャンルのものでも楽しみながら読もうよ、というメッセージがよく伝わってくる対談でした。
 というわけで、続きはまた明日。

10月12日(水) 京都SFフェスティバル2005私的レポートその4

 中国がまたもや有人宇宙飛行をやった。国威昂揚の手段としては、やはり効果的やと思うなあ。無人ロケットを発射して失敗すると、有人飛行が可能な技術をもっていたとしても、技術力が低いような印象をもたれてしまうのがこれまでの日本やなかったか。それにしても、今の中国は「昭和元禄」時代の日本みたいな感じやね。

リアルフィクションな人々
 さてさて、「京フェスレポート」も佳境に入ってまいりました。
 本会の最後のプログラムは「リアル・フィクションとは何か?」と題された座談会。出演は、右の写真で左から塩澤快浩SFマガジン編集長、桜坂洋さん、桜庭一樹さん、新城カズマさん、三村美衣さんであります。新城さんがいないように見えるけれども、三村さんの影に隠れて見えないだけで、ちゃんと座ってはります。実は、事情で新城さんの写真は公開不可なのだそうで、私はわざと三村さんが身を乗り出し新城さんが見えなくなったところを撮影したのでありますね。これはこれでけっこう難しかった。いや、写真自慢をしてる場合やないか。いうても、塩澤さんはお茶をのんでるし、桜庭さんはなにやらきょとんとした表情やし、あんまりええショットやないなあ。全ての条件を満たすのは難しいのでありますね。そんなことはどうでもよろしいか。
 で、「リアル・フィクション」とはなにかというと、冲方丁『マルドゥック・スクランブル』をはじめとするヤングアダルト系の作家の文庫を出す時に、早川書房がその帯につけた「次世代型作家のリアル・フィクション」というコピーに由来する言葉なのですね。私の解釈では、「『ライトノベル』という言葉を使いたくないので、そのかわりに編み出した造語」なんやけれども、言葉というのは恐ろしいもので、そんな造語でも、できてしまうと何らかの意味をもって一人歩きする。実際、この座談会では桜坂さんや新城さんは「リアル・フィクション」という言葉にはあまりこだわってないけれども、桜庭さんは「『リアル・フィクション』の依頼かと思ったら、『SF』の依頼だった」と発言している。つまり、桜庭さんには「リアル・フィクション」というジャンルが「SF」とは別に存在していると感じられたということなんやね。桜庭さんは「『リアル・フィクション』は現実と虚構の違いをはっきりさせないもの。全体像がぼんやりと浮かぶもの」というとらえ方をしてはるようです。それ、SFかてそうやん、と私は思うのですけどね。新城さんは「自分はSFの棚卸しのつもりで『サマー/タイム/トラベラー』を書いた」と言うてはるし、桜坂さんも「SFの見直し」と言う。
 印象的やったのは、桜庭さんの言葉で、「青春小説を書きたい。リアルな感情を書く時に、SF的なものをいれるとよりその感情を書くことができる」というところ。現実を生々しく書こうとすると、かえって嘘っぽく見えてしまうというのが現状なのかな。誇張された設定の中やと、気恥ずかしくなるようなテーマでもかえってリアリティのあるものに感じられる、ということか。そういう意味では新城さんの「現実の”質”が落ちている」という発言に注目すべきかもしれんね。
 というわけで、「リアル・フィクション」を定義づけるのは、この座談会を聞いた限りではちょっと難しい感じがした。別に「SF」でええやん。出版社が便宜上つけたキャッチコピーにふりまわされるのはやめようよ。塩澤さんかてこう言うてはる。
「ジャンル意識はないですね」と。
 それにしても、新城さんはなかなか話がうまいし、面白いなあ。
 座談会が終り会場を出ると、作家の小林泰三さんが入り口で待っていた。北野勇作さんといっしょに食堂へ行き、夕食をとる。小林さんからいろいろ面白い話を聞いたけれど、ここには書けません。
 食後、合宿会場の「さわや本店」へ。その様子は明日書きます。
 続く!

10月13日(木) 京都SFフェスティバル2005私的レポートその5

 そろそろ書く方も読む方も飽きてきたかもしれん「京フェスレポート」。合宿の話は簡単にすませてしまいましょう。
 私の自主企画は5年目となりました「名盤アワー」。以前この日記でも書いたように、懐かしの特撮テーマ特集をやりました。なかなかの盛況でして、作家の高野史緒さん、北野勇作さん、小林泰三さん、漫画家のおがわさとしさん、レヴュアーの冬樹蛉さんなどが、「レインボーマン」のテーマほかを肴にわいわいと楽しそうに盛り上げてくれはりました。一般参加のみなさんも「ガメラマーチ」を口ずさんだりといろいろ楽しんでいただけたようで、ありがたいことです。来年もやりますよ。
 そのあとは若手作家の秋口ぎぐるさんがファンライターのタカアキラさんと組んで企画した「SF大喜利」に参加したけれど、こちらは笑いのツボが若い人たちと私や北野勇作さんとではいささかずれていて、しかも大喜利という難しいことを仕込みなしでやるということで、ちょっと苦しかったかな。
 酒を呑んで酩酊していた私はその他の企画に乱入したりして顰蹙をかったのやないかと思いますが、明け方4時ごろダウン。朝の7時半にスタッフに起こされ、8時からクロージング。そのあとは、北野、小林、冬樹、私の1962年組で宿の近くの喫茶店「からふね屋」へ。モーニングを頼もうとしたら、「京フェス」流れの客が大量に来襲したため飲み物だけにしてくれといわれて、空きっ腹と眠気を抱えつつ、それでもウルトラマンや仮面ライダーの話題をえんえんとしていたのでありました。さすがにおなかがすいて場所を変え、カレーショップの「スパイシー」でまたおしゃべり。昼ごろに4人そろって京阪に乗り、私は途中で特急に乗り換えて自宅へ直行したのでありました。
 帰ってから気がついた。
 「丸善京都店」にお別れのために寄るのを忘れた!
 まあしかたないですね。帰宅してからは土日に録画したウルトラマンやら仮面ライダーやらを見て過ごしたのでありました。
 というわけで、5回にわたってレポートを書いてきたわけやけれど、今年も刺激的な話やためになる話や面白い話がたくさん聞けてしっかり楽しませてもらいました。まさか自分が前に出て話すことになるとは予想もしてなんだけどね。大森望さんの早いご回復を祈りつつ、レポートを終了いたします。

10月14日(金)

 今日の昼休み、文化祭の模擬店を宣伝すべく、各クラスの生徒が「お昼の放送」でわあわあとやっている。「ゲームの他に、フリーマーケットもやってまーす!」「みなさんきてくださーい」てな調子やね。
 で、あるクラスがいきなり、「お店の名前はエチゴ屋でーす!」と言う。
 越後屋!
 さて問題です。「越後屋」とくれば、それに続くセリフはなんでしょう?

 はい時間です。

 

「ふっふっふ、おぬしもワルよのう」。
 ですよねえ。
 このクラスは山吹色のお菓子を桐の箱に入れて売ってくれるんかと思いきや、ジュースなどごく当たり前のメニューなんやね。それでなんで「越後屋」やねん。
「1年5組でお待ちしてまーす」。
 あ、1−5で「イチゴ屋」か。なーんや。
 すると職員室で聞いていた同僚が「越前屋というと仏壇の前で手を合わせているイメージやのに、越後屋やったら悪代官と結託している印象になりますよね」と言うた(関西ローカルで、「えちーぜんやー」という仏具店のCMをやっているのです)。他に浮かぶイメージというと、漫画家のひさうちみちおさんといっしょに町をうろうろ歩いているヒゲをのばしたおっさんか(昔、「バスでコロコロ」という番組で越前屋俵太さんがそういうことをしていたのです。関西ローカルなものはいちいち注釈が必要やからめんどくさいな)。
 ところで、なんで悪代官と結託するのは「越後屋」なんやろう。別に「伊勢屋」でも「備前屋」でもかまわんやないか。そやけど、「ふっふっふ」と悪代官が笑うその前には「越後屋」の主人が座って「ささ、これはほんのお口汚しですが」とやっているというイメージがあるのですねえ。
 なんで悪徳商人は「越後屋」なんか。
 妻と話していても納得のいく解答は得られませんでした。もしご存知の方がいてはったら、てなもんや囲炉裏端でもメールでもかまいませんので教えてください。なんや気になって寝られへんかもしれん。
 反論でもかまいません。「うちの地方では『近江屋』が常識です!」という方がいてもええし。そやけど、やっばりこの場合は「越後屋」ですよねえ。違うかな。

10月15日(土)

 あと一人アウトに取ったら優勝。しかも点差は4点。胴上げの準備をするダグアウトの選手たち。ところが! なんと抑えの切り札が不運も重なって同点に追いつかれ、あげくの果てに逆転負け……。こんなおもろい試合を地上波ではどこもテレビ中継してへん。パ・リーグプレーオフの第3戦、リーグを盛り上げようというのなら、6球団がスポンサーとなって放送枠を買い取るとか、そういうことをしたらええのにと思うのは私だけかなあ。もっとも、今もって私はこの理不尽なプレーオフそのものには反対やねんけど。
 早う日本シリーズをしてくれい。タイガースの試合が見たくてうずうずしてるんやぞお。

 昨日の日記で、「越後屋の謎」について書いたら、掲示板やメールでご教示をいただきました。
 越後屋といえば、三井家が江戸で出した「現金掛け値なし」商法で当時の流通革命を果たした呉服屋が思い浮かぶし、これは山川出版社発行の「詳説日本史」という教科書にも書かれている。これが後の「三越百貨店」になったわけですね。で、かつてSF大会のスタッフをしていた時にお世話になった方からメールでご教示いただいたのは、そこから先の話。
「昔、ほんまの江戸の越後屋(三越の前進。なにがほんまはようわかりませへんが?)が大繁盛して、それにあやかって日本各地で『越後屋』の商号を持つ店が増えた。江戸時代は商標登録なんぞなかったので。で、大店(おおだな)の代表的な商号が『越後屋』となったので、時代劇に登場する大店の商号が『越後屋』になったのではないでしょうか」。
 ううむなるほど。
 そして掲示板で小林泰三さんからはこんなご教示が。
「以前、テレビで見た内容では、京都の撮影所に大道具として『越後屋』の立派な看板があったため、『越後屋』の登場回数が自然と増えてしまったとのことでした」。
 両者を総合すると、大店の代名詞として「越後屋」があった。そこで映画の撮影所でも大店の看板に「越後屋」を使用していた。その看板が立派だったため、テレビ時代劇でも自然と「越後屋」が多く使われるようになった。とまあこんなところになるのやろうね。
 はっきりこうだとは言い切れないにしても、おそらくこれが正解やないかな。
 かくして「越後屋よ、おぬしもワルじゃのう。むふむふむふふふ」「いえいえいえ、お代官様こそ、ぐふぐふぐふふふふ。では、これは些少ですが」「なになにそのように気を遣うものではないわ」という会話が定番となって私たちの脳裏に強く刻みつけられることになったのであるね。
 みなさん、ご教示ありがとうございました。

10月16日(日)

越後屋
 今日は「たちよみの会」例会でした。「アンサンブル」の湯川さん。京フェス実行委員長の大澤さんと六角さん、さらに初参加となる京大SF研1回生のお2人もきて下さり、とても楽しかったなあ。えんえん喫茶店で本を読んで人を待つということがなかっただけでも嬉しいし、若いお2人がフレッシュで(思えば、私の教え子というような年齢じゃ。こうなると先生と生徒という感じやな)よかった。来年の京フェスの実行委員長となるべく期待されているだけに、私も微力ながらお手伝いしたいところ。これからもちょくちょくきていただければ嬉しいね。

 で、写真の説明であります。今月から例会のあとに「ブックファースト」に寄ることにした。「丸善」の入り口にシャッターか降りていてガラス越しに見える店の中ががらんとしてるのはほんまに寂しかった。「ブックファースト」ももとはといえば今はなき「駸々堂」のあったところやからなあ。いろいろと思い出のある店の、看板が違うというのも私としては寂しい。まあ、そのうち慣れるやろ。
 散会後、CDショップをちょっとのぞいてから新京極通を歩いて阪急の駅に向かう。
 わっ! なんじゃこの店は! 越後屋やと。なんという偶然やろう。ここ2日ほど日記で「越後屋」ネタをふっていたら、こういう看板に出くわしてしもうた。
 修学旅行生向けのみやげ物屋やねんけど、なんで「越後屋」? この店はずいぶんと昔からある店やから、この店自体に見覚えはあったけど、まさか「越後屋」なんちゅう屋号やとは知らなんだ。ふつうこんなみやげ物屋の屋号なんか気にしてへんよなあ。また今日に限って目に入ったわけだ。
 うーむ、ネタというのはこうやって集まっていくもんやねんやろうなあ。店に入って山吹色の菓子折がないか確認したいという誘惑にかられたけれど、早く帰りたかったのでパスした。もしかしたら奥に悪代官が座っていたかもしれん。
 どうせなら、お客が店に入ったら「ふっふっふ、おぬしもワルじゃのう」と声が出る仕掛けとか作っておいたら受けると思うぞ。誰に受けるか知らんけど。

10月17日(日)

 日本シリーズの相手が決まった。千葉ロッテマリーンズですわ。
 これでパ・リーグは2年連続してシーズンを首位で勝ち抜いたチームが優勝を逃したことになるな。ホークスファンのみなさんはさぞかし理不尽やという思いを胸に秘めてはることやろうと思うね。マリーンズファンの方々には申し訳ないけれど、今年こそホークスに優勝してほしかった。そうやないと半年にわたる長いペナントレースとはなんやったかということになってしまう。
 それにしても、シーズン2位のチームが2年連続優勝したということは、この「プレーオフ」という制度そのものが2位チームが有利になるような仕組みになっているんやないかとつい思うてしまうね。2年くらいで結論づけてしまうのはよくないことかもしれんけれど、首位チームがしばらく待たされてじらされ、実戦感覚からも遠ざけられているのに対し、2位(3位が第2ステージに進出したとしても)はまずひとつ勝ち抜いて勢いがついている上に、実戦を続けているわけやからかんが鈍るということもない。第1ステージをやって疲れているというハンディキャップがあると言われていたけれど、それは違うんやないかということがおぼろげながら見えてきたように思う。
 今年の場合、マリーンズは前半ぶっちぎりの首位で交流戦でも首位になってるわけやから、日本シリーズ進出の値打ちはあると思う。そやけど、それとこれとは別です。やっぱりシーズン中で一番強かったチームに栄冠は与えられるべきやと思う。
 なんでも両リーグ足並みをそろえるためにセ・リーグでもプレーオフ方式を導入したいという意見もあるらしいけど、もちろん反対。例えば今シーズンのように2度も0.5ゲーム差に詰め寄られながらなんとか突き放して首位になったのに、結局プレーオフで敗れたりしたらあの時の手に汗握る思いに何の意味もなくなるやないか。
 それやったら前年の6位チームと5位チームがプレーオフ第1ステージをし、1勝したチームが前年度4位のチームと第2ステージをし、2勝したチームが前年度3位のチームと第3ステージをし、3勝したチームが前年度2位のチームと第4ステージをし、4勝したチームが前年度優勝のチームと第5ステージをし、5勝したチームを優勝とするというプレーオフをやるだけで、リーグ戦は廃止するということにしたらどないだ。
 むちゃくちゃ言うてると思うでしょ。そやけど、2位のチームが短期決戦を征して優勝するということのデタラメさに比べたら、ちゃんと筋は通ってると自分では思うとるぞ。

10月18日(火)

 今日、帰りに寄った本屋で「親力をつける」というようなタイトルの本をぱらぱらと立ち読みする。そんなことをしている時間があったら自宅に山と積まれている未読の本を読んだらええのにね。
 その本には勉強のできる子どもに育てるために親は何をすべきかというようなことが大きな活字と字間行間がすかすかなレイアウトで書かれていた。普段本を読まん親のために書かれたものらしい。テレビの横に世界地図をおいておいたら、サッカーの試合を見たりした時についでに地図帳を開いてその試合をしているチームの母国について勉強するようになる、てなことがまことしやかに書かれている。歴史好きな子どもに育てるには歴史漫画を読ませたらええんやそうです。特に男の子は豊臣秀吉を主人公にした漫画が好きなんやて。はて、今どきそんな漫画が本屋においてあるかなあ。池上遼一の「信長」やったら最近復刊されてたけど、あれは子どもが面白がれるような感じの漫画やないし。「学習漫画 日本の歴史」あたりを想定してるのかねえ。どうも漫画のことについてあまりくわしくないみたいな感じがする。もっと具体的に書名をあげたりせんと、普段本を読まん親が歴史漫画をコミックの棚で探すのはかなり難しいと思うぞ。
 この本、売れてるらしく、続編も横に並んでいた。子どもを本好きにしたからというて勉強の好きな子どもになるとは限らんと、今週の「週刊朝日」で斎藤美奈子さんが書いてるけど、私も同感やね。本好きの子どもが勉強のできるようになるかどうかはわからんが、マニアックな人間に育つ可能性の方が高いような気がするけど。
 こういう具体性もなく何の根拠もないことをもっともらしく並べ立てたようなハウ・トゥー本はどの時代でもけっこう売れるもんやと思うけれど、ぱらぱらとめくっただけでここまでええかげんやとわかるものが売れたりするのはなんかおもろないなあ。またその通りにする親がきっといてるんやで。そんなことをやって失敗したからというて著者は訴えられんやろうし。日記のネタにはええけど、わざわざ買う気にはならんのでした。
 そやからそんなもんを立ち読みしてる時間があったら自分の買うたもっと面白そうな本を読めよな。

10月19日(水)

 今週からアニメ「まんが日本昔ばなし」の再放送が始まった。ただの再放送やなく、傑作のセレクションで、またビデオ化されているものも初回放送時のバージョンを放送するという。およそ20年ぶりくらいになるかなあ、見るのは。最初は懐かしいなあという感じやったのが、だんだん画面に引き込まれていく。「かぐや姫」の構図の美しさは、画面を切り取って飾っておきたくなるほど。そしてなにより10分ほどの小品であるがゆえに密度が濃い。アニメ作家が1篇ずつ磨きあげるようにしてこしらえた作品やねんなあと思う。
 全体を覆う暗めのトーンともの悲しさがいい。市原悦子、常田富士男の俳優コンビの語り口にも深みがある。
 HDDレコーダーを購入してからというもの、アニメの新番組が始まるとひととおりチェックしている妻が、「このクールの一番の収穫はこれかも」と言う。最新作のコンピュータを用いてデジタル作画されたなめらかで美しい動きのアニメもええけれど、この昭和の空気をそのまま運んできた再放送にはその質の高さで勝たれんのだ。
 なんでこんなに心が動くんやろう。少し考えた。そうや。相手が子どもやというても、全く媚びがないからや。「萌え」系アニメが何かつまらんのは受ける「属性」とやらの記号をちりばめ、思い切り視聴者に媚びてるように思う。しかも「お約束」という言葉でくくられてしまう、「私と君たちは仲間だよ共通言語をもっているんだよ安心してこの世界にひたるんだよ怖くないんだよ主題歌CDドラマCDそしてDVD買うんだよ」というメッセージしか伝わってこんのですなあ。
 うむ。「まんが日本昔ばなし」は、いいとか悪いを超えて、すごい。こんなものを見て私らは育ったのか。それもまたすごいことであるなあ。

10月20日(木)

 この1週間は文化祭直前とあって、クラスの生徒たちが出し物の準備や練習をしたり、推薦入試の推薦書を毎日のように書いていたりとなかなかに忙しかったけれど、今日は前日とあって忙しさは倍増。クラスの朝練のつきそい。顧問をしている漫研の会誌の印刷。午後はまたクラスに戻って舞台稽古。アクシデントの処置。顧問をしている演劇部のつきそい。それに進路相談なども少し加わる。私は一つの仕事を集中してやるのは得意やけれど、複数の仕事を並行させるのはあまり得意やないので、切り替えが大変ですわ。
 家に帰ってから昨晩録画したSF(?)アニメ「アリア」を見るけれど、あんまり面白くないので癒されません。こういう時は大爆笑できるようなものがええのね。「癒し系」てな言葉が一時はやったけど、一番癒されるのは笑いかタイガースの勝利やね。人間笑わなあかんわ、やっぱり。
 というわけで、今から明日の文化祭で漫研の展示室で流すアニメのDVDをいくつか選ぶのであります。こういう仕事やったら時間外でも喜んでやるんだ。仕事か、これ?


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