ぼやき日記


3月1日(水)

 今日も昔話。
 私は大学に人より2年よけいに行っておりまして、4回生の時はなんでかしらんゼミの友だちの下宿にいてて、謝恩会の様子やなんかを聞いたりしていた。なんであいつの下宿にいてたのか。そこらあたりの記憶はない。学生結婚をした女の子がわざわざ留袖で来ていたとかいう話を聞いた覚えがある。その時はふうんと聞き流していたけれど、今思うと、嫌な子やね。大学の卒業謝恩会に留袖を着てくる23歳の子。見せびらかしに来たんかいと言いたい。
 というわけで、私は謝恩会なるものには出てへんのだ。
 6回生で卒業が決まり、卒業式に出るか出まいか悩んだけど、一生に一回のことやから出たらええぞと当時働いていた学習塾の社長にも言われ、出ることにした。まわりの顔は誰一人知らん顔。そのまま仕事に戻ったから、卒業旅行なるものもしてへんのだ。そしてそのままその塾に就職した。
 一浪して二留して、30になるまで教員採用試験を落ち続け。若くして書評家デビューしたはええけど、1年で首になり5年後にやっと商業誌に復帰した。それでも、今こうやって高校教師をしたり、ものかきをしたりしている(最近お呼びがかからんので次第に忘れられた存在になっているかもしれんが)。何度つまずこうが、なんとか取り返せるもんなんやなあ。
 卒業の思い出に謝恩会や旅行があがる人は多いと思うけど、知らん顔の中に埋まって迎えた卒業式というのはそんなに多くはなかろうな。いやそれでも卒業の喜びを誰とも共有せず、一人心の中でかみしめるというのも、それはそれでしみじみと嬉しかったことは覚えています。
 というわけで、私が受け持っている生徒たちの卒業式まであと1週間。あっという間に当日を迎えるのかもしれんがなあ。

3月2日(木)

 今日、担任クラスの生徒の進路が全員確定した。この1ヶ月ほど、そこらあたりの問題に関わっていろいろと思い悩んだり苦しんだりしたけれど、なんとか決着がついて肩の荷が降りたような思いがする。私自身、いい勉強にもなった。あとは卒業式を迎えるのみ、ですわ。

 東京へ行くことを「上京」といいますね。私は、この言葉、なんかしっくりこないんですね。どういうたらええんかな、東京に「上る」という感覚がないんやな。別に京都を「都」やと思うているわけやないけれど、心の内では東京を「都」とは認めてへんのかもしれんな。「東の『京都』やから『東京都』と違うのん」と思うのかもしれん。
 実際、本や雑誌、新聞などを読んでいて「東京都」と書いてあると、そこに書かれている「東」という字を無意識のうちに飛ばして読み、「お、『京都』か」と読み間違えてしまうんだ。いやほんま。京都出身というたかて、私が育ったのは市街地の外れでそれほど「京都人」であるというプライドやなんやはないと思うてるんやけどね。それでも京都人特有のプライドみたいなもんはあるのかもしれん。
 そやから、東京に行くのにも「東下り」という感覚は多少はあるかもな。大阪人ほど東京への対抗意識もないと思うし。逆に見下したようなところがあるかもしれん。そやから「上京」という言葉に対して抵抗があるんかな。
 というても、京都へ行くのに「上洛」というたりはしてへんよ。戦国武将やないねんからね。そこまでいったら時代錯誤を通り越してるがな。

3月4日(土)

飛浩隆さんとタタツシンイチさん
 昨日3日、東京へ。第26回日本SF大賞と第7回日本SF新人賞そして第8回大薮春彦賞の贈賞式に参列する。
 昼頃に家を出、梅田で整髪してから14時30分の「のぞみ」で東京へ。定宿にしている御茶ノ水のビジネスホテルにチェックインしたのが式の始まる30分前。急いで荷物をまとめてタクシーで会場の東京會舘へ。なんとか開式の直前には到着できた。
 大賞の飛浩隆さん(写真右)は、以前この日記に書いたように、20年以上も前、お互い若き作家の卵として交友があった。それだけに表彰が終った後、すぐにお祝いのあいさつをしにいく。はにかみながら花束を持っていはったのが印象的やった。新人賞のタタツシンイチさん(写真左)は、私よりも年下というのが嘘のような風貌の方。
 会場ではSF評論賞を受賞しはった横道仁志さんなど、今回も初対面の方たちと話ができて、有意義な時間を過ごす。学生時代にSFの業界に関わるようになってから20数年。まだ大学院生という横道さんの初々しさが印象的。
 堀晃さんが「実は飛さんと顔を合わせるのはこれが初めてなんや」とおっしゃる。引き合わせたあと、堀さんが「悪いけどシャッターをおしてくれんかな」。堀さんのブログにアップされている写真は私がシャッターをおしたものなのです! いや別にそんなこと自慢しても仕方ないけどね。
 二次会では歴代SF新人賞作家のみなさんや北野勇作さん、そして横道さんと同席。おっさん連中がくだらんバカ話をしているのを若き評論のホープに見られてしまいました。
 例年、この後は山岸真さんと徹夜カラオケという段取りになるんやけれど、山岸さんは病気の関係で今年は欠席。というわけで、今年は二次会ですんなり退散してホテルに帰る。6時間くらいきっちり睡眠をとった。7回目の参加で初めてと違うか、こんなに寝たんは。
 京都に用事があったんで、早めに東京を後にした。帰りの新幹線で寝なんだのもこれが初めてと違うかな。京都経由で午後3時頃帰宅。帰って何をしたかというと、留守をしている間に録画した番組を見たりプロ野球のオープン戦を見たり。あっさりと日常に戻ってしもうたわい。

3月5日(日)

 今日は演劇部の部活のつきそいのために出勤。午前中から夕刻までかなり長い時間職場にいたんで、やらねばならん仕事はかたづいた。とはいえ、金曜日から土曜日にかけて東京に行ったりして旅の疲れもあり、日曜日も仕事をし、というわけでけっこう疲れは残っているなあ。

 帰宅してから昼に録画しておいた「カラー映像で見る昭和初期 後編」を見る。以前「前編」だけは録画してたんやけど、「後編」は録画しそこねてたんで、なんとか全編揃ってよかった。
 それにしても、前編で見た、カラーフィルムに残された昭和初期の印象の鮮やかさには驚かされた。歴史の教科書からは伝わってこない豊かな世界が広がっている。身分格差や貧富の差の激しさもあったやろうけれど(実際、カラーフィルムで日常生活を撮影できたというだけでかなりの金持ちやないかと思うし、当然そこに映ってるのは金持ちの日常生活であるわけやけれど)、例えば昭和14年頃に撮影された「出征兵士を送る人々」の映像では、幟や旗を作り、行列を組んで送りだしたりしている。つまり、その時分は物資もあったし余裕もあったということなんやろう。
 今日見た「後編」になると、それが一転して変わる。日本国内で撮影された映像も、アメリカ人旅行者によるももやったりするし、米軍が撮影した非公開の映像は、焼け野原であったり闇市であったりする。進駐軍による支配と「民主化政策」は、戦前の文化や生活のありようを否定しアメリカナイズされた文化があっという間に日本を席巻するということになるわけやね。
 教科書にしても、歴史書にしても、戦前を否定するところから戦後教育は始まったということになるから、私が受けた歴史教育もそういうものになっているはず。悪いところは悪い、よかったところはよかったというバランスのとれた歴史教育やないように思う。大人になって、自分でいろいろと芸能史などを調べていったりすると、現在失われたものがかなりあることがわかるようになってきた。文献なんかで、昭和初期の豊かさは承知していたつもりやったけど、こうやって視覚的な資料を見せられると、それがどういうものやったか実感できたりする。そういう意味ではこういう番組を何度も再放送してくれるのはありがたいことやね。
 何がきっかけで失われたんかなあ、と考えると、結局私の答はひとつしかない。
 それは、戦争。勝とうが負けようが、関係ない。戦争が昭和初期の文化から鮮やかな色を失わせたんやと、残された映像から感じとった。

3月6日(月)

 そういえば、私は高校の卒業式で何を歌ったんやったっけ。全く記憶に残ってへんなあ。小学校では「仰げば尊し」を歌ったのは覚えているのにね。
 今日は卒業式の予行。生徒たちは別れの歌として、19の「卒業の歌、友達の歌」という曲を歌う。これ、いっしょに歌おうとするんやけれど、難しいんやなあ。息継したいところでも畳み掛けるように歌わねばならなんだり、音をのばしたくなるようなところもそこで断ち切って次のフレーズに移ったり。卒業式の後で独り校舎の裏にたたずんで口ずさむには適しているかもしれんけれど、250人を超える生徒たちが声を揃えて歌うタイプの曲やないね。
 歌というのは、そのメロディーがうまくもともとの言葉のイントネーションにのっかっているものの方が歌いやすい。また、盛り上がるところでは最後の音を長くのばしたくなるし、文節の切れ目で息継ぎができる方が自然に口から出てくる。それを無視した歌というのは、正直なところ苦手ですわ。この歌はイントネーションにはまあのっている方やけれど。
 つんく♂はそこらあたりが非常にうまいと思う。モーニング娘。がうけたのは、キャラクターの親しみやすさもあるやろうけれど、その持ち歌の歌いやすさやノリのよさも大きな要因になっているんやないかなあ。
 というわけで、明日はいよいよ2年間持ったクラスの生徒たちが卒業する。まだ実感がわかんが、これはまあそういうもんです。これまでの私の経験では、卒業式で生徒たちが歌い始めると、その歌にのって感極まるということが多かったんやけれど。はたして「卒業の歌、友達の歌」でどこまで感情がたかぶっていくのか。ちょっと想像がつかんな。

3月7日(火)

 というわけで、今日は卒業式。前任校の養護学校で3回卒業生を送りだしているけれど、高校に転勤してからは初めて持った担任クラスだけに、また違った感慨がある。なにより40人という人数の進路が確定するまで、ほんまに落ちつかなんだ。
 式の生徒紹介で一人ずつ名前を呼ぶ。はい、と返事をして生徒たちが次々と起立する。呼んでいるうちに感情なるものが千々に乱れてきましてですね、声を出したら嗚咽というようなことになるというような感覚が襲ってくる。それに必死に耐えながらなんとか全員の名を呼びおえる。酷なことに、このあとコメントをつけんならんのですわ。予定していた言葉は出ず。なんとか短めのコメントをして、「着席」と言うまでなんとか込み上げるものを抑え切って役割を果たした。
 泣いたかって? ちょっぴりね。
 クラスの代表の生徒から花束を渡された時には、こぼれる涙を抑えられませんでした。2年間持ち上がりやから、しんどいことも嬉しいことも普通の1年間の担任の2倍、いや、2乗くらいあるわけです。それもこれも全て今日で一つの区切りがつき、2年間ともに過ごした生徒たちが散り散りになる。高校での担任は初めてだけに、要領がわからず苦しんだ分、別れも寂しくなるということなんかなあ。
 来年度からは担任業務から外れることになっていて、もしかしたら今の勤務校で送りだす最初で最後のクラスかもしれんと思うと、いろいろと心乱れるものがあったのですよ。
 教室に戻って一人一人に卒業証書を手渡した時にはすっかり落ち着いていて、もう涙は見せなんだけれどね。
 ということで、大仕事が終った。緊張の糸が切れて、今は早く眠りたい。いつもよりも早めに更新して寝るとしよう。
 さて、クラス会の幹事は誰に頼もうか。え、気が早過ぎますか。私、イラチでんねん。式の前に紅白まんじゅうを取りに行かせて「あとですよ」と係の先生にたしなめられてしまいましたからねえ。

3月8日(水)

 奈良の石舞台古墳のそばに建築物があったらしい。ニュースサイトの記事では、日本書紀に書かれている、蘇我馬子の後継者争いの舞台となった建物の跡やと報じている。
 信じたらあかんよ。石舞台が蘇我馬子の墓やと断定できる証拠が出てきたわけやないみたいやからね。あくまでも石舞台は「蘇我馬子の墓と推定されている」だけやねんからね。その建物の遺跡から木簡でも出てきたんやったら話は別やけど。
 私は古代史にも関心があって、明日香村を1日歩き回ったりしたこともある。石舞台にも行った。でかいもんですわ。確かに権力者の墓といわれると、そうやろうなという気がする。そやけど、蘇我馬子が死んですぐに蘇我氏が権力を失うたというわけやないし、墓作りが中断されたという確たる証拠もない。ただ、位置的にそうと違うかなと思われてるだけのもんやからね。
 もしかしたら蘇我氏は蘇我氏でも、入鹿が生きているうちに作りかけていたものかもしれんやないですか。そんな証拠は文献にも残ってへんけれど、「馬子の墓」説にしたところで同じ程度の確からしさしかないと、私は思う。
 手塚治虫「火の鳥・ヤマト編」では、ちゅーとはんぱに死んでしもうた大王(ヤマトタケルの父)の墓やということになってる。石舞台のちゅーとはんぱな姿を見てああいうパロディタッチの物語を作り出すんやから、さすがは手塚治虫と思うね。真偽はともかく、権勢を誇った蘇我馬子の墓にしてはちゅーとはんぱやと、私も思うけど。
 それやのに、日本書紀の記述に合わせて今度の新発見を解釈しようとするのは、非常に危険なことやないかと思う。読者をミスリードするような解釈をもっともらしく書き立て、後から木簡が出てきて石舞台が全然違う人の墓やったとわかったりしたらどないすんねんといいたい。
 もちろん重要な遺跡には違いない。それだけに、ニュースとしての扱いは慎重にやってほしいと、古代史ファンの私は思うのでありますね。

3月10日(金)

 昨日はピアニスト上原彩子のコンサートを聴きにいずみホールまで行った。
 彼女の演奏を生で聴くのはこれが2回目ですわ。今回のコンサートを限りに出産のためにしばらく休養するというから、聴き逃せません。もっとも、チケットをとった時にはそんなことは知らなんだ。その後のニュースで知って、チケットをとっておいてよかったと喜んでいたわけです。
 ステージに上がった彼女は、かなりおなかが目立ってきている。ステージ衣装もマタニティドレスやった。大丈夫かい。
 前半はモーツアルトのピアノソナタ4番K282。こんなに低音を響かせ、しかもその音に深い意味が感じられる演奏は、なかなか聴かれんぞ。続くシューマンのクライスレリアーナも、流麗かつ重厚。私はホロヴィッツのCDで聞き覚えた曲やけれど、迫力では上原彩子が上やと感じた。
 もっとも、私と妻の左前方の席のご婦人がいきなりいびきをかきはじめ、係員の人とともにホールの外に出たりするというのがあって、そちらがかなり気になったりもした。自力で歩いていたけれども、あのあと大丈夫やったんやろうか。
 ええい、そんなことを気にしてたらあかん。とにかくピアノに集中や。
 後半はスクリャービンの小品や詩曲を何曲かと、ラフマニノフのピアノソナタ第2番。スクリャービンのきらめくような音色もよかったけれど、圧巻はラフマニノフ。ただただ圧倒されるばかり。まさに上原彩子の本領ここにありという力のみなぎった演奏やった。あんまりいきみ過ぎるとおなかの赤ちゃんに響くんと違うかと心配したくらいですわ。
 アンコールはチャイコフスキーの小品(題名を忘れたが、短いワルツ曲やった)。
 コンサート終了後、妻は先に帰り、私はクラシックファン仲間と近くのビルの中のレストランで歓談。オペラの話やらなんやらで盛り上がる。久しぶりにクラシックの話をたっぷりできたなあ。
 上原彩子の復帰コンサートがあれば、ぜひまた行きたい。子どもを産んでどう表現が変わっていくか、注目している。

 明日は都合で更新できません。次回更新は日曜深夜の予定です。


てなもんや囲炉裏端 ゆっくりまったり掲示板ですお気軽にご利用下さい。

メールはこちらまで。どうぞよろしく。


過去の日記へ。

ホームページに戻る