ぼやき日記


10月21日(土)

 本日で文化祭終了。半年前に卒業させたばかりの生徒たちがたくさん来てくれたのが嬉しい。そして、昨年の今ごろは自分が担任を持っていて、そのクラスが舞台発表部門で最優秀賞を受賞して欣喜躍弱狂喜乱舞愉快痛快極楽往生という状況に生徒たちがなっていたことを思い出した。
 体調不良のため打ち上げの宴会はパスさせてもらい、帰宅。日本シリーズ第1戦を見ていたら僅少得点差の締まった試合やった。そらそやな。昨年と違うて、日程的に条件も揃えているしな。さすがに昨年の教訓は生きているということか。
 で、昨年アジア1位になったマリーンズは今年リーグ4位で、わがタイガースは優賞は逃したものの最後まで首位に食らいついての2位。自力で勝っていたのはどちらか、これではっきりしたな。何を今さらとお思いでしょうが、あれはもうなかったことにしたいくらいの屈辱やったんやから。
 というわけで、今日はなんでか昨年の今ごろをあれこれ思い出させる日になったのでありました。
 そやけど疲労は重く体内に残っていて、まあとにかく早く風呂に入って屁ぇこいて寝ることにする。ほんまに思考能力がた落ちで、そういう状況でけっこう責任の重い大事な仕事をしないといけなかったのがいちばんきつかったのやなあと、終ってから気がつく。1日くらい思い切って休むべきやったなあ。さあ休みじゃ休みじゃ。

10月22日(日)

 週休2日のサイクルが体になじんでいるので、今日が土曜日のような気がして仕方ない。日本シリーズの中継をテレビで見ていて「明日は移動日で……」とアナウンサーが言うてるのを聞き、「なんで日曜に移動すんねん」と一瞬ツッコミかけて、そうやそうや今日は日曜やった明日は月曜やったそうやそうやと頭をかいたりするのであった。ぽりぽり。
 午前中は先週録画したけどまだ見てなんだテレビ番組をまとめて見るけれど、いつもの週末のように一気に見てしまう気力もなく、昼から寝る。数時間眠って一時はスッキリしたかと思うたけれど、夜になって夕食をとったらまたもや体がだるく眠たくなってきた。
 そやけど読みかけの本に手を出して読み切り、さらにもう1冊読めたんやから、少しは頭がはたらくようになってきたのかもしれんね。もう1日休みがあるから、火曜にはかなり回復しているかもしれんというか、回復してくれんと困るよな。

10月23日(月)

 体調はまだ回復してないけれど、大枚はたいて購入したチケットを無駄にしたくもなかったので「朝日東西落語会」をききに茶屋町の「シアタードラマシティ」まで妻と出かける。
 会場で翻訳家の古沢嘉通さんとばったり出会う。お目当ては「柳家小三治かな」とのこと。私も生で小三治師匠の落語を聞くのは初めて。というか、そのために大枚はたいて(以下略)。
 当日の出演者と演題を書いておく。
・笑福亭生喬「犬の目」
・林家染二「素人浄瑠璃」
・立川志の輔「ディア・ファミリー」
・桂雀三郎「親子酒」
・柳家小三治「あくび指南」
 生喬は突飛な設定の話を派手でにぎやかなギャグ落語として演じ、成功していた。染二の「素人浄瑠璃」は「寝床」の前半部分をこってりやって旦那の浄瑠璃が始まるところで切るという形。そこまでがかなりみっちりとやっているから、この先もこの調子でやるとさすがにきつかろう。これはこれでええ形やなあと思う。志の輔の新作は初めて聞く演目やったけれど、父親の勤続30年の祝いに会社から鹿の首の剥製が贈られ、その処遇をめぐって家族でもめるそのやりとりが、リアリティと誇張をうまくブレンドしていて笑わせてくれた。雀三郎は小三治の前の出番やったからか、いつもよりも緊張していたように感じたけれど、どうかな。小三治のまくらを前からちゃんと聞きたい聞きたいと思うてたんで、30分になんなんとするまくらを聞くのが楽しくて仕方ない。私の後ろの席の老夫婦の奥方の方は「落語やらへんのかしら」とつぶやき、ご主人の方は「まだやってんのか」と集中力が切れた様子。「大阪」にまつわる思い出がすべてトラウマになっているという話から、歌のお稽古の話、そしてそこから「あくび指南」にすぱっと入る間のよさ。面白かったですよ、やっぱり。
 妻と梅田で夕食をとり、へろへろになって帰宅。明日は仕事か。体力的に不安はあるなあ。

10月24日(火)

 今年の日本シリーズは緊迫感があってなかなかおもしろい。北海道や名古屋でテレビ中継の視聴率が高いのはわかるけれども、関東や関西でもけっこういい数字が出ているらしい。ジャイアンツの試合以外の中継では数字が取れないということはないわけですよ。例えばジャイアンツの試合では視聴率が取れんというてドラゴンズの優勝決定ジャイアンツ戦を地上波で中継せんというのはおかしな理屈やったな。ドラゴンズが逃げ切るかタイガースが追いつくかというおもしろさをテレビで楽しみたいファンは関東にもいてたと思うんやけれどね。
 パ・リーグのプレーオフを唯一地上波で放送したテレビ東京の評価が野球ファンの間で高まったという事実を他の民放キー局はどう見ているんかなあ。
 今年、日本シリーズの視聴率がええのは、ファイターズもドラゴンズもペナントレースで熾烈な戦いを勝ち抜いて出場したからやないかと思う。交流戦のおかげでパ・リーグのチームでもええ時間帯でテレビ中継されるようになったこともプラスになっているやろう。とにかく放送局もスポンサーも広告代理店もジャイアンツだけがプロ野球というような過去の常識を早いところ捨ててほしいもんですな。
 それはともかく、ファイターズの選手がいいプレーをしたら必ずSHINJOを映すのはやめてほしい。ファイターズの人気はSHINJO一人のおかげやないんやから。

10月25日(水)

 日本シリーズはファイターズが3勝目をあげていよいよシリーズ制覇まで残り1勝。はたしてこのままの勢いで一気にいくのか、優勝を意識して別人のように動きが固くなるのか。今のところ、ドラゴンズが昨年のタイガースみたいに「こんなはずでは」みたいな焦りと緊張感で相手の術中にはまってしもうているような感じやぞ。やっぱり日本シリーズは7試合やってほしいと、どちらのファンでもない私は勝手なことを願っていたりするんやけれど。

 朝夕は涼しいのに日中はまだぬくいなあ。仕事帰りに寄ったコンビニではおでんののれんがかかっているけれど、まだそんな季節のようには感じられんなあ。
 ところで、セブンイレブンののれんにはリリー・フランキーの「おでんくん」が書いてあり、サークルKサンクスのCMでは「おそ松くん」のチビ太がテレビ画面を駆け回ってる。よう考えたら、おでんにふさわしいキャラクターはこの2つだけかもしれんなあ。それが証拠にローソンやファミリーマートではおでんキャラクターではなくおでんの具の写真が使われている。ampmやポプラは確認してへんからわからんけれど、まあ、どう探しても他には見つかるまい。
 ということは、このキャラクター使用権は早いもん勝ちやったということになるのかな。まさか入札や抽選で決めたりはしてへんやろう。実際「おでんくん」なんてそれほどメジャーでもないのによくキャラクター起用を思いついたもんや。となると、セブンイレブンのおでんには普通の玉子とガングロ玉子の両方が入ってるんやろうな。で、やっはりガングロ玉子ちゃんは売れ残ってしまうのさ(「おでんくん」を一度も見たことのない人、ごめんなさい。NHKで放送してたからけっこう見てる人は多いかもしれんが)。問題はおでんを箸でつまみあげるのがおじさんではなくバイトの高校生の女の子やったりすることかもしれん。こればっかりは全国のセブンイレブンすべてにおじさんを配置するわけにも、店の前に犬をつなぐこともでけんし、しかたないわなあ(いやその、「おでんくん」て何それという人にはほんまにもうしわけないです)。
 もっとも、私はコンビニのおでんは高いので決して買わんから、そこまでこだわられてたとしても全然気がつかんやろうけどね。

10月26日(木)

 ファイターズが一気に日本一を決めてしもうたなあ。なんかあっけなかった。第1戦にドラゴンズが勝った時にはこういう展開になるとは思いもよらなんだ。2連勝していたらドラゴンズに流れがきていたかもしれんけれど。勝負というのは恐ろしいもんやなあ。今年の日本シリーズはどっちかというとドラゴンズ有利かなあと思うていただけに、意外といえば意外やった。
 結局SHINJOに尽きるのかな。引退を表明した年にチームが優勝し、日本一になり……落合監督の勝負勘も、SHINJOの持つ「華」に曇らされてしもうたということやないかという気がする。これだけは人知を超えた力としかいいようがない。
 それにしても、テレビ中継はあまりにもSHINJOに偏り過ぎてたんやないかなあ。ずっとSHINJOの姿ばっかり追っていて、ヒルマン監督がいつ胴上げされてたのかわからなんだぞ。いきなりSHINJOが胴上げされていてびっくりして、妻と「ヒルマン監督の胴上げは最後にやるのかなあ」と言うていたら、アナウンサーが「ヒルマン監督の体が札幌ドームに舞いました」てなことを言うてるやないか。いつの間に胴上げしてたんや? ヒルマン監督やないけど「しんじられなーい」ですわ。
 野球そのものを見せて楽しませるよりも、SHINJOならSHINJOという「盛り上がるネタ」を軸に番組を作ろうという作為的な演出をしてるんやな。野球ファンが求めているのは、そういう演出抜きの楽しさやと思うんやけれど。違うかなあ。ジャイアンツ戦ばかり放送するのと結局発想の根本は変わってへんように思うぞ。

10月28日(土)

 昨夜はは職場の宴会。久々にカラオケ屋にも行く。
 今日は一日ぐったり。大きな行事が一通り片付き、その間薬で抑えていた風邪やら下痢やらも今日は症状が出るままにしておく。しょせん売薬は症状を緩和させるだけのその場しのぎやから、一時は楽になっても根本的に治っているわけやない。医者に見てもらう余裕もなかった2ヶ月間、だましだましきていたのですね。一番の薬はというと、これはもう休むことしかないわけで。

 いわゆる「履修漏れ」について、現場の一教員として思ったことを書いておく。
 「国旗」「国家」については指導要領を守らせることにやっきになる文部科学省やけれど、さてこの件で各学校の管理職に対してどういう処分を下すか、そこに注目している。「国旗」「国家」は入学式やら卒業式やら特定の時期の一過性のものであり、教育そのものとは別の政治的な思惑がからんだもんやけれど、この件は違うよね。高校卒業という資格は、必履修科目を(たとえ習得でけへんでも)履修することによって認められるわけやからね。
 「単位読み替え」というのは必履修でない科目やったらやる場合はある。特に養護学校の場合、高等学校の単位にそろえるために工夫して「読み替え」をしたりしている。これはまあ、やむを得ない処置といえるけどね。
 今回の場合は、高校というものの役割をどうとらえているかというところにあると思う。長期的な視野に立ち、卒業して社会に出ていくまでにこれだけのことは理解しておいてもらわねばと考えるか、短期的な視野に立ち大学入試に関係する科目だけは徹底的に叩き込むべきという考えか。

10月29日(日)

 今日は勤務校の障害児学級と障害児をかこむサークルの生徒のOB会が主催している運動会に顔を出す。適度に曇っていたからよかった。カンカン照りやと、それはそれできついからね。特に何をしたというわけでもないけれど、家に帰ったらかなり疲れを感じた。生徒たちは楽しそうにしていたから、それでよしとしよう。

 「履修漏れ」についての続き。
 私の勤務している学校は「総合学科」で、科目を自由に選択できる。資格をとりたい生徒も入試に備えている生徒も、教養を広げたい生徒も、いろいろな生徒が自分だけの時間割りを組む。そやから、必履修科目はしっかりと受講させる。高校生として最低限学んでおかなならんことというのはやっぱりあるわけやし。ただ、選択科目で真面目に勉強している生徒が、必履修科目では手を抜いたりしているというケースもある。ただ、そういう生徒でもたとえ欠点をとったとしても選択科目だけで単位を満たすことができていたら習得していなくても卒業はできる。ただし、欠時オーバー(未履修)の場合は文句なしに留年が決まる。
 私は1年生対象の科目選択指導を担当したことがあるけれど、必履修科目で地理か日本史か、そして理科総合か化学・物理・生物・地学のどれかを取らんならんということだけは口を酸っぱくして指導したつもりや。
 選択肢の多い学校やからこそ、必履修科目だけはきちっと守るべきやと、指導しながら思うた。好きなことだけやってても、ほんまの学力はつかん。少なくとも一般常識を身につけた上で卒業してほしい。前にも書いたけれど、教育の効果なんてすぐにあらわれるもんやないと私は思うている。それは、障害児をたくさん指導していく中から身についた教育観でもあるし、自分が学んできたことをどう生かしているかに気がついたからかもしれん。
 逆にいうと、入試勉強のために必履修科目をええかげんに扱うた教師は教育についてどう考えてるかを知りたい。大学に合格させることだけが大切やと思うなら、予備校の講師にでもなったらええ。今は無駄のように見える科目は、生徒にとって生涯不必要なものなんか。

10月30日(月)

 もうそろそろ「履修漏れ」について、まとめときたい。
 結局は「教育」というものについての考え方の違いなんかなと思う。教育の目的は社会に送りだす自立した人間を育てることやろう。ええ大学に入学させるのは、その手段でしかない。指導要領で必履修科目が設定されているのは、公民としてこれだけは学んでおくべきという指針を設定しておかんと、歯止めがきかんようになるからやと思う。
 受験科目を優先して、家庭基礎や情報の授業をやらせへんのは、手段を目的と取り違えているからやと思う。なんで情報の授業が必履修なのか。それはパソコンの使い方を少しでも習得しておいた方が社会人として望ましいという考え方からそうなったんやと思う。家庭基礎が必履修なのは、社会の基本単位である家庭というものについてきちんと知っておかんといびつな家族観をもったまま社会に送りだすことになるからやと思う。指導要領をちゃんと読んだら、科目設定の理由も見えてくるもんや。
 高校は、社会に出るための通過点に過ぎん。そやからこそ、必要最低限の知識や教養を身につけさせるところやないとあかんやろう。例え名門大学に合格させても、社会に生きる人間としていびつなままで(特に精神面)その先どんな学問ができるというのか。
 生徒は確かにある意味被害者かもしれん。そやけれど、「おかしい」と声をあげた生徒も「受験のため」といわれて納得していたり、「おかしい」と思いつつも「受験にはいらないからまあいいか」とそのままにしておいたわけやから、完全な被害者とは思われんのですよ、私には。
 となると、今度は大学入試批判に、そして学歴社会批判に、階級社会批判にと広がっていくんで、ここらあたりで止めておこう。明日からは普通のぼやきにもどります。

10月31日(火)

 今朝、朝日新聞の読者投稿欄を読んだら、定年退職後も講師として教えている高校の先生が「情報を必履修にしてその分主要科目の必履修単位を削減している理由を文部科学省ははっきりさせよ」というようなことを主張してはった。何の科目を教えてはる方か存じあげんけれど、指導要領に書いてある情報という科目の設置の目的や履修内容をちゃんと読めばわかると思うんやけれどなあ。「情報などという新しい得体のしれない受験の役にたたない科目を必履修にするなら英数国の必履修を増やせ」といいたいんやろうなあ。もしかしたら体育も芸術もホームルームもみんななくして受験科目しか教えない指導要領にしろというのが本音かもしれん。そんな人は予備校で教えて下さい。
 「履修漏れ」に関してはもう書くつもりはなかったけど、あまりにあほらしい投稿を読んだんでつい書いてしもうた。おそらく編集者は反論を期待して載せたんでしょうね、きっと。

 声優、武藤礼子さんの訃報に接する。死因は心不全。享年71。
 やっぱり「ふしぎなメルモ」のメルモちゃんの声が耳に残っているなあ。今の声優さんでも子どもと大人の声の使い分けはもちろんできるやろう。というか、今の人の方がより器用に使い分けをしそうな気がする。
 メルモちゃんの武藤さんがよかったのは、青いキャンデーで大人になってもちゃんとメルモちゃんの声で、しかも可愛くてかつ自然な色気があるところやったなあ。
 実は最近、妻と「武藤礼子は引退したのかなあ、この頃声を聞かんなあ。この役なんか武藤礼子にアテてほしいな」なんて言うてたところやったからびっくりした。
 お年やからしかたないとはいえ、印象に残る声優さんがまた一人目の前(耳の前?)から消えてしもうた。こうやって自分の年齢を自覚していくようになるんやね。
 謹んで哀悼の意を表します。


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