ぼやき日記


12月11日(木)


 変なものを見つけるとつい買ってしまうという悪癖が抜けない。抜く必要はないと思ってるけど。我慢してストレスをためてもしかたないし。
 というわけで、先日は「快獣ブースカ」の携帯電話用ストラップを見つけて悩むことなく買い、今日は「正露丸」の座布団を見つけてこれも悩まずに買う。座布団は職場に持っていって職員室で使うつもりだ。まわりの職員もその程度では驚かない。「コニーちゃんのジャカジャカジャンケン」だの「ドン・ガバチョ」の指人形だの「ポッカ、涼水緑茶」の湯飲みだの、わけのわからないものをデスクに置いてあるのに座布団が加わるだけだ。座布団はデスクに置くわけにはいかないけれど。
 ところで、この「正露丸」座布団はなかなか面白い。例えばすみっこに「本品は医薬品ではありません」などと書いてある。「あたりまえやないか」とつっこむなかれ。もしかしたら「最近は正露丸も座布団型になったんか。ここに座ったら下痢が直るんやな。便利な世の中になったもんや」などと勘違いをする人がいるかもしれないではないか。「どないしてくれる。正露丸座布団に座ったのに、腹ピーピーのままやないか」と抗議する人がいたらどうする。この表記はPL法に基づいた正しい表記なのだ。
 そんなわけないな。しゃれで書いてるのだろう。なかなか粋な。
 発売元が凄い。「株式会社サンリオ」ですぞ。実はこの座布団は「キティちゃん」のクッションといっしょに並んでいたのだ。血迷ったか、サンリオ。「いちごの王さま」が子どもに夢を配るというイメージはどうしたんや、サンリオ。それに、どうせなら同じようなノベルティ商品ばかり並べて売れよ。キティちゃんの無表情な顔が並ぶ中にオレンジ色にラッパのマークが混じっているのはどう考えても変やぞ、サンリオ。仕入れたまま売るなよ、ダイエー。こんなん購買層が全然違うことくらい見たらわかるやろ。
 こうやってまたわけのわからんものが増えていく。「好きやねえ、こんなん」と帰宅した妻にしみじみと言われてしまった。そう言いながら「正露丸」座布団を抱きしめて嬉しそうにしている妻も妻である。あんたも好きやねえ。

12月12日(金)

 母方の祖父が亡くなってはや一年。明日は福井で一周忌の法要がある。
 去年は珍しく11月1日の発売日に年賀ハガキを買った。そろそろ書かねばならないと思っていたところに訃報がきた。年齢も年齢だったし、来るべき時が来たという感じだった。覚悟はしていたが、実際に葬儀に参列すると、辛かった。
 年賀ハガキは200枚が手つかずのまま残った。職場に持っていって、90枚ほどは同僚たちに引き取ってもらった。しかし、後の110枚はきれいなままだ。「今年は懸賞の鬼になってやる」とはじめの頃はハガキを出しまくった。それでもそう簡単に減るものではない。結局去年の年賀ハガキを使い尽くす前に年末が来てしまった。
 茶色の包装紙にくるまったハガキを見るたびに、祖父の死を思い出す。
 今年はまだ年賀ハガキを買っていない。何となく買わずに今日まできてしまった。別に一周忌の法要が終わるまでは買わないと決めたわけではないのだが。
 明日の法事が終わったら、郵便局に行くとしよう。

 というわけで、次の更新は明後日になるでしょう。では、雪の福井へ行ってきます。

12月14日(日)

 福井は法事の前日までみぞれが降っていたそうだが、幸い昨日は好天に恵まれ、寒さもそれほど厳しくなくやれやれ。
 祖父は昨年の12月17日に亡くなったのだが、その時は吹雪で斎場など冷え冷えして凍えそうだったことを思うと、昨日の好天は祖父が無事に成仏したのかなどとつい非科学的なことを考えてしまう。身内のこととなるとSF的視点も何もあったもんではない。別に私は信心深い方ではないが、法要ともなるとにわかに信心しているようなことを口走ってしまう。まあ、平均的な日本人像とかいうやつなのでしょう。

 今日は書店で「ハルキ文庫」の新刊を見つける。小松左京「果てしなき流れの果てに」が再刊されている。タイミングのいいことだ。まさか今月発売の「S−Fマガジン」の内容を編集者が知っていたのではあるまいな。
 よく考えれば「ハルキ文庫」の場合、角川書店から独立したわけで、すぐに文庫化できる手持ちの単行本もなく、過去の名作の再刊という手を使わざるを得ないのだ。しかし、これはありがたいことである。角川春樹の人脈を使えばかなり有名な作家の品切れ本を次々と復刊していくことは十分可能である。なにも講談社文庫「大衆文学館」みたいな志はなくてもよいから、苦し紛れに次々と「角川文庫」でかつて出ていて現在入手不可能な文庫を出してくれないものだろうか。特に今月発表される「オールタイム・ベストSF」の中には角川文庫におさめられていたものも多いのだ。どさくさまぎれに「太陽風交点」や「決戦・日本シリーズ」なんかも出してくれたら面白いのに。
 日本SFの見直しは以外とここらへんから始まるかもしれない。伏兵登場といったところだな。

12月15日(月)

 昨日は「ハルキ文庫」の復刊を見つけたが、今日は「アスペクト・ノベルス」の復刊で平井和正「死霊狩り1」を見つけた。ここは「ボヘミアン・ガラス・ストーリー」や「月光魔術團」など、平井和正の新刊を出していたが、最近になって「幻魔大戦」(いわゆる”角川幻魔”)の復刊を始めた。著者あとがきで新興宗教にのめり込んだ時代をふりかえっていて、「幻魔大戦」は宗教小説ではないという言い訳めいた文章に注目していたのだ。「幻魔大戦」が新興宗教の教祖たちに影響を与えていたことは事実であり、私自身「幻魔大戦」が光のネットワークだのなんだのといってほとんどお説教ばかりになりストーリーがほとんど進まなくなったので嫌になった記憶がある。今さらそんなことを言われてもなあといった思いで立ち読みしているが、一人の作家の述懐としてはなかなか面白いものがある。
 そして今度は「死霊狩り」だ。こちらはまだ平井和正が情念と暴力の塊みたいな小説を書いていた時期の産物だけに、復刊には意義があると思う。全3巻とも刊行する予定らしい。となると、「サイボーグ・ブルース」や「アンドロイドお雪」、「超革命的中学生集団」なども復刊されるのだろうか。これらは日本SF史上、見逃すわけにはいかない作品だと思う。「幻魔」以降、平井和正は特定のファンのみの支持により生き残ってきた感があり、前述の諸作までが埋もれてしまったきらいがある。そうしてしまうには惜しい作品もあるのだから、ここはアスペクトに頑張ってもらってぜひ復刊していただきたい。
 「幻魔大戦」はどうでもいいから、まず「サイボーグ・ブルース」だ。これが絶版になっているのは絶対おかしい。私の好みの作品ではない。しかし、残す価値のある作品であることは認めねばならない。
 新しいSFを発展させるためにも、過去の名作が手に入りやすい環境というのは必要なのではないか。ここらで「日本SF全集」の刊行ということはできないものなのだろうか。どういうラインナップになるにしても、もうそろそろそういうものを残しておく時期に来ていると思うのだが、どんなもんだろうかね。

 明日はおなじみ老舗の若旦那A氏をはじめとする世界征服を企む怪しい集団の忘年会だ。きっと遅くまで飲みふけることだろう。次回更新は水曜日の予定です。

12月17日(水)

 いやあ、ひさしぶりに激しいものを見せてもらった。昨日、私は若旦那A氏と怪しい仲間たちの忘年会に参加するため、仕事の帰りに京都に行った。時間に余裕があったので、CD店や書店をまわり、午後6時30分ごろ、高島屋京都店の地下道入り口から阪急河原町駅の改札へと降りていく。ちょうど階段を降り切ったところで抱き合う人影が。
 2人の風体から察するに、高校生どうしのようだ。大学生が制服着てあんなところに立ってはいるまい。この2人、抱き合っていたかと思うと、いきなり接吻を始めたのである。口と口を合わせむさぼるように唇を動かす。擬音で表わすとこんな感じ。
 ぶっちゅう。むにっ、むにむに。もぐ、もぐもぐもぐ。むもむも、むむ。もぐもぐもぐもぐもぐもぐ。
 平日の夕方、帰宅しようとする勤め人たちが足早に歩く横で、むにっ、むにむにをしているのだ。このくらいなら、まだ見かけないこともない。しかしこの2人、一心不乱で接吻を続けている。お腹が空いたが食べるものがないので互いの唇を食い合っているかのように、もぐもぐもぐもぐを続ける。私がコンコースに出てから鞄より財布を出し、改札をそのまま通れるプリペイドカードを抜いて、改札を通ってもまだやっている。しばらく立ち止まって様子をうかがっていたが、まだやっている。少なくとも1分くらいはもぐもぐもぐをしていたね。そんなものを見物していたら変に思われるかもしれないので、適当なところで切り上げてホームへ降りていったが、ちらちらちらと盗み見をしてみると、やめる様子はない。あれ、いつまで続けていたんだろう。
 あれは、閨で房事の前にするような接吻ですわ。いやなに、人前でしてもらっても結構。当人たちが恥ずかしくないのなら、別にとやかくいういわれはない。こっちが恥ずかしくなるような、という域はとっくに超している。現に私はかなり面白がって見ていたわけであるし。でもねえ、やっぱりやるならよそでやってほしいんだ。
 なぜそう思うかというと、彼らはたぶん見てもらいたくてやっているのではないかと思うからだ。2人だけの世界にはいるのに場所を選ぶ必要はないだろうが、あの時間のあの場所が人通りの多いことは誰にだってわかる。そこであえて1分を超すもぐもぐもぐをやるわけであるからして、目撃されたり注目されたりするのは火を見るよりも明らかである。だとすれば、これはやはり見られてもかまわない、いや、見せびらかそうという意図があってのことだろう。学校の同級生や担任の教師や親戚や親兄弟が目撃し、噂になったり小言を言われたりすることも覚悟の上の行為としか思えない。全く見知らぬ人が見るとますます気持ちいいのかもしれない。そんなことで彼らの自尊心を満たしてやるのはごめんである。
 いや待てよ。すぐそばで立ち止まり、ジッと見てやってもよかったのだ。口を離すところまでしかと見届けてやればよかった。できれば人垣を作って口を離したとたんにおひねりの一つも投げてやるのだ。そうすれば、二度とあんなあほくさい行為をすることもなかろう。
 しかし、もしかしたらほんとに腹が減っていたのかもしれない。彼らが口を離すと唇のあったところにはべっとりと血がつき、口の端からは唇らしき肉片が……。

12月18日(木)

 TVアニメーション「ポケットモンスター」を見ていて多数の子どもたちがけいれん発作を起こした事件については、新聞や放送で報道されている以上のことを知らない。番組も見ていない。正確な事実関係を知らないで発言することはとても危険なので、そのことには触れないでおこうかとも思ったのだが、職場でも話題になって、いろいろと考えるところもあり、主として新聞で読んだ情報を元に感想を記しておく。
 まず、「光刺激性てんかん」についてであるが、これは養護学校というてんかん発作を持つ生徒が多い環境で仕事をしているので、特に関心が強い。同僚の教師に「光刺激性てんかん」について訊ねてみた。その人の言うのには、以前受け持っていた生徒で踏み切りの警報機の信号をずっと見ていて発作を起こした例があったそうだ。てんかんの発作を持つ子どもにとっては、「光刺激性てんかん」は決して特殊な状況下で起きるとは限らず、日常の生活の中にも刺激の原因はあるということだ。むろん、アニメーションで用いられた「フリッカ」という技法が発作の原因ではあっただろうが、問題はその技法そのものにあるのではなく、そういった可能性を有するものはどこにでもあるという認識をメディアはこれを機会にしっかりと報道し、発作を誘引するかどうかを製作者側がチェックする体制を整えることが大切なのではないだろうか。
 続いて、報道の仕方について。各新聞が第一面にこの記事をもってきていたが、事件としてはそのような扱いをすべきものだったかどうか、疑問である。これはラジオで道上洋三アナウンサーも同様の発言をしていた。道上氏は、確かに大量の発作は出たしこれが事件であることは間違いないが、入院した子どもも重傷ではないし死亡者が出たわけでもないのにここまで騒ぐ必要があるのか、という疑義を呈していた。私も同感である。これがそれほどの問題であれば,前述した踏み切り信号によるてんかん発作もまた同様に扱われなければならないし、世の中にある全ての点滅する光源について調査をすべきであろう。製作者の過失はあっても、その責任を全て押しつけるような「魔女狩り」的報道は慎むべきではないだろうか。少なくとも「ポケモン」という見出しをあそこまで強調する必要があったかどうか。まだ原因が確定したわけではないのに「問題の場面」として放送された番組のシーンを入れたのは明らかに新聞社のフライングだろう。「ポケモン」関連銘柄の株価が下がったという報道もあった。過剰な報道が原因で事件に何の責任のないところまでが影響を受けたとしたら、新聞社や放送会社にも「業務上過失」として責任を問わねばなるまい。
 事件の責任について。新聞社や放送会社はけいれん発作を起こした子どもがどのような状態で番組を見ていたかまで調査したのだろうか。大画面のTVをすぐ近くで見ていた子どもも、小さな画面のTVを離れて見ていた子どもも同じような発作を起こしたのだろうか。長時間見ていた末にその場面に出会った子どももちょうどその場面で初めてTVのスイッチを入れた子どもも同じような発作を起こしたのだろうか。危険性のある画面を流した製作者に非があると同時に、そういう発作を起こしやすい状況にあった子どもにも責任がなかったとはいえないだろう。発作を起こさなかった子どもについてはどうだったのかという報道がなされていないのはなぜだ。製作者は原因を究明していくというが、子ども側の責任も追究する必要があるのではないだろうか。
 以上、散漫ではあるが、この事件についての私の感想である。とにかくこれで「ポケモン」が悪者になってしまってはいけない。そういう問題ではない。しかし、新聞はなぜか「ポケモン」ということを強調したがっているように思えてならない。まだ原因が確定していない段階でこういう報道をしてしまい、それに対して鈍感であるということの方が、アニメーションの一シーンよりはるかに危険であり問題であるように思うのだが、みなさんはどうだろうか。

 明日は職場の忘年会です。次回更新は土曜日の深夜になると思います。

12月20日(土)

 昨日は職場の忘年会。教師には酒癖の悪いのが多かったりするが、うちの職場は一人「説教酒」の悪癖のある人がいる以外は、総じて和やかな酒。私はどちらかというとアホなことをしゃべって場を盛り上げる方。今年は「説教酒」のターゲットにされることもなく、やれやれ。あの「説教酒」をする人というのはどうも小児的な精神構造の人が多く自分中心でないと気がすまんようだ。酒の強いえらいさんが一次会終了後に酒豪ばかり集まっている宴会の方へその人を連れていってくれたおかげで、今年は二次会は喫茶店。
 うちの職場には若い女性が多く、ほろ酔い加減の彼女たちは年相応に華やかでにぎやかで、チョコレートパフェを頼んだりイチゴミルクを頼んだりとこれまた酒をのんだ後とは思えないオーダー。教頭は実は甘いものが好きだそうで、「あんたらと同じもんにするわ」といって、うまそうにイチゴミルクをのんでいた。
 話題もたわいなく、「喜多さんは奥さんとどこで知り合わはったんですかあ」とか「プロポーズの言葉はどんなんやったんですかあ」、なんてきいてくる。こっちはもうオッサンであるからして、「かなんなあもう」とか困ったポーズをとりながら適当な返事。
 だいたい教師なんてしているとふだん職場でそういうバカバカしい話は生徒の手前できない。その分こういう場所で、酒が入っていることも手伝って、わあわあとやるわけだ。そして私は、ここはもうオッサン・モードで若い女の子とそういったたわい無い話をしていること自体を楽しんでいる。
 でも。こういう場はやはり必要なのだ。ワープロの前でこうこつと文章を書いてたり本ばかり読んでいたり、仕事のことばかり考えていたりする生活は、頭が疲れてしまい、硬直化していくような気がしている。だから、若いお嬢さんたちとワイワイたわい無い話をすると何となくほっとする。もっと面白い話をせねばならないとか、そういった構えもしないでいいし。
 ちょっと心和んだひとときであった。


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