ぼやき日記


2月21日(土)

 今日帰りに寄ったCDショップで「懐かしのミュージッククリップ」というシリーズのものを何枚か買う。このシリーズは昔の「テレビまんが」の主題歌やBGMを収録したもので、これまでよく出ていた「懐かしのアニメ主題歌大全集」というたぐいのものよりも、よりマニアックな作りになっている。例えば、主題歌もTVヴァージョンとレコードヴァージョンを両方収録するといったように。
 今日は「サスケ」「はじめ人間ギャートルズ」「あしたのジョー」「妖怪人間ベム」と一気に四枚も買ってしまった。割引券なんぞあるとついついこういう買い物をしてしまう。
 帰宅して「はじめ人間ギャートルズ」のライナーノートを読んでいると、いやいやびっくりするようなことが書いてあった。ご存知の方も多いだろうが、この番組の主題歌はオープニング、エンディングとも”ムッシュ”かまやつひろしが作曲している(エンディング「やつらの足音のバラード」は名曲!)。しかし、それ以外のBGMは「藤沢守」という作曲家の手になるものだ。
 この藤沢守という人、現在はペンネームを使って活躍中なのである。そのペンネームとは、「久石譲」! そう、宮崎駿の作品でおなじみ、ニューエイジ・ミュージックの旗手、久石譲その人である。いやー、私が単に浅学なだけだったのか。まさかあの「はじめ人間ギャートルズ」の音楽を担当していたという過去が久石譲にあったとは。
 「実はあの人気女優はかつてAVに出演していた!」というほどの落差はないけれど、意外な過去をお持ちだったのですね。でも、よく考えてみると、「ギャートルズ」はおおらかな原始生活賛歌という面を持っていたし、宮崎アニメの主題は自然と人間の関係というところに力点がある。全く接点がないわけでもないのだ。
 このようなCDを聴いていると、今から20〜30年も前の「テレビまんが」の音楽性の高さに驚かされる。作曲家も冨田勲や田中正史、八木正生といった多岐にわたるジャンルの一流どころを起用しているのだ。アレンジもフルオーケストラあり、ジャズあり、サンバありと非常に凝っていて、しかもスマートだ。BGMだけでも聴き応えがあり、またノスタルジーも満喫できる。
 ところで、私だって意外な過去があるのだ。「喜多哲士はかつて高校で生徒会の副会長をしていた!」。それがどないや、いうねん。失礼しましたっ。

2月22日(日)

 私は最近テレビ番組というものをほとんど見ない。時間があれば読書をしている。そうでないと書評のネタがなくなるのだ。本当に見たい番組だけはVTRに録画して、それを後から見るようにしている。そのVTRもたまりがちだ。
 VTRを見る時に、ちらりとテレビ番組が目にはいる時がある。特にバラエティが多い。ちらりと見た印象でいってはいけないかもしれないのだが、企画が貧困ですねえ。たまたまそういうのばかりを見せられているだけなのか、どうか。例えば最近では、芸能人の奥さんたちを大量にスタジオに入れて、打ち明け話をさせている。古館伊知郎の達者な喋りに頼るだけの企画である。司会が下手だと目もあてられなくなってしまうだろう。ナインティナインがゲストとお喋りをして、それがウソかホントか当てる。それのどこが面白いのだ。スタッフの爆笑が聞こえてくる。そら、あんたらはおもろいかもしれんけど、やね。内輪受けと芸とは違うということをスタッフがわかっていないらしい。
 ああいうバラエティ番組のプロデューサーやディレクターは、本当にその種の番組を作りたくて入社した人たちなのであろうか、という疑問がでる。バラエティだから、こんなもんでいいやという、なんだかお手軽な感覚で企画を出し、後はタレントに任せておしまい。そんな作りが見えてしまう。これは夕方の穴埋め番組ではなく、午後7時からのゴールデン・タイムの番組なんですよ。それがそんなにお手軽でいいのかしらん。
 もっとも、チャンネル権を握る子どもたちは、その時間帯は学習塾に行ったりしているのだ。本当のゴールデン・タイムは午後8〜10時台ということになるのか。それだと、けっこう金のかかった番組が並んでいるなあ。
 私が子どもの頃の5〜6時台が現在の午後7時台という感覚なのかもしれない。それならば、昔その時間帯でよくやっていたように、テレビ黄金時代のドラマやアニメを再放送してはどうだろうか。その方が質も高く良心的だと思うぞ。

2月23日(月)

 いやあ、イラクが国連の査察を受け入れましたねえ。
 アメリカが仮想敵国を作って強引に飲めそうにない条件を突き付けて挑発し、国内の批判をそらすという図式が、太平洋戦争開戦前夜の日米関係を思わせて、どうなることかと注目していたのです。
 一応、五輪休戦とかいって冬季オリンピック長野大会の開催中は国際紛争は控えようというムードになっていただけに、閉会した直後にどのような状況の変化が待ち受けているかと内心ひやひやしてたのです。私がひやひやしたからどうなるというわけではないのだけれど。
 やはり複雑なアラブ世界で生き抜いてきたサッダーム・フセイン、ただ者ではありませんね。最悪の状況はみごと回避したわけであります。問題は振り上げた拳をクリントンがどうするかというところであります。反対派に詰め寄られたゴア副大統領が「やるといったらやるのだ」などという子どものけんかみたいなことを言っていたり、作戦名まで考えたり、ニュース番組では戦争実況のリハーサルまでしてたのにね。これでは逆にアメリカが追い詰められて理由もないのに戦争をおっぱじめてしまわないか心配になるぞ。そうなると欧州がイラクの味方をして対米全面戦争になったりして。そうなったら日本はどうするんだろ。
 冗談はさておき、ともかく現時点では戦争は回避されたようなので、やれやれといったところですね。ほんと。

2月24日(火)

 妻とは同世代なので、思わぬ話題で盛り上がることがある。昨日は「タイムボカン名曲大全」なるCDを聞いていて富山敬の声を聞き、二人して懐かしがっていた。
「やっぱり富山敬の代表作は、タイムボカンシリーズのナレーションやねえ」
「古代進はやっぱり無理があったねえ」
 オタク夫婦の会話である。
 以前、停電の話で盛り上がったことがある。
「停電になったら、まず外に出て近所も停電かどうか確かめたなあ」
「よそもついてへん。しばらく待とう、言うてね」
「うちだけ停電やったら、お父さんがヒューズを付け替えるんや」
「そうや! うちは必ず神棚にヒューズをなおして(大阪弁で”しまって”の意)おいたんやった。ろうそく持って、神棚をのぞきこむねン」
 今時の若者にこの会話はついていけないだろう。停電なんてまずないだろうし、あってもブレーカーのスイッチをいれたらすぐに復旧するわけで。
「うちのテレビ、チャンネルがよう取れて(むろんダイヤル式である)、はめても穴の形がバカになってちゃんと回らへんかった」
「ペンチがテレビの横に置いてあって、芯をはさんで回したもんやね」
 これも現在では理解不能か。ボタンどころか全ての操作をリモコンでしてしまう時代だからなあ。
「お父さん、テレビ写らへんで」
「おう、真空管があかんようになったか」
 昔は家電が壊れたら、お父さんがごそごそといじって直したのですね。こういう話題で盛り上がるのだから、私たちもいい年になったのだ。なんたることであろうか。昭和は遠くなりにけり。

2月25日(水)

 今月の「S−Fマガジン」から書評欄がリニューアルされた。目玉は三人の評者が一冊の本について批評する「今月のCROSS REVIEW」。実は、これは昨年の7月号で私が「まず、読者を育てよ」と題した文章で提唱したアイデアを、塩澤編集長が採用してくれたものなのだ。こうやって実現すると、なんか嬉しい。こう、建設的なことをしたという気になるじゃあないですか。
 もっとも、これは私の独創ではない。「音楽現代」というクラシック音楽の雑誌では、一枚のCDを四人で評する「音現立体批評」というページがあり、これもクラシックの雑誌である「レコード芸術」でも一枚のCDについて二人の評論家の批評が載っている。それを書評でもやってみたら面白いのでは、と思ったのだ。
 クラシックのCDを評する場というのは非常に限られている上に、評論家たちもそれぞれの趣味によっていろいろな切り口を持っている。そこからこういった複数の評論家による批評というスタイルができあがっていったのだと思う。
 SFだって、いまやレギュラーの書評ページがあるのは「S−Fマガジン」だけという状況なのだ。だから、こうした試みがなされてもいいとかねてから思っていた。まあ、インターネットのホームページでは多くの方が書評のページを作っておられるのでオンラインではそんなことをする必要はないのだろうけれど。しかし、専門誌上でプロの書評家たちの手によって一冊の本が様々な切り口から語られるということは意義のあることだと思う。新コーナーがうまく機能してくれることを願っている。

 「S−Fマガジン」4月号に私の「ヤング・アダルト」書評が掲載されています。二段めの最後の行、一字欠落しておりますが、「文章は読みにくいし話の辻褄もあまり合っていないのだが…」となります。編集上のミスと思われますが、補ってお読み下さい。

2月26日(木)

 あまりに増える高校中退に、文部省が「場合によっては中退による進路変更を積極的に評価・支援することも進めるべきだ」なんてコメントを発表している。
 ちょっと待ちなさい。「中退=悪」という図式で教育委員会や学校を縛っていたのはどこのどなたか、と言いたい。
 9年前に定時制高校で講師をしていた時、担任学級を持つ教師がぼやいていたことを思い出す。教育委員会の意を受け、校長から「中退者の理由や状況をくわしく書いて書類提出せよ」と指示されたそうだ。ところが、定時制の中退というのは日常茶飯時。仕事と学校の両立というのはただでさえ難しいというのに、全日制の試験を落ちて入学してきた勉強嫌いの生徒たちが大半を占めるという実態では、中退者の数を抑えることは至難の技なのである。
 それでも、そのような書類をもとに中退の原因を分析して増加を防げなどという指示を校長は出してきている。それが文部省の方針だったというわけ。
 何を今さら「中退による進路変更の積極的評価」なんて言い出すのか。もっと謙虚に、「私たちの方針が間違っていました。現場の状況も知らずに方針を立てていました。ごめんなさい」くらい言えない…だろうな。
 私が教員採用試験に合格した時、面接試験で「中退を希望している者をどう指導するか」という質問が出されたことがある。集団面接だったが、隣席の女性が「中退も一つの意思表示だと思うし、それはそれでかまわない」と答えた。私は内心「同感」と思いつつ、同時に「しめしめ」と思っていた。つまりそれは期待されている答えではない。当時の文部省の方針からいくと、「中退はいけない。なんとしてでも引き止めるべき」と答えなければならなかったのだ。私はすかさずそうした。なに、本音は合格してしまってから言えばいいのだ。結果、私は合格し、彼女は落ちた。
 今後は、彼女のような返答をしても、全く問題なく合格するのだろうな。まことにあほくさいことである。お役所の行う試験なんていうのは、その程度のものだと心得ておいた方がよかろう。
 保守的な文部省がこのような変化を見せた。さて、これで高校中退者の数や学校のあり方がよい方向に変化するのだろうか。あまり期待はしてしないが、変化してほしいもんです。

2月27日(金)

 今日は校内のレクリエーションで「クイズ日本人の質問」(NHK総合テレビ)の真似事をする。昔は「ホントにホント」のタイトルでやっていたものと同種のクイズ番組で、視聴者から寄せられた質問に対する答えを4人のレギュラー回答者がいかにも本当らしく説明をし、そのうち誰が本当のことを言っているか当てる番組だ。
 今日したのは学校の先生や校内の秘密といった題材を質問としたもの。私は回答者の1人としてもっともらしく嘘をつく。だいたいしゃべりというのは教師の十八番だ。ベテランの教師ほどもっともらしいことを言う。それに負けまいと思うからなおのこと難しい。
 生徒たちはけっこう楽しんでいた。たぶんクイズ番組を見て自分も参加したいとか思っているのがかなったような気分になるのだろう。そういえば最近視聴者参加型のクイズ番組というのがほんとに減ったな。かつてクイズ番組のオーディションに何度か参加して面接でことごとく落とされた経験を持つ身としては寂しいものがあるぞ。
 ほんのひとときだけれども、高橋英樹にでもなった気分を味わったのでありました。

2月28日(土)

 所用で京都へ。
 四条河原町から西へ一筋入った通りがあって、「裏寺町通り」という。地元の人は「ウラデラ」と呼ぶ。「寺町通り」もあって、こちらは商店街や電器店街になっている。寺も多いがそれほど目立たない。「ウラデラ」は文字どおり寺が並んでいる。
 ある寺の門に貼ってあるポスターが目をひいた。
 若い女性が寺の本堂らしきところで本尊に向かって手を合わせている写真に、「あみださま、すき」というコピーだ。
 なんなんだ、これは。阿弥陀如来というのは好きとか嫌いとかいう対象なのか? おおいなる慈悲によって称名する者を極楽浄土に導く仏さんでしょうが。ありがたがるのならわかるが、「すき」と言われてもなあ。阿弥陀如来も困るのではなかろうか。
 だいたいこのポスターのねらいがわからない。お寺が「うちはなんちゅうても、阿弥陀さんが好きなんどす」と自己主張しているのだろうか。阿弥陀さまはこんな若い女性にも愛されているキャラクターなのだとアピールしているのだろうか。「この子みたいに、いっぺんおたくも拝んどいやす」と勧誘しているのだろうか。それならもっと美人を使えよ。いやまったく、不思議なポスターだ。
 この話を妻にしたら、「『仁王さん、すき』とか『お地蔵さん、すき』とか『不動さん、すき』とか、なんぼでも作れるやん。『すき』と言われて不動明王がポッと顔を赤らめてたりして」と言って笑っていた。
 なるほど、それはそうだ。「天神さん、すき」「荒神さん、すき」「弘法さん、すき」。
「やめてえな。弘法大師が好きやなんて、気持ち悪い」。
 そ、そうかなあ。
 阿修羅さん、すき。聖徳太子さん、すき。そういう女性ならけっこういるかもしれないね。 


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