ぼやき日記


7月11日(土)

 明日は参議院選挙の投票日だ。
 どうも誰に入れようかどこの党に入れようか、まだ考えあぐねている。
 今度の選挙では投票お願いの電話が2回きた。あとは街頭演説をよく見かけた。名前だけを連呼する選挙カーというのは、私の近辺に限っていえば、ほとんど見当たらなかった。あんなものは百害あって一利なしだと思っているし、連呼される名前を聞いてその候補に投票しようなどというおめでたい人というのはそんなにいないのじゃないかと思う。かえって、うるさいからあいつにだけは投票すまいと思われるだけじゃないかな。だから、あまり見かけなかったのはいい傾向かなと思う。
 きのう家に帰ってきたら、西川きよし候補の選挙ハガキが届いていた。直接入れたのではなくて、郵送されてきたものだ。
 どこかから名簿が流れているな。そんなことを考えた。だって、そうでしょう。私は教員であるから、教職員名簿というものに名前と住所が明記されている。組合が支持している政党なんかにはそれが流れているはずだ。電話をかけてきた政党がそうだ。どこに個人情報が流れていくかわかったもんじゃない。あまり愉快なことではない。
 そのハガキには差出人を書く欄があった。そこに書かれていた名前とは……。
 新野 新
 関西在住の方ならよくご存知のベテラン放送作家であります。もっとも、それ以外の地域の方にとっては「それ、誰?」という反応が返ってきそうだけれども。
 なぜ私の家に新野 新さんの名前でハガキがくるかというと、私は新野さんが主宰する「日本芸能再発見の会」の会員だから、その名簿で送ってきたのだろう。それなら、いいや。どこから自分の情報が流されたのかまるでわからないというのは不愉快だが、それがちゃんとわかったのだから。
 西川候補に投票するかしないかはともかく、「新野 新から送られてきた西川きよしの選挙ハガキ」というのはけっこう話のネタになりそうなので、置いておくことにしよう。
 それにしても、棄権はしたくないが誰に投票したってかわりばえしそうにないし。まだ困っているのである。

7月12日(日)

 毎夏楽しみにしている小冊子がある。
 各文庫から出る夏の文庫フェアの冊子である。もともとは新潮文庫が「新潮文庫の100冊」というフェアをしだしたのに追随するように、角川文庫もやりだした。最近集英社文庫が加わって「ナツイチ」というフェアをしている。
 何をどのように楽しみにしているかというと、その文庫がその年なにをウリにしたいかを読み取ったり、いかにして本を売るかという工夫を見たり、というとこらへんか。
 それからもうひとつ楽しみなのは、本の紹介の間に挟まっている本に関するエッセイである。毎年いろいろな人に文章を依頼している。それがけっこう面白い。自分のお薦めの本を紹介する人あり、読書論をぶつ人あり、文庫本をヨイショする人あり。
 ああいうのって、一度書いてみたいんですが、どうせ私に依頼なぞしてくる出版社はない。だから、ここでやってしまうことにする。ただし、新潮文庫と角川文庫では書き方も変わってくるであろうから、両方のバージョンでやってみることにしよう。
 まずは「新潮文庫の100冊」から。

 私が生まれてはじめて買った文庫は新潮文庫の「シャーロック・ホームズの帰還」である。小学5年生くらいであった。ホームズものが好きだった私は子ども向きの「ホームズ全集」を少しずつ集めて読んでいた。しかし、一冊当たりの単価が高いのと収録されている短編の本数が少ないのとで、全てを揃えようと思うとかなりお金がかかる。
 文庫のコーナーで一冊百円くらいのホームズの本を見つけた時は、これこそ自分のようなものためにあると思った。金はないが全作品を読みたい。できればリライトされたのではなく完訳で。「三つ子の魂百まで」というが、マニアックな指向がその頃より芽生えていたのだ。
 以来、全集的なものはなるべく文庫で集めるようにしている。今持っている文庫本が全てハードカバーだったら、私は部屋の中に山と積まれた本の中で窒息死してしまっていることだろう。

 むずかしいなあ。ちっとも面白くない。この面白くないところが新潮向けという気がしないでもないが。
 角川文庫であればどう書くか。長くなったので、それは明日にします。

7月13日(月)

 昨日のネタの続きをやろうと思っていたが、参議院選挙の投票結果を見て感じたことがあるので、それを書く。
 落選した候補者が「組織票を固めきれなかった」と敗因を語る。組織票というのは、いったいなんなんだ。彼または彼女を支持する後援会の票のことか。指示母体というのがあって、労働組合や宗教団体や農協であったりする。だいたいはそれらの票のことを指すのだろう。
 そこで私は組織票とはなんなんだと思う。
 その組織の構成員全体が候補者の人柄や政策をよく知っていて、個人ごとに納得して投票しているのだろうか。組織のトップが「今回の選挙はこの党のこの候補に投票しましょう」といい、構成員は迷わずその候補に投票する、そんなところだろう。時には支持する政党の候補がいない時もある。その時は「独自の投票をしてよい」と沙汰が下り、「誰に投票してよいのかわからん、参った」などというコメントが新聞に載ることがある。
 どうして自分の頭で考えようとしないのだろう。
 上意下達で決められた候補に投票するというのは恥ずかしいことではないのだろうか。自分の持つ権利を人にゆだねてしまうということは、最も民主主義からは遠いことだとなぜ気がつかないのだろう。
 それならば、まだ「友だちに頼まれた人に入れた」というほうがましである。それは友だちの意見を参考にして投票をしているということになるからだ。もっとも、こういう人には私は「友だちに死ねといわれたら、お前は死ぬんか!」とお約束の突っ込みを入れたくなるのだけれど。
 ともかく、無党派層の支持をつかまなければ勝利はないとかいわれているのに「組織を固めなおして」などと言っている落選候補者に言いたい。
「そんなもんに頼るな。それぐらいやったら立候補すンな!」
 それこそ冬樹蛉さんが日記に書いてらっしゃるように、ゲーム感覚で投票した方がずっとずっと選挙や政治を活性化すると思う。
 政党が次々と再編されている今だからこそ、組織のいうままに投票するのではなく自分で考えて投票できるようになるチャンスがきたといえるんではないだろうかねえ。

7月14日(火)

 7月12日の日記で、自分が「新潮文庫の100冊」に文庫エッセイを書くならどんなことを書くかというのをやってみた。で、今日は「角川文庫の名作150」の場合、というのを書いてみようとして困ってしまった。ここでは実際は鈴木光司さんたちが角川文庫に収められている作品で自分の心に残るものを紹介しているのだが、私がかつて角川文庫で楽しんだ日本SFがほとんど絶版になってしまっているのである。半村良も小松左京も眉村卓も豊田有恒も筒井康隆も。名作150としてあげられている国内SFは「きまぐれロボット」(星新一)と「賑やかな未来」(筒井康隆)の2冊のみ。海外SFでは「ふりだしに戻る」(ジャック・フィニイ)と、少し無理をして「ジーキル博士とハイド氏」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン)のこれまた2冊のみ。ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」をSFとするのには無理がある。
 つまり、私には今年の「角川文庫の名作150」という冊子に書くことがないのである。せめて角川スニーカー文庫から何冊か選んでくれていれば書きようもあるのに。
 というわけで、角川文庫への文庫エッセイを書いてみるという試みはあえなくついえたのである。いや、書こうとはしてみたんですよ。
 「文庫でしか読めない作品がある。全集が出ていない作家の作品で親本がとうに絶版になったものなどがそうである」というような調子でね。ところが、その先がこうなってしまう。「そのような本はまことに多い。そして、文庫で絶版になってしまったら、その本を手に入れるためには古本屋を探し回らなくてはならなくなる。そして、角川文庫にはそのような名作が実に多いのだ」なんて書かかずにはおれなくなるのですよ。これでは文庫の宣伝にならない。ただの悪口だ。
 ところで、「角川文庫の名作150」にはスニーカー文庫だけではなく、ホラー文庫も入れていない。銀色夏生や紫門ふみを入れているのだから、「パラサイト・イヴ」(瀬名秀明)や「リング」(鈴木光司)だって入れていないとおかしいと思うのだけれど。鈴木光司さんにエッセイを書かせておいてその作品はラインナップから外すというのはどう考えても失礼であるように思うのだが、どうだろうか。
 スニーカー文庫やホラー文庫には名作はないということではないと思うのだけれど、なにか釈然としないなあ。瀬名さんや鈴木さんは真剣に怒ってもいいと思うぞ。

7月15日(水)

 書店で「手塚治虫全史」(秋田書店)という本を見つけたので、買ってしまう。税込5714円といささか値ははるが、この手の本は出た時に買っておかないと後悔するので、迷わず買う。
 帯に「生誕70周年記念出版」とある。手塚さんが生きていたら70才なのだ。おそらく現役でいるであろう。亡くなられたのが1989年の2月。”手塚治虫の新作”を手にすることができなくなってもう9年にもなる。
 今年は生誕70年にちなんでかほかにも「未発掘の玉手箱 手塚治虫」(立風書房)というムックも出ている(これも買った)し、朝日新聞社からは「手塚治虫キャラクター事典」の刊行も予定されている(これも買うつもり)。
 「未発掘の玉手箱 手塚治虫」には講談社版の全集に入らなかったヒトコママンガや広告や特集記事のカットなんかが収録されている。作家の二階堂黎人さんが責任編集をしているのでちょっと驚いたが、二階堂さんは手塚ファンクラブの会長なのだそうだ。知らんかった。「手塚治虫全史」は子どもの頃にノートに書いたものから雑誌の扉、単行本の表紙などの写真を多数収録している。人気のあるものだけでなく、ほとんど知られていないものも収めたほか、年賀状やファンレターの返信ハガキまで掲載している。
 これらを読んで(見て?)感じたことは手塚治虫という人は漫画家だったんだということである。なにを当たり前のことをいうと思われるかもしれないので補足しておくと、「手塚治虫全史」に手塚さんが作った博覧会などのイベントのマスコットキャラクターを集めたページがある。それを見て感じたのだ。
 それらのキャラクターは確かに目を引くし可愛らしくて親しみやすい。しかし、手塚マンガの主人公たちと比べるとどうしても見劣りしてしまうのだ。なぜだろうと少し考えた。そして気がついた。マスコットキャラクターたちには”物語”がないのだ。アトムにしても、レオにしても、サファイアにしても、マンガの主人公たちは手塚治虫が創り上げた世界に生き、泣き、笑い、怒り、戦ってきたことを我々は知っている。その姿の向こうに奥深い物語が広がっている。しかし、マスコットキャラクターたちは手塚治虫に”物語”という命を吹き込まれることなくただ単に消費されるためだけに生まれてきたのである。
 手塚治虫の本質が漫画家でなくイラストレーターであれば、”物語”を必要としないキャラクターを生み出すことも可能だっただろう。しかし、骨の随まで漫画家だった手塚さんにはそのようなことはできなかったのである。
 死んで9年。それでもこうやって発見してしまうことがある。手塚マンガの奥深さを再認識したのであります。

7月16日(木)

 最近ちょっと辛いことがあって精神的にはあまりいい状態ではない。
 自分の精神状態のバロメーターは、読書である。心身ともに調子がいい時は、どんなつまらない本でもガンガン読める。ところが、ひとつ歯車が狂うともうダメだ。普段ならすっと読み飛ばしていけるようなツルツル読める本(学生時代、友だちと”ツルツル本”と呼んでいた)でも手にとることができない。手にとっても数ページ読んだだけですぐに閉じて別なことをしてしまう。
 今月末は「S−Fマガジン」の締め切りなのに、こんな読書ペースでいいわけがない。
 また、最近はゲームに逃避している。今やっているのは「信長の野望 将星録」というシミュレーション。むかしむかし、ファミコンではまりこんでしまったことがある。コンピュータ版はデータも豊富だし、途中で実写のお芝居がはいったりしている。
 そんなことをしているからますます本が読めないのだ。
 状態が悪いと文章を書くペースも落ちる。このホームページもここしばらくは時間がかかったりもしている。これも私にとってはバロメーターといえるだろう。
 たまたま今週末にある「桂米朝独演会」の切符を買ってあったので、いいタイミングで気分転換ができるのではないかと期待している。それと、学校も夏休みにはいるので、それもありがたい。
 体調が悪いのはゲームを遅くまでしていて寝不足になっているせいもあるのだけどね。どうも悪循環ですな。
 とにかく、しんどい時って、てきめんに読書ペースが落ちるのだ。皆さんはいかが?

7月17日(金)

 7月16日付朝日新聞朝刊に、「『空想科学読本』文庫出版差し止め決定」なる記事が載っていた。
 「空想科学読本」(宝島社)という本がある。これは特撮やアニメのTVや映画についてその設定を科学的な考証をしてその矛盾を笑い飛ばすというもので、私も楽しく読んだ。著者は柳田理科雄という人で、本業は塾講師だそうだ。
 今回の事件は、版元の宝島社が著者の承諾なしに「空想科学読本」を文庫化しようとしたことから、著者と元担当編集者が出版差し止めの訴えを起こしていたということだそうだ。
 ここで思い出すのは、SF作家の堀晃さんと早川書房の裁判である。堀さんの「太陽風交点」を徳間書店が文庫化した時に親本の版元である早川書房が「文庫化の契約を口頭で堀氏と結んでいた」と主張、堀さんの承諾なしに文庫を出版しようとした。早川書房はあくまで文庫化の契約をしていたと主張し、訴訟に持ち込んだ。
 この裁判のことを宝島社は知らなかったのだろうか。
 話がこじれたのはどうやら「空想科学読本」の担当編集者が宝島社を退職し他社に移ったことが原因らしい。著者はこの編集者の移った会社で次回作を出すことにしたそうなのだ。
 私の経験からいっても、書き手と担当編集者の関係というのは、かなり強いものがあると思う。私も最初に「S−Fマガジン」で書いた時の担当さんがすぐに退社してしまったり、「おひさま」の最初の担当さんが他の雑誌に移ってしまっても原稿はその担当さんに送り続けたとか、担当編集者に関しては落ち着かないことがけっこうあった。
 原稿を見てくれるのも担当さんなら、出版にいたるまで面倒を見てくれるのも担当さん。システムとしては、出版社というのはかなり個人レベルのものになってしまう。大きな出版社である程度システムが固まっているところならともかく、規模の小さなところではそうならざるを得ないようだ。
 宝島社の場合はどうなのかは知らないけれど、新聞の記事から想像するに、他社に移った編集者が人気のある書き手をつれていってしまうことに対する焦りみたいなものがあったのかもしれない。だからといって著者の承諾なしに本を出そうとするといのはあまりといえばあまりではないかと思う。実際、それで早川書房は敗訴しているのだ。
 私は出版社が書き手を大事に扱ってないような印象を持ってしまった。くわしいところが新聞記事ではよくわからないので、私の受けた印象が正しいかどうかはわからない。続報を待ちたいところである。

 明日は「桂米朝独演会」に行ったりして遅くなりそうなので、更新をお休みします。次回更新は日曜日の深夜の予定です。

7月20日(月)

 18日は終業式。この1学期は修学旅行があったりなんやかやでしんどかった。終わったと思うと気が抜けてしまい、予定では昨日にホームページ更新をすることにしていたのに、さぼってしまった。すんません。
 「米朝独演会」ですが、行っておいてよかった。また「笑芸つれづれ噺」のページに感想など書こうかと思う(すぐ書けよ)。そのあとで、SF作家でジャズ・ミュージシャンでジャズ・ファンで落語ファンで阪神ファンのTさんと居酒屋へ。ここんとこ、教員としか話をしていなかったので、大いに刺激になる。ものを書く、という点では共通しているわけであるけれど……。書評のこととか童話デビュー作「おどりじいさん」と最新作「おおごえこぞう」の比較とか手塚治虫の話に落語の話に漫才の話、タイガースの話。共通の話題がたくさんあるじゃないですか。
 気がついたら電車はもう走っていない。タクシーに乗る。Tさんは宝塚。悪いことをした。
 Tさんと話をしていて思ったのだが、どうも私は兼業のもの書きのくせに、全てを完全にやろうとしてるのがいかん。書評なんか、面白そうなのだけ読んで書いてもいいものをちゃんと紹介できたら誰からも文句は出ない、というようなことをTさんから言われる。
 そうなんだよね。そうすればいいんだよね。今の調子では3足のわらじ、全てが切れて歩けなくなってしまう。どれかを楽な形でしのいでいかなくてはなるまい。
 どれだけうまく手が抜けるか、そこらあたりが私の課題。
 やっぱり、人と会って酒でも飲んでって、そないせんと神経がもたんな。
 翌日は「たちよみの会」の例会で京都に行ったほかはだらだら。今日も昨日京都で買った「手塚治虫キャラクター図鑑」(朝日新聞社)を読んだりゲームをしたり。
 明日からはちょっとは気合いを入れよう。おおそうだ、締め切りも近いのだった。


ご感想、ご意見はこちらまで。どうぞよろしく。
過去の日記へ。

ホームページに戻る