ぼやき日記


8月11日(火)

 今朝の新聞を読んでいたら、高校野球が開幕したという報道があった。
 ただし、これは甲子園ではない。神宮球場である。
 全国定時制通信制高校軟式野球全国大会のことだ。
 私は9年前に京都府立鳥羽高校の定時制に講師としてお世話になっていたこといたことがある。たった1年であったが、学校の教員として初めて仕事をしたということもあって、印象深い学校である。
 実はその時、私は野球部の顧問をしていたのであった。野球は好きだが、指導はできない。私のような運動が苦手な男が軟式野球とはいえ毎日高校生の練習を手伝っていたのだ。今やれといわれてもようやらん。若かったのだなあ。
 彼らの合言葉は「めざせ神宮!」であった。実際、その時は地方大会の決勝までいったのだ。なかなかの実力である。
 ある生徒が言った。「先生、ぼくら、もうちょっと勉強ができたら甲子園をめざしてたんやで」。この言葉は忘れられない。
 神宮の大会は甲子園と違って2週間も日程をとれない。選手たちは昼間は働いているのだ。職場の盆休みの期間を利用したわずかな期間で日程を消化しなければならない。だから、神宮球場の他にいくつかの球場を使って一気に試合をしてしまわなければならないのだ。そのため、憧れの神宮といっても開会式だけで後は東京都内の小さな球場の土しか踏めない選手もたくさんいる。そんな大会なのだ。
 最近は定時制の生徒自体が減っていることもあってか、この大会では女子の選手も出場できる。新聞には先発した女子選手の写真が載っていた。
 鳥羽高校は、今年は久々に神宮の切符を手に入れた。優勝とかなんとかよりも、太陽の光のもとでプレーすることを楽しんでほしいものだ。彼らは毎日電気の光で野球をしているのだから。
 ところで、この大会はなぜか「もう一つの甲子園」と呼ばれている。その昔萩本欽一が特番で彼らの大会を特集した時につけた呼び名である。実は、私はこの呼び名が嫌いなのだ。甲子園は甲子園、神宮は神宮。野球エリートも集まる大会といっしょにしてほしくない。「神宮の高校野球」それでいいと思う。

8月12日(水)

 この時期にある催しで私の嫌いなものに「まんが甲子園」がある。
 全国の高校の慢研なんかがマンガを応募してそれに賞を与えるというものだが、ひとこまマンガやよんこまマンガがその対象となっている。
 それはいい。カトゥーンというものはマンガの一つのジャンルとしてすぐれた作品を多く生み出しているし、そのようなものに取り組むことはマンガを書いていく上でマイナスになるということはないだろう。
 しかし、受賞作が新聞に発表されるのを見るといささかげんなりする。
 カトゥーンというものが必ずしも風刺を含むものでなくてはならないという決まりはない。風刺というものは社会の事情や矛盾やあらゆることをよく理解した上でそれを嗤いとばすという性質のものである。だから、作者が薄っぺらいと作品だって当然薄っぺらくなってしまう。
 高校生が無理に社会風刺をする必要はないのである。アホな友だちを笑いとばしたって、身近な大人を笑いとばしたっていいのである。自分のよく知っている範囲で書けばそれはそれで面白いのだ。
 ところが、「まんが甲子園」で入賞している作品を見ると、なにか違和感を感じるのだ。社会の上っ面だけを見て、無理に背伸びをし、審査員の好むようなものを書いているような印象を受けるのである。
 高校生のセンスというのは、時として大人をどきりとさせる。それは、背伸びをせず、等身大の自分を表現するからである。残念ながら「まんが甲子園」の入賞作にはそのどきりがない。等身大ではなく、大人の望むコスチュームに身をまとっているとでもいうのだろうか。
 なぜ人生のうちで最も豊かな感性を持つ高校時代に、その感性を押し殺して審査員に媚びてでもいるかのような作品を書くのだろうか。
 アニパロでもいい、自分が面白いと思うことを素直に書けばいいではないかと思う。いや、そうしたものは予選の段階ではねられてしまうのかな。もしそうだとしたら、こんな催しに意味はない。
 マンガというのはもっともっと自由な表現媒体であるはずだ。大人の物指しではかるべきものではないだろう。
 そんな「まんが甲子園」だったら、私はやめてしまった方がいいとさえ思うのである。

8月13日(木)

 仕事の関係で大阪府内のある養護学校へ行く。
 初めて行く所なので、大阪の区分地図を鞄に入れ、原チャリに乗る。
 致命的な方向オンチという人がいて、そういう人はどんなにわかりやすい地図でも道に迷うそうだが、私はそこまでひどくない。目印さえあれば少し回り道をしてもなんとか目的地にたどり着くことはできる。
 広い道であると交差点ごとに行き先の案内がつってあるので便利だが、困るのは狭い道だ。特に旧街道ぞいにある古いところだと、横道にはいるととたんに迷ってしまうことがある。
 原因は一方通行指定の道路なのだ。
 地図を見ると「この道を通れば目的地につくな」と目ぼしがつけられるのだ。ところが、実際に走ってみるとそうはいかない。右に曲がればすぐにつくはずの場所が、一方通行のために左折しかできなかったりする。一方通行の逆走をして捕まったらけっこう大きな減点になるのだ。ここ数年切符は切られたことがないので、できれば運転免許証はゴールドカードがほしい。
 あれやらこれやら考えつつ、やむなく左折する。なに、なんとか大回りしたらつけるだろうとたかをくくって走るのだが、次の道もまた一方通行だったりしてあっちこっちと曲がってるうちに目的地からどんどん離れていってしまう。
 こうなると地図を見てもしかたがない。自分が今どこにいるのかてんでわからないのだから。とりあえず道の先にバスが走っている広い道路があるのでそこまで行ってみる。
 そこで初めて自分が大きく後戻りをしているか先に行き過ぎてるかが判明するのだ。
 道を歩いてる人に聞けばいいと思うでしょ。こういう時、バイクは不便だ。歩道の方に寄せて止めて、ヘルメットを脱いでさてきこうと思ったら、もう人はいなくなっていたりする。
 自動車用のくわしい道路地図を持ち歩くわけにもいかない。あれは鞄に入るサイズではないのだ。あくまで座席に置いておくことを前提に作ってあるからね。
 大阪の衛星都市というのは大阪市内から行くには便利でも、衛星都市どうしをつなぐ電車がなかったりするのでいきおい自動車やバイクに頼ることになる。
 ホンマ、知らん所へ単車で行くのは、それだけでけっこう疲れますのや。
 ああしんどかった。

8月14日(金)

 書店は開店していても取り次ぎが休みなのか、この時期新刊が入ってこないので、書店まわりに行くこともない。したがって、一日家にいるということが多くなってくる。
 うちは小さな団地だが、子どもの遊び場程度の前庭はある。窓を開けていると(うちはエアコンは入れていない)小さな子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくる。
「カメハメハーッ!」
「レディー、ゴーッ!」
 男の子というのはやっぱり単純やわ、と妻が言う。全くその通りでぐうの音もでない。
 それにたいして女の子は冷静で理路整然としていたりする。むろん個人差はあるのだとは思うが、同い年くらいの子どもどうしなのにまるで母親のようにたしなめているのは女の子だ。
 おいおい、たしなめられて反論できないからといって、泣くなよ。
 栴檀は双葉より芳しというのか、例えば少年マンガと少女マンガの雑誌を読み比べると、単純なものは圧倒的に少年誌に多い。最近はミステリなどでも女性の作家の方が何となく元気があるような気がする。
 SFが昔日の勢いを持たないのは、すぐれた女性作家を輩出していないからではないだろうか。もちろん、SFの専門誌に新人賞がないということの方が大きな問題だということだけははっきりしてるのだが。大原まり子、新井素子といった人たちに続く女性作家がながらく出てこなかったというのは(最近やっと松尾由美、恩田陸といった人たちが目立ちはじめたけれど)かなり大きな意味を持つような気がする。
 童話の新人賞の受賞式の時に、当時の編集長から「なんにも考えていない男の子が喜ぶような話を書く書き手がほしい」とおっしゃっていた。さすがにプロはちゃんとターゲットのことをよくわかってるものだ。
 話がえらい方向までいってしまったが、ともかく、単純で何も考えていない男の子たちに、女の子に負けずに感性をみがけよと心の中でエールを送る毎日である。

 8月16日(日)の午後1時から京都で私の主宰する「たちよみの会」の例会があります。例会といってもお茶を飲んで馬鹿話をするだけですが、もし興味がおありでしたら、前日までにまでメールをいただければ、ご案内の返事をいたします。

8月15日(土)

 昨日の日記で、女性SF作家のお名前を何人かあげたが、「菅浩江さんについてはわざと書き漏らしておられるのか、非常に気になります」というご指摘を作家の田中啓文さんからいただいた。
 これはしまった。ヤングアダルトから短編SFまで良質の作品を書き続けている菅さんのことを書き漏らすなんてどうかしている。しかも彼女は同郷である。いや、うかつでした。むろん、昨日あげた女性SF作家の中に含まれるべき作家であることはいうまでもない。
 大変失礼いたしました。申し訳ありませんでした。

 童話の次回作のアイデアがかたまったので、書き始める。
 今度はちょっと破天荒なものをと思い、基本的な筋から多少はずれてもいいから、書きながらどんどんエスカレートさせるというやり方をとってみた。これは、実はデビュー作「おどりじさん」でもそんな感じで話をふくらませていったのだ。つまり、原点に戻ってみたというわけ。書き上げてから日を改めて読み直し、それで得心がいったら編集部に送る予定だが、さて、どのような反応が返ってくるか。特に今回は担当者が異動で変わったので、相手の対応が読めない。
 うまく掲載までこぎつけられたらいいのだけれど。

8月16日(日)

 「たちよみの会」例会と墓参りを兼ねて京都へ。
 夕刻、三条大橋は浴衣姿の女性たちでにぎわっている。
 そうだった。今日は「五山送り火」だったのだ。いわゆる「大文字」として知られるお盆の、そして京都の夏の終わりを告げる行事である。
 京都の子どもは大文字の頃から宿題をしないととあせりはじめるが、このあと各町内で地蔵盆があってそちらへお菓子をもらいにいったり遊びにいったりするので宿題を始めるのは8月も25日を過ぎてからということになるのである。いや、そんな子どもは私だけだったのかな……。
 ところで、いまだにこの送り火を「大文字焼き」などという誤った呼び方をする人を見かける。いつだったか、梅原猛がエッセイで「大文字焼き」と書いていて仰天したことがあった。京都市立芸術大学の学長までした人がそんなことを書くのである。
 お盆というのは故人の霊が帰ってくるのをまつり、その時は迎え火と送り火をたくという宗教的風習である。送り火は、例えば灯籠を船に乗せて川に流したり、地方によっていろいろな方法があるだろうが、京都は一括して(?)市内を囲む五つの山で送り火をたくのである。
 奈良に「若草山の山焼き」という行事があるから、混同しているのではないのか。
 私の認識では「大文字焼き」というのは、皮にゴマの入った回転焼きである。大判焼きとか、太鼓焼きとか、巴焼きとか、地方によって呼び名は違うかもしれない。とにかく丸い型のつけてある鉄板で焼くあんこの入ったまんじゅうのことだ。
 この「大文字焼き」は銀閣寺道にあるアイスキャンデー(薄くスライスした果物が入っていて、これもうまいぞ)屋で売っている。この、皮のゴマがなんともいえない味を出していて、私は好きだ。
 TVのアナウンサーが「大文字焼き」を連発するたびに、私はこの回転焼きを思い出す。そして、ああ食べたいなあと思うのである。
 お盆の送り火と回転焼きをいっしょにしてはいけない。多くの人に触れるメディアでろくに調べもせずにうろ覚えの知識でものを言う、そこに問題があると思うんである。
 それはともかく、「大文字焼き」はほんまにおいしいんで、銀閣寺に観光にいく人はだまされたと思うてお食べやす。

8月17日(月)

 昨日、妻と出かけた時の話。
 バスに乗って最寄り駅に行く。私たち二人の前を同じバスに乗っていた女性が歩いていく。
 その歩き方がどうにもおかしいのだ。
 足はすらりと細くってかっこいい。ところが、なんだかマリオネットが歩いているみたいにひょこたんひょこたんといかにも歩きにくそうなのである。
 私は靴のせいかと思っていた。ヒールの高い靴なのだが、そのヒールの部分が太い。ぽっくりという下駄があるが、あれほどではないけれど、安定をとりにくいのかなと考えたわけだ。
 妻の視線もそちらにいっているので、「足は細くてかっこいいけど、歩きにくそうやねえ」といった。すると、妻は少し驚いた表情で、「男の人でもそう思うんやねえ」という。
 妻によると、靴のせいというより歩きかたそのものに問題があるそうだ。くだんの女性は足首をほとんど動かさず、膝だけ動かして足を運んでいるということらしい。
 たしかに、最近の若い女性の足というのはすらりと細くてスタイルがいい。椅子で生活するという習慣が広がって、正座をあまりしなくなったからだという説もあるが、真偽はともかくとして、そういう理由もあるかもしれない。
 しかし、せっかくスタイルがよくてもマリオネットみたいなぎこちない動きをしているのを見ると、なんだかもったいないような気がする。男女問わず、かっこいい人にはさっそうとしたしなやかな動きをしてほしいなあ、なんて、かっこわるくて足をべったらべったら引きずって歩く私がいってはいけないか。
 ついでにもうひとつ。
 キャミソールを着るのはまあいいとして(あまりかっこいいスタイルとは思わないけれど)、できたら肌のきれいな人だけにしてほしいなあ。お肌の荒れた人があのかっこうをしていると、なんだかおばはんがアッパッパーを着ているように見えてしゃあない。
 そんなん思うのは、私だけなんかなあ。

8月18日(火)

 子どもの会話というのは面白いね。
 今日、午後のこと、私の住んでいる団地の前庭で、子どもたちが藤棚の下でおしゃべりをしていた。どのこも小学校にはまだいっていないという年頃の子ばかりだ。そんな子どもたちでもこの暑さでは走り回るよりも日陰でおしゃべりをしている方が楽みたいだ。
 たまたまそこを通りかかったら、ちょっと偉そうにしている男の子が、話の中で「季節」という言葉を使った。すると、その子よりもちょっと下の男の子が問いかけた。
「なあ、『きせつ』て、なに?」
 バカにしたように最初の子が言う。
「なんや、おまえ、『きせつ』もしらんのか」
「なあなあ、どういう意味?」
「そやからなあ、うちのお母さんがよう『きせつ』て言うてるんや!」
 おいおい、説明になってないぞ、それは。
 おっちゃんは思わず横から突っ込みたくなったぞ。
 親が使う難しい言葉を、意味は知らなくても自分も使いたいんやなあ。
 でも、説明を求められても困るよなあ。
 その後、会話はどのように進展したのか、私もちょっと急いでいたので聞いてないけれど、たぶん最初の子は徹頭徹尾あれで押し切ったんやろうね。
 なんか、もう力関係がはっきりわかって面白い。
 なに、大人だってそんなに単純とはいえないけれど、たいして変わりない論法を使っているものなのだよ。
「わしがこう言うとるんやから、そのように協力してほしいと、これはもう理屈やなくて」
 そんな管理職がいたりするのだよ。
 ちっこい方よ、負けたらあかんで。

8月19日(水)

 「不適切な関係」とはよう言うたもんですな、クリントン大統領。オーラルセックスではなくてちゃんとセックスせな「適切な関係」にはなられへんのですな。
 オーラルセックスというのは性行為ではない、というのは、これは日本の風俗営業といっしょの見解ですな。ファッションヘルスですとオーラルセックスだけやから売春にはならん、というのと同じ理屈ですな。
 もしかしたら、大統領の弁護士は日本の売春防止法とか風俗営業法のことも知ったはったんと違いますやろか。
 しかしねえ、クリントンさんはルインスキさんと「不適切な関係」を結んだ時に、性的な興奮はなかったのかねえ。私が思うに、性的な興奮や快感がともなえば、それはやっぱり性行為か準性行為というようなものやと思うんやけどね。
 別に私はアメリカの大統領が何をしてようとどうでもいいんです。ただまあ、この言い訳のしかたがなんともいえんなあと、そう思うというだけなんですけどね。そうですか、オーラルセックスだけやったら不倫にはならんのですな。
 そんなわけあらへんやろ!
 ここはひとつダウンタウンの浜ちゃんをホワイトハウスに派遣して、えげつないぐらいのツッコミを入れてもらわんといかんね。そしたら、アメリカの国民も、ははあこれは漫才のネタやったんかと納得してくれるからね。
 せーへん、せーへん。
※米国では「適切な関係」とは一般的に配偶者との性関係をさすそうです。「不適切な関係」とは配偶者がいるのに他の相手と性関係を持つことだそうです。念のため。(8/19付「日刊スポーツ」デーブ・スペクターのコメントによる)

8月20日(木)

 運転免許更新手続きのために警察署へ行く。
 今さら警察官の応対の横柄さをぼやいてもしかたがないのだが、免許更新だけであんなに偉そうにされるのはやっぱり不愉快である。
 これが、3年間の間に違反しまくり検挙されまくり事故起こしまくりで、点数が後2点とかいうのであれば、私だって神妙にもなろうというものだ。しかし、事故はといえば被害にあったのが1回だけ。違反はしてないとはいわないが、検挙されたのは2年ほど前に20km/h未満のスピード違反で青切符を切られたけれど、それまでの5年間とその後2年間は無検挙である。減点なんかとっくに消えていて、更新時に義務づけられている講習だって「優良運転者」の講習を受けるのだ。別に茶を出してもてなせだの芸者を呼べだのと無理難題はいわない。ただ普通に応対すればいいだけである。
 私はたまたま教師をしていてまだ夏休みだから時間を作りやすいのだけれど、普通はそのためにわざわざ仕事を休んだりして来るようなものだろう。それに対してまるで違反者に対するような態度で接するというのが、昔からそういうものだとわかっていても、腹がたつ。
 別にその警官が免許を発行しているわけでないのだ。しかし、毎日そういう仕事をしていると自分が免許を発行してやっているような気になってくるものなのだろうかなあ。あの態度はそう解釈しないと理解できんぞ。
 本人の力ではなく、その人物が所属してる組織に権力があるだけなのに、さも自分に権力があるかのように思ってしまいがちなのはよくあることだ。この警官もその口だろうか。
 いやいや、他人事ではない。私だって年上の保護者たちから「センセー」と呼ばれているうちに自分が偉くなったように横柄な態度をとっているかもしれない。もうじき2学期だ。そんな態度をとっていないか、常にチェックするぐらいの気持ちで新学期に臨まねばなるまい。
 しかし、あの警官の横柄さは、気分が悪かったぞ。


ご感想、ご意見はこちらまで。どうぞよろしく。
過去の日記へ。

ホームページに戻る