ぼやき日記


9月2日(水)

 気持ち悪いというのは、こういうことをいうのですね。
 何のためにミサイルを打ったんか、私にはわからんのです。現時点で、北朝鮮がミサイルを打ったことについて「実験」としか言うておらないというのですね。何の「実験」なんかわからんのです。
 こういう時、アメリカ的単純さはありがたい。「俺、正義。あいつ、悪。正義、悪をやっつける」という理解が一応できる。こんなに単純化したらホンマはあかんのですが。
 いろいろ解釈はできるし、政治評論家や軍事評論家はそれらしい推測をしてはりますが。
 どれも正しいみたいで、かえって、わけがわかりませんな。
 しかし、北朝鮮のミサイルの精度の高さには恐れ入りましたな。三沢の米軍基地を狙ってちゃんと三陸沖まで飛ばしてるんやから。えっ、違うんですか。あれは横須賀を狙ったんですか。それやったらまだまだ精度は低いですな。
 いやいや、こんなしょうもないことを言うてる場合やない。これはもう周辺有事の限界を超えてますからな。テロにはミサイルを、ミサイルには核弾頭をとアメリカは正義を貫かなあきませんで、クリントンさん。なんですて? 今はそらさねばならんマスコミの追及がないからミサイルを飛ばさんでもかまへんのですか。それは失礼しました。
 いやいや、こんなつまらんことを言うてる場合やない。
 とにかく、私が今知りたいのは、北朝鮮がなんでこんな「実験」をしたかです。自分たちがこんなミサイルを持ってると自慢したかったんか、日本は敵じゃとミサイルを飛ばすことで宣言したかったんか、腹減った軍人さんが立ちくらみして手をついたところに発射のスイッチがあったんか、ホンマの理由が知りたいんです。
 黙ってる相手ほど怖いものはない。何を考えてるかわからんものほど気持ち悪いものはない。この先、どないなるか、予想がつかん。これほど不安なことはありませんな。仕事に行って、日常生活を営んでる間に、えらいことになってるかもしれんというのは、気色悪いもんですな。
 もしかしたら、小渕首相は知ってて隠してるんかもしらへんね。三陸沖にミサイルが落下したことも11時間も隠してたとかいう話やから。またなんぞ隠してるんと違いますか。いったいどないなるのやら、ああ、気持ち悪。

9月3日(木)

 常々気になっている言葉がある。
「ライトノベル」というやつですな。
 これ、いったいどういう意味やねンやろね。いや、私も何の気なしに使うたことはありますよ。そしたら、妻が「それいったいどういう意味?」と聞き返してきたわけだ。私は返答に困ったね。
 なんも考えんでも気楽に読める小説、くらいの意味かなあ。それやったら、なんか、作者をばかにしてるみたいで、嫌やねえ。書いてる方は、読みやすいようにというような意識ではあるんやろうけど。それは書く側からいうことであって、読む側からいうのは失礼やないかと、そう思うわけです。
 ライトノベルがあるんやったら、ヘビーノベルはあるんか? ミドルノベルはあるんか? ウェルターノベルはあるんか? フェザーノベルはあるんか? バンタムノベルはあるんか?   フライノベルはあるんか? ストローノベルはあるんか? あ、それはなくなったんですか。そしたらやね、ライトヘビーノベルとか、ジュニアライトノベルとか、ジュニアフライノベルとか……しつこい。
 別な例でいきましょう。
 ひとを笑わせるのを仕事としてる芸人さんのことを「お笑い」とよく言いますね。あれはもともと芸人さんが謙遜してわざわざ「笑い」に「お」というていねいな接頭辞をつけたそうですな。
「こちらはあいも変わりませぬ『お笑い草』でおあとと交代とまいります」
 というように使うものなんですな。それを一般名詞みたいにしたのがNHKの「お笑い三人組」という番組やったそうです。香川登枝緒先生はそれを嫌って、「笑芸」という言葉を作ったんです。私もそれに準じて「笑芸」という言葉を使わせてもろうてます。
 それといっしょのような気がするんですな。「ライトノベル」という語感には。なんか軽く見ているような感じがする。
 小説にライトもセンターもレフトもあるかい。あ、「プロレタリア文学」というのは「レフトノベル」かもしれん。こらこら誰がそんな言い方をするんや。
 というわけで、私はこれから「ライトノベル」という言い方はせえへんということをここに宣言しておきます。若者を読者対象にした「ヤングアダルト」はあっても、「ライトノベル」はない、というわけです。
 だいたい、内容が軽くて読みやすいものを「ライトノベル」と呼ぶのやったら、星新一さんのショートショートも「ライトノベル」と呼んだかてかまわんのと違いますか。誰がそんな呼び方をしますか。でしょう。
 作家の人が謙遜して「ライトノベル」と呼ぶのは構わんでしょう。でも、読者はそう呼ばんほうがええというのは、これは私の考えですから、他の人に押しつけたりはしませんけどね。

9月4日(金)

 藤田雅矢さんの「蚤のサーカス」(新潮社)という小説を読んでいたら、ポン菓子のおっちゃんが出てきて米を持っていったらポン菓子にしてくれるというシーンが出てきた。
 藤田さんは京都生まれの京都育ちで、私より年は一つだけ上。もしかしたら、ポン菓子のおっちゃんを知っている最後の世代と違うかな。私の幼いころには、生家の近くにもポン菓子のおっちゃんが来てたらしいけど、私自身には記憶があらへんのです、残念ながら。
 妻にきいたら、やっぱり近所に来てたらしい。でも、妻は「ポン!」という音で犬が驚いて犬小屋に入ったという程度の記憶しかなく、目撃はしてないそうな。
 そのかわり、「ロバのパン屋」ならしょっちゅう見たぞ。中学生か高校生の時分まで来てたんと違うかな。「ロバのパン屋」をご存知ない方もいらっしゃるか。つまり、移動パン屋さんです。ああ、これではますますわからんか。私の親の子どものころはロバに屋台を引かせてパンを売に来ていたパン屋さんです。ほんまはロバと違うてポニーやったらしいけど。
 さすがに私のころはロバではなくて軽トラックでしたけどね。でも、テーマソングはずっと変わらず「ロバのおじさんチンカラリン」という歌を流してましたな。蒸パンにチョコレートシロップをかけたのを買うてもろうたおぼえがある。なぜかみたらし団子も売っていた。幌に「ロバパン」と書いてあったのだけれど、あれは関西だけのものやったみたい。
 「ロバのパン物語」という本も出ていた。私も買いましたよ。お目当ては付録のCD。あの懐かしい「なんでもありますチンカラリン」というテーマソングがフルコーラス収録されていたのです。それがついてなかったら買わへんかったかもしらんね。
 妻は「ロバパン」は街を普通に走っているのを目撃したことがあるだけで、「チンカラリン」は聞いたことがないそうだ。わーい、勝ったぞ。
 残念ながら高校卒業ともに京都市内でもかなりはしっこの方に宿替えしたので、それ以降「ロバパン」は見たことがない。つまり20年近く見てない。あの蒸パン、もういっぺん食べたいンやけどなあ。
 いつごろまで「ロバパン」は営業していたのか。「ロバのパン物語」には書いてあったはずやのに、どっかに埋まっているので調べられん。確か、もうとっくに営業はしていないはずです。
 CDのおかげで「チンカラリン」のテーマソングを聞くことはできるけど、あのなんとものんびりしたパン屋がやってこないというのは寂しいなあ。うちの近くに来るのは「わらびもち」「ちり紙交換」「ミニバイクの下取り」「夜鳴きそば」「焼き芋」ぐらいかな。
 妻と世代がいっしょなので、けっこうこういう話題で盛り上がったりするんですな。色気もなんもあらへんね。

9月5日(土)

 「ウルトラマンガイア」の第1回を見る。
 多数のエキストラを使って、「怪獣を見上げる」「人々が逃げまどう」というシーンをきっちり撮っていたのに好感を持った。さすがに時代が違うので「大八車に家財道具をくくりつけて逃げるおばちゃん」はいませんでしたが。そのかわり、交通渋滞のシーンがありましたな。
 怪獣が道を歩くと道がめりこんだり、ウルトラマンが地面におりる時その反動で土ホコリが立つのもよろしいな。
 あんた、そんな細かいとこばっかり見てんのかいな、肝心の話はどないやねんなどと突っ込まれそうですが、話が第1回の30分では収まりきらなんだとみえて、ウルトラマンが出てきたところで来週に続く、ですわ。伏線らしきものはたんと張ってあったんですが、その結果はまた来週、ですな。
 主人公がウルトラマンと同化するところで、「暖かい光が包んでくる……体の中に入ってくる……」とやたら説明的なセリフが出てきたので「あれは無言でしてほしかったな」と言うと、横から妻に「幼児向けの番組なんやで。わかりやすうせんと理解でけへんやない」とたしなめられてしまいました。そやったそやった。これは子ども番組やった。どうもそこらへん、錯覚してしまう。
 でもねえ、「ウルトラマンティガ」なんか最後の方は子ども向けの展開やなかったよ。
 とにかく、これは毎週ちゃんと見たいなあと、改めて思いましたね。

 昨日の日記の「ロバのパン」について、メールをいただいております。近いうちに「ロバのパン」のことをまた書きたいと思いますので、「ロバのパン」の思い出など、こちらまで教えていただければありがたいです。

9月6日(日)

 今日は誕生日。36にもなっておめでとうもないものだが、妻から祝ってもらうと、さすがに嬉しい。「ポストペット」の熊からメールが届いて祝ってくれたのにはさすがに驚いた。ソフトにそういうプログラミングがしてあるんやろうけど、芸が細かいなあ。
 と、いうわけで、30代後半にもなっていまだ落ち着かず、ですが、今後もよろしくお願いいたします。

 TVのニュースで映画監督の黒澤明さんの死を知る。「羅生門」「七人の侍」などの映画についてはいろいろな場所で語られることだろう。でも、私の黒澤体験はもっと別な映画から始まったのですね。だから、その映画の思い出について書いておきたい。
 その映画はソ連映画「デルス・ウザーラ」。なんでソ連映画の話なんかするねんと言いなさんなや。これも立派な黒澤作品なんやから。これは、ロシア人がシベリアを開拓していく中で出会った一人の現地人の案内人の物語だ。私が中学生のころに公開された映画やから、もう20年以上前の作品ですな。この頃、実は黒澤監督は不遇やったそうです。看板は大きくなり、作りたい作品も金がかかる。ところが、映画産業はすっかり傾いてしまい、いかな「世界のクロサワ」でも予算を出してもらえないという時期であったのです。
 そこが「世界のクロサワ」、日本が金を出さんのであれば、ソ連が金を出してくれる。ということで、黒澤作品としては異色のフィルムが残されたわけだ。
 私が見たのは京都の「祇園会館」。ロシアの大地に生きる男たちの姿が今でも印象的だ。もう20年以上この映画は見ていないのに、吹雪の中でデルスがロシア人アルセニエフに「カピタン、働かないと死ぬ!」と言いながら必死でカマクラを作っている画面など、1回見ただけでも、ちゃんと覚えている。中学生というのはものをよう覚えているもんですな。頭がまだ柔軟ということなんかな。
 というわけで、それが、私の黒澤映画との出会いである。
 第一印象というのはたいしたもんで、私にとっての黒澤映画というと、「デルス・ウザーラ」になってしもたんですな、いやほんま。当時角川文庫から出てた原作も読んだくらいやから、かなり気に入ったんやね。自然とともに生き、自然と戦うずんぐりした初老の男が、中学生であった私の心をとらえたんですな。自然と人間を描いた作品という意味では「もののけ姫」なんか甘っちょろいと、大胆にも言ってしまおう。
 たぶん、TVの追悼編成では「羅生門」「七人の侍」「生きる」といったところが中心となったラインナップが放映されるだろう。でも、できたら「デルス・ウザーラ」も放送してほしいものです。隠れた名作でありますよ。

9月7日(月)

 本日付け朝日新聞(大阪版)夕刊のトップを見て驚いた。
 「『レオ様』人気 幼顔に秘密」として、レオナルド・ディカプリオになぜ人気が出たのかを分析している。そんなもん、学芸面でやれよ。他にニュースはなかったんかいな。
 妻の見解では、「きっと誘拐事件があるんやわ。解決してへんから差し換えできる記事にしたんやわ」となる。そこまで深読みせんでもええがな。もっとも、こう言うたあとで、そんな裏読みしようとするなんて、と自分で自分を嘆いていましたが。
 それはともかく、「レオ様」の新作は「仮面の男」。私、最初にこのタイトルを聞いた時に「刑事コロンボ」を思い出したがな。旧シリーズに、そういうタイトルの話があったのです。CIAの捜査官が犯人という話ですが。「レオ様」のはデュマの「鉄仮面」なんやね。なんで「仮面の男」やの。「鉄仮面」やったらあかんの。古臭いイメージがあるからですか。それとも、邦題をつけた人が単に知らんかっただけかもしれんね。
 そう思うと、なんかこの文化というものが正しく受け継がれてないんではないかと、爺さんみたいなものの言いようになってしまうね。「快傑ゾロ」も確か「ゾロ・ザ・なんとか」というタイトルで公開予定やなかったか。
 ここらへんの流れを見ていると、これは映画会社の担当者が古典を知らないのではないかという疑いが濃いね。現在流通している講談社の少年向け全集「世界の冒険文学」ではちゃんと「鉄仮面」というタイトルで出ているのだから。
 原題を直訳すればいいというものではないのだ。すでに定着しているはずのタイトルがあるのに、わざわざそのタイトルを変えるからにはそれなりの根拠が欲しいなあと思う、ただそれだけのことなんやけどね。ヴェルヌの「二年間の休暇」はそれが原題の正しい訳だとみな知っているが、「十五少年漂流記」というタイトルは(例外もあるが)変えてないでしょう。それと同じことで、「鉄仮面」は「鉄仮面」、「快傑ゾロ」は「快傑ゾロ」でないと座りが悪いように思うんやけど。
 そんなん思うの、私だけなんやろか。

9月8日(火)

 黒澤明監督に国民栄誉賞内定ですと。
 なんで死んでから授賞するのかなどということは、別に私が言わんでもみんなが思うてることやろうからね。今さら怒る気にもならん。
 だいたい国民栄誉賞なんていうもんに、私は値打ちを認めんのよ。時の内閣の気紛れで与える賞で、基準もなんもない。そんな賞のどこに値打ちがあるというんだ。
 長谷川町子が受賞しているのに、手塚治虫は受賞していない。
 渥美清は受賞しているのに、勝新太郎は受賞していない。
 吉田正は受賞しているのに、武満徹は受賞していない。
 王貞治と衣笠祥夫は受賞しているのに、福本豊は受賞していない。
 そんな賞に何の値打ちがあるか。
 スポーツ選手以外は死なんともらえんような賞のどこがありがたいの。ノーベル賞みたいに毎年出すことにしておけば生きているうちにもらえる人はもっとたくさんいると思うよ。
 普段は忘れていたくせに死んでから慌てて出し遅れの証文みたいなことをする。あほくさいことこのうえない。世の中にはいろんな賞があるけれど、最も意味のない賞と違うやろか。
 死んでからそんな賞を出すぐらいやったら、その金で国がスポンサーになって黒澤記念映画祭でもやってやね、黒澤賞を創設するとか、そんなことをした方がよっぽどええと思うね。「映画好きで知られる首相」ならそれくらいのことをしはったらどないですか、小渕さん。

 「S−Fマガジン」で牧野修さんの小説を中心にイラストを描いてるおがわさとしくんは本業は漫画家である。彼の最新作が現在発売中の「ビッグコミック・スピリッツ」9/21号に掲載されています。「木の時間」という作品です。彼の本領はもっとファンタスティックな物語で発揮されるのですが、ぜひ御一読を。

9月9日(水)

 この日記で再々書いているように、私は原チャリ通勤をしている。
 今朝、太子橋今市の交差点を京阪本通から内環状線にはいるために右折した時(こんな地名を書いても地元の人間以外にはわからんか、まあええわ)、交通整理の警官が目をそむけているのに気がついた。
 最初はなんのこっちゃいなと思てたんやけど、走りながらつらつら考えてみるに(考え事をしながら走るなよ)あれは、私の道路交通法違反を見逃しているというサインやったんやね。
 原動機付自転車というのは、交差点では二段階右折をせんといかんということになってるんでした、ほんまはね。1回まっすぐ渡って交差点の角で止り方向転換をしてから次の信号で渡らないかんのだ。普通の自転車とおんなじ曲がり方ですわ。
 たしか、こんなルールができたのは15年ほど前のことやったと思う。原付乗車にもヘルメット着用が義務付けられたのと同時ですわ。私が免許をとった頃は、原付はヘルメットかぶらんでもよかったんだ。原付の事故が増加したんで、その対策とかいうことと違ったかな。
 ヘルメットはともかく、二段階右折はかえって危ない。自動車とおんなじように交差点を突っ切って右折した方が混雑しない。そやから、すぐにみんな二段階右折なんかやらんようになった。
 ところがですな、法律はまだ生きてるんだ。警官かて今さら二段階右折を守らん者を取り締まったってしゃあないと思うてるんやろうね。ただ、目に止まったものは一応取り締まらんといかんのでしょう。いちいちそんなもん取り締まってられへんわな。
 で、顔をそむけて「俺は見てへんかったぞ、違反には気がついてないぞ」としてたんと違うかな。実情にあわん法律はなくしてほしいとあの警官も思うてるのやろね。
 この前、同じ交差点で腹がたったことを思い出したんで、ついでに書く。
 右折のために交差点の真中で止まって直進車両をやり過ごしていた。私の前には若い女性の乗ってるスクーターが2台。友だちどうしらしく、なにやらぺちゃくちゃしゃべってる。
 一瞬、直進車両の列が途切れた。普通やったら、その隙を逃さずにさっと発車して曲がりきるんやけど、前の2台がじゃまして発進でけへん。そいつら、前も見んとおしゃべりを続けてるやないか。
 交差点のど真ん中で会話をするな。
 おかげですぐに次の直進車両がきてしもうて、信号が変わるまで曲がられへんかったやないか。ただでさえ朝の急ぐ時やのに、ええかげんにしてほしいよ。
 こんなところでぼやいてもしかたないんやけど。
 困ったもんですわ。

9月10日(木)

 9月3日の日記で「ライトノベル」という言葉について書いた。そのあと野尻抱介さんの掲示板でもそのことについて触れた。
 で、そのことに関連してちょっと書き足りないなあと思うので、続きを書くことにする。
 どうも「軽い」ことはいかん「重い」方が偉いという価値観というのがあるんやろうとは思う。笑芸人が売れてくると性格俳優みたいになりたがるという例は枚挙にいとまがない。その方が偉いとうわけですな。「森繁シンドローム」とでもいうんやろか。最近やと、片岡鶴太郎みたいな人がいる。
 私なんか、森繁久彌の昔の喜劇なんか、けっこう好きなんですがね。ごっつう軽薄で、そこがいいね。屋根の上でバイオリンを弾いたりして若者に説教する森繁は嫌。共演の三木のり平とかフランキー堺とか、みんな軽薄でええよなあ。フランキー堺が死んだ時、メディアはみんな「私は貝になりたい」を代表作としてあげたけど「幕末太陽伝」のフランキー堺の方が、私は好きやね。
 俳優論をかましているのではなかった。とにかく、世間のいう「軽い」には「値打ちが低い」という意味が言外に込められてるのと違うか、と。それが言いたい。
 ほんでもって「ライトノベル」ですわ。
 この場合の「ライト」は正しいとか右とかいう意味では使われてないと思う。架空戦記の中には右という意味の「ライトノベル」もあるような気がするけど。明かりという意味の「ライト」ではないと思う。電球が主人公の小説、というのはまだ読んだことがないからね。開いたら明かりがともって暗闇でも読める小説、というのにもまだお目にかからんからね。まあとにかく、軽いという意味の「ライト」でしょう。
 そやったら、世間一般でいうところの「軽い」に込められている言外の意味が「ライトノベル」という言葉にも含まれているように、私には考えられるという、そういうことです。「ライトノベル」に対して「ヘビーノベル」という言葉があるというのなら、まだええんよ。それならなんか基準もできてくるやろうし。
 しかしですな、漠然と特定の文庫からでている本をさして中身とは関係なく一括して「ライトノベル」と呼んでいるというような傾向があるので、それは作家をあまりにもないがしろにしてるんやないかと、そう思うわけだ。
 仮に「『ライトノベル』は『十二国記』しか読んでないからさあ」なんちゅう奴がもしいたら、どたま張り倒したろかと思うね。なんでそう思うかは、わざわざ書かんでもわかっていただけると思う。
 ただし、これは私の考えであって、それを押しつけたりはしません。そやないで、という人がいて当たり前。「ライトノベル」という言葉を使いたい人は使うたらよろしい。ただ、ちょっとでも、「わしもそう思う」と思うてくれる人がいたら、それは嬉しい。

 明日は用事ができて帰りがちょっと遅くなるかもしれんので、次回更新は土曜の深夜になる予定です。  


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