ぼやき日記


11月1日(日)

 大阪市立大学のかつきよしひろさんのお誘いで、大市大の銀杏祭に行く。あのこれ「いちょうさい」「ぎんなんまつり」どう読んでええのかわからん。聞いたらええやんか。
 「SFについて語ろう」という企画なのでどんな話になるのかと楽しみにしてたが、先にアニメソングのイントロ当てクイズがあり、次の御用があったので中座することになってしまった。残念。
 しかし、私も年をとったねえ。イントロが流れて歌詞はでてくるのですよ。「聞こえるか聞こえるだろう遥かな轟〜」。ところが! 肝心の番組のタイトルがでてこない。答えは「伝説巨神イデオン」ですね。私の当たったのが「ジャングル黒ベエ」「超人バロム1」やからね。古いなあ。
 しかし、みんな若いのに私が子どもの頃にリアルタイムで見ていたアニメの主題歌をよく知っているね。いくら再放送でやったからというてもね。好きなんやねえ。
 さて、中座した後は大阪市の南端から電車を乗り継いで京都市役所まで行く。大阪縦断の旅ですな。
 市役所前には「京都まつり」のメインステージがしつらえてある。ここで妻と合流。
 目当ては「平成女鉾」のお囃子の演奏だ。私の妹たちは「女鉾」の創設以来のメンバーで、囃子方の笛を担当している。昼の巡行は見にいけなかったけど、ステージだけでもと聴きに行ったのです。
 出番前、舞台の袖で緊張してる様子。でも、舞台ではみごとに息の合った演奏を聴かせてくれた。わずか10分ほどの時間やったけど、ようやったと思う。昔からの鉾町の若い衆やと子どもの頃からみっちり仕込まれるのを、わずか2、3年でやったのだからたいしたもの。熱意というかやる気というか、そういうものがないとここまでできませんよ。そやから祇園祭にも参加させたってくれ。
 ともかく、なんか移動だけでえらい距離になった1日やったけど、なかなか楽しかった。なにしろ1日でアニソンのイントロ当てと祇園囃子の両方をたっぷり聴くというなかなかでけん体験ですよ、これは。

11月2日(月)

 妻と話していてでてきた話題なんやけどね。
 昨日、京都で帰りにアニメのCDやVTRを専門に扱う店に寄ったりなんかしたわけだ。で、懐かしのアニメソングや特撮もののCDなどがかなり発売さているわけやけど、オリジナル原盤にこだわった非常にマニアックなものが多いのね。
 これは推測の域をでないのであるけれども、そういった企画を出したりしているのはだいたい30代半ば、つまり我々の世代なのではないかと、そういう話になったんだ。
 これは冬樹蛉さんがよく書いてはることなんやけど、現在活躍中のSF関係者が1960年代前半に生まれている人が多いということと、いくぶん関係しているのと違うかな。
 我々の世代(私は1962年生、妻は……同世代)というのは高度成長時代に生を受け、70年万博、石油ショック、構造不況、バブル景気、そしてバブル崩壊と20世紀末に日本がたどってきた道をもろに受けてる。20代の頃は「新人類」やの「シラケ世代」やのと酷評もされてきたわな。
 そやけどね、あっちゃこっちゃと動く世相を見ながら育ってく中で、自分たちなりの価値観をちゃんと持ってるのに、それが団塊世代みたいに横並び競争時代の人たちにはわからんのやなかったかと、そんな気がするわけです。例えば「宇宙戦艦ヤマト」「ルパンIII世」「未来少年コナン」「機動戦士ガンダム」などなど本放送では視聴率がとれずに惨敗した作品を評価してムーヴメントにまでもっていった世代というのは我々ともう少し上の世代なわけです。どこが「シラケ」やねん。おっさんが商業ベースに乗せようとしてもそう簡単には乗らんと自分らの価値観でええもんを探していただけやないか。
 あんまり使いたくないけど、「オタク世代」とでもいうのかね。ただ流れてきたものを消費するだけやない、一定の価値観で消費すべきものを選んで、それを掘り下げてきた世代やないかと思うたりするんですわ。そして、それらを再び生産できる年齢にやっとなってきて、アニメにしても特撮にしても音楽にしても個性豊かで凝ったものを作るようになってきていると。
 これは厳密に統計をとったりしてるわけやないから、あんまりあてにしてもろたら困る。非常に感覚的なもので、こうであるなどという確信があるわけでもない。しかしやね、現状を見るとこういう解釈がでけるんと違うかなということだ。
 もちろん、20代前半の若い人たちにも非常に才能豊かなクリエイターがでてきているしね。団塊ジュニアというても人それぞれでひとくくりにはでけへんわけやけどね。

11月3日(火)

 夕食をとっている時に、妻がぼそりと「市役所のお給料って、いくらくらいなんやろ」とつぶやいた。「100万円って、1年くらいで返せるんかなあ」。
 目の前にあった新聞の見出しを見て言うてるということにやっと気がついた。
 和歌山市長が事務職員採用に関して口利き料として100万円もろうて逮捕されたという記事である。
「1年とかいうのと違うやろ。一生で換算してみ、安いもんやで」。
「そうやねえ」。
「定年までの身分は保証されるし、給料は安定してるし、産休やら育休はとれるし」。
「娘さんの一生やもんねえ。100万で保証されるんやったら、安いよねえ」。
 新聞の記事によると、和歌山市ではコネ採用を防ぐために制度を変えたそうだ。つまり、これまでやったらつてを頼って採用させることがでけたのに、それがでけへんもんやから市長に金をつかませてなんとかしようという、そういうことらしいね。
 和歌山市に限らず役場というのは地域の狭い社会の中にあるもんやから、昔やったら「××さんのとこの娘さん、頼むわ」「おお、ええよ」てなもんで採用が決まったというような、そういう時代もあったんやろうね。そやけど、今はそういうわけにはいかんからね。
 和歌山市なんかやったら大阪南部のベッドタウンみたいな感じで新しい入居者も増えてるやろうからね。毒入りカレー事件の舞台になった和歌山市園部町もそういうニュータウンのひとつやったというからね。昔みたいに「おお、ええよ」ではすまんようにはなってるやろうね。
 しかし、市長もせこいと思いませんか。100万円ですよ、100万円。家のローンよりも払いやすい金額やで。どうせやったら、「おお、ええよ」とただでやったるとか、「そんなにわしを頼りたいんやったら10億円もってこい」と無理難題をふっかけるとか。その100万円で逮捕されるわ新聞の一面には載るわ(たぶん)市長を辞職するわと、金額に見合わん損失やないですか。
 なんかスケールの小さいというかせこいというか、情けない。どうせ贈収賄するんやったら100億とか1000億とかいったらんかい。おお、政治家というのはごついもんやなあと思わしたらんかい。
 バブルがはじけて贈る側も受け取る側もみんなデフレということになったみたいやね。100万円で市長の座を滑り落ちるんやから、なんと申してよいのやら。
 ところで、気になるのはその合格した娘さんやね。本人はこのことを知ってたんやろうか。知ってても知らんかっても、その娘さんかて後ろ指をさされて生きてかんなんわけやからね。

11月4日(水)

 久しぶりに出勤したらしんどいのなんの。11月2日が学校の創立記念日やった上に土曜日に休みをとったんで都合4連休。
 リズムというのはあるよね。それがまただらだら過ごしたり酒をのみにいったりしたもんやからよけいにリズムが狂ってしまった。
 今、私は今月末にある「学習発表会」のプロデューサーみたいな仕事をしているもんで、出勤している間はあれこれと用事ができて授業のない時間もばたばたと落ち着かんのです。なんか、今年は仕事の当たり年で春先は修学旅行の係で毎日家に仕事を持ち帰っていたし秋は秋でどたばたじたばた。
 だいたいやね、私の頭は単細胞でひとつのことをやり出したら並行して他のことがでけへんのやね。いいように言うたら、集中して物事にあたれるというようなことなるのかもしれんが、実態は他のことが穴だらけになってしまう。他の仕事など眼中にないということか。
 授業をするとその時間にかなり消耗してしまうからね。
 というわけで、帰ったらへろへろ。
 同僚の先生に「喜多さん、疲れた顔してるね」と言われて、「憑かれた顔してる」のかと思うてしもた。うん、「学習発表会」に憑かれている状態ですよ。
 そやけどね、生徒の前でその憑かれた顔、ではない疲れた顔を見せるわけにはいかん。空元気でええからやね、陽気で明るい喜多先生を演じないといけない。「先生、大丈夫?」なんて生徒に言われるようではあかへんからね。そやから生徒が帰るともう消耗し切ってるね。そこから「学習発表会」の仕事を始めるわけやから、そら「憑かれた顔」にもなりますわ。
 「学習発表会」が終わったら「S−Fマガジン」の締切に「京都SFフェスティバル」が待っている。あわわわわ。俺、体もつやろか。

11月5日(木)

 タイガースに野村克也監督が就任してから、大阪のスポーツ新聞の一面を毎日独占してる。まあこれは予想されたことです。リップサービスがうまいからね。見出しになるようなことを上手に言わはるんです。
 今週の「週刊ベースボール」の表紙も野村監督や。何かというとジャイアンツの選手や長嶋監督の写真を使いたがる「週ベ」でさえ無視でけへんのやね。「ワシに任しとけ」という見出しまでそえてるんやから。
 夕方、本屋に寄ったら、どの本屋でも「週ベ」には立ち読みのしわが残ってるやないか。しかも、印刷が悪いのか指紋の形に色落ちしてきたないきたない。売り切れてる店もある。今年は「週ベ」は買う気もしなかったようなタイガースのファンが一斉に手にとったということかも知らんけど、毎週買うてる私としては非常に困る。
 私は一応バックナンバーも捨てずに置いてあるのだ。自分の指紋がついてンねんやったらともかく、最初から汚れてるのは買いたくない。
 あまり期待せんと駅売店を見ると、一番目立つところにたくさん立ててあるやないですか。売れることを見越して多めに仕入れているに違いない。駅売店の雑誌を立ち読みするような人はさすがにおらないので、しわも指紋もついてない。というわけで、なんとか美本を手にいれた。よかったよかった。
 しかし、そのわりに中身はベストナイン表彰とかの記事が多くて野村監督のことはあんまりたくさん書いてないぞ。期待して買うた人は残念でしたね。だいたいこの雑誌はタイガースには冷たいんやから、私はこんなもんやと割り切って読めたけど。次週予告では「タイガース大特集」をするということで、来週も駅売店かな。そうかコンビニで朝いちで買うか、やね。
 とにかく現時点ではタイガースが野村監督を迎えたのは正解やったね。一般の週刊誌も毎週タイガースの記事を載せてるからね。さて、問題は選手がどれだけ野村野球に着いていってくれるかですな。頼りにしてまっせ。

11月6日(金)

 妻の誕生日。何か面白いものをプレゼントしましょうと、仕事の帰りに江坂の「東急ハンズ」に寄る。
 ありましたねえ。
 タカラの「リカちゃん・キーホルダー」というのを見つけましたよ。これがまあなんと「1973シースルー」と書いてある、「リカちゃん」の復刻版フィギアなのです。人形の復刻版にフィギアというのは変か。つまりやね、1973年当時の「リカちゃん」をそのまま縮めてキーホルダーにしてあるんだ。髪の毛はさすがにプラスチックやけど、服は布製で着脱できるようにしてある。芸が細かいね。「パンツはいてへんぞー」と言いながら、さっそく妻は脱がせてみる。
 お尻と足の継ぎ目には筋が入ってる。これは「リカちゃん」のもともとの人形の足が動くつなぎ目をちゃんと入れてあるんやね。
「リカちゃんはな、ちゃんと胸がふくらんでたんや」
 妻はなかなか手厳しい。ところが、見よ! リカちゃんの胸はしっかりとかわいくふくらんでるやないですか。顔もちゃんと「リカちゃん」の顔をしてるしね。
「これ、シリーズかなあ。はまったらこわいよお」。
 妻はもちろんリカちゃん世代だ。リカちゃんの顔の造形などは熟知してる。その妻をして唸らせたんやから、さすがはタカラやね。もちろん当時のものをそのまま復刻するというテもあるやろう。そやけど、それやったら「リカちゃん」のコレクターには受けても一般的とはいえへんわな。それをタカラは人形のまだミニチュアという形でキーホルダーにした。これやったらアクセサリーとしてもおしゃれやからね。若い世代でも我々の世代でも買おうという気になる。
 しかし、こういうものをプレゼントにと買う亭主も亭主なら、喜ぶ妻も妻やね。オタク夫婦というのはこれやから、なんとも。

11月7日(土)

 宮部みゆきの「クロスファイア」(光文社)が面白いという話なのでさっそく買うたのはええけどね、「作者の言葉」を読むとこない書いてあるやないですか。
『カッパ・ノベルスの「鳩笛草」に収録されている「燔祭」という中編を先に読んでいただいた方が−立ち読みでもけっこうですから−本書をより深く楽しんでいただけると思います』(引用終わり)。
 作者がこう書いているのに読者が無視するというのでは礼儀に反する。実際、麻弥さんがホームページに早くも感想を書いてはるけど、やっぱり「燔祭」を先に読んどいた方がいいというような書き方やし、三村美衣さんと電話で話してた時にも「読んどかないと違和感が出てくるところがあるよ」というようなことを言うていた。
 ならば、読まずばなるまい。読もうぞよ。
 で、まずは最寄り駅近辺の書店を探す。これは最初からあきらめている。案の定、あらへん。勤務先の近く、江坂近辺の書店やったらあるやろう。ビジネスマンも多いし、ちょっと大き目の本屋があるのだ。探したけど、「鳩笛草」は見つからず。ならば、大型書店ならいかに。今日は所用で京都にいく機会があったので、四条河原町周辺のでかい本屋をはしごする。全滅。
 そのかわりに架空戦記の新刊を買うてしもた。それはそれで意味がないわけやないけど、それやったらはしごせんでもええよね。「藤本ひとみ・サイン会」に遭遇して藤本さんの実物を観察したりしたけど、そんなことをしに行ったのではないぞ。
 あとは梅田か難波か。一冊の本のためにそこまで交通費を出すというのはもったいない。インターネット注文という手もある。最後はそこらへんに落ち着くんやろうね。そやけど、一冊の本のために送料を払うというのもなあ。宅急便の送料は高いやんか。
 妻が「図書館で探したら」とアドバイスしてくれる。これはええかもしれんね。ただ、先に読んでる人がいて順番を待たんなんということも考えられる。
 ええい、光文社に文句をいいたい。新刊で作者が他の本も読めと書いてるんやったら、その本も増刷しとかんかい。それだけ売れるチャンスを作者がくれてるんやんか。どこの本屋でも「クロスファイア」は平積みで置いてあるよ。そしたらその半分でも横に置いといたらええんやんか。おかげで家に帰る時間が遅なったやないか。
 三村ねーさんによると、「クロスファイア」は今年のSFベスト1になってもおかしないらしい。それやったらなおのこと読みたいやんけえ。
 というわけで、私は当分「クロスファイア」を読めそうにありません。しくしく。

11月8日(日)

 スペースシャトルも無事帰ってきて、グレン先生も息災なようで、めでたいことです。
 向井千秋さんという方は宇宙に出ると突拍子もないことを口走る素頓狂な方とお見受けした。前回は「天女になったような気分」(で、合うてたっけ?)という名言を披露してくれたけれど、今回は短歌の上の句と称して「宙がえり 何度もできる 無重力」という恐ろしいばかりの言語センスを披露してくれはった。しかも下の句を募集して優秀なものには賞を与えるというからね。驚きましたよ。さすがは天女さま。
 しかし、この文句、短歌というよりは都々逸にした方がええんと違うやろかと、私は思うね。なんというか、飄々としたなかに諧謔の精神があるから都々逸に合うてるやないですか。都々逸やと「七・七・七・五」の並びになるんかな。芸妓さんの三味線にのせたらなんか粋な感じになるやん。
 「宙返りなら 無重力だよ」というような文句の後に続けるというのはどうかな。

〜宙返りなら 無重力だよ あなたの舌より よく回る〜チントンシャン。

 あんまりたいしたできやないけど、こんなもんでも節をつけたらけっこうええ感じになるかもしれんよ。
 しかし、なんで短歌かね。もしかしたら俳句のつもりで作ったけどあまりにあまりなんで他の人に下の句を作ってもらって格好をつけようとしたとか。こういうのを邪推というんやね。ただ下の句をつけるだけやったら面白ないなあ。なんやったら連歌にしたらどうかな。NASDAのページにチャットルームをつけてそこで次々に句を続けていくというのはいかがですか。なに、難しく考えることはないよ。発句が発句やから、どんな句をつけても大丈夫。
 ああ、これ以上書くと後は悪口にしかならへんぞ。しかしまあ、なんというか、宇宙空間に出ると興奮するのかもしれへんね。ただならぬ場所にいってるんやからね。芸人さんをシャトルに乗せて行ったりしたらなにするやわからんから、やめておいた方がええかもしれへんよ。

11月9日(月)

 早川書房から「SF年間ベスト」の投票用紙が送られてきた。
 今年はやらへんのかいなと思っていたが、どうやら杞憂やったみたい。しかし、封筒が例年にくらべると薄いよ。なんやなんや、このリストは。例年なら「こんなもんまでいれんでもええのに」というような本までリストに入れてるものごっつくわしいリストであるのにやね、今年は「S−Fマガジン」の書評でとりあげられた本を中心にした至極あっさりしたもの。
 おいおいこれだけを参考にせえというの。
 まあええわ。私は私でこの1年に読んだ本のリストがあるから、そこから選んだらええだけやしね。
 しかし、その前に「クロスファイア」だけは読んどかんと。11月7日の日記に書いたように、「鳩笛草」を読んでからでないと読まれへんと思ってたら、あったんですよ。仕事の帰りに「京阪百貨店」の書籍コーナーに寄ったんだ。ここは門真守口間では一番品揃えのよい本屋なので、ダメモトでいったら、なんと「クロスファイア」の横に平積みにしてあるやないか。
 私は目を疑うたね。あれだけ足を棒にして探し回った1冊の本が、どかどかと惜しげもなく積まれて置いてあるやなんて。思わず手にとって奥付を確かめましたよ。
 『11月5日 12刷発行』……。
 増刷した方がよいと気づいたのが遅かったんやね。「クロスファイア」の発行日は10月30日になってるけど、もう少し早く書店に並んでたからね。ということは、土曜日に私が歩き回った本屋全てが「鳩笛草」を平積みにしているという可能性は高いね。そう思うと、なんや腹がたってきたぞ。ええい、光文社、貴重な土曜の午後の時間を返せ!
 しかし慌ててインターネット注文しなくてよかった。送料を無駄に払うところやった。というわけで、やっと私は読みたかった本を読むことができそうなのでありました。

11月10日(火)

 ここのところ、私の頭の中で鳴り続けている曲がある。
 「サウンド・オブ・ミュージック」だ。
 実は学習発表会で、私の受け持っている学年がやる出し物なんですね。
 歌というのはなんて楽しいものなんだろう、と思うね。生徒といっしょに練習をしながら、「ド・レ・ミの歌」を歌ったりしていると、ほんまにそう思う。廊下を歩きながら、ついつい口ずさんだりしている。心躍るメロディというんかな。
 生徒に負けずに声を出していると、確かに疲れるんやけど、なにかしら爽快感がある。
 音楽の持つ力というものを感じるね。
 逆にいうと、その力というのはとても怖い。声をそろえて歌っていると一体感を作り出したりするわけやけど、何かしら意図があってその方向に大勢の人を向けていく道具として使われたする怖さ、というんかな。
 この世で一番すばらしい歌は、鼻唄やないかなと思ったりする。歌わずにはおられない気持ちが自然に出てくるというような性質のものやからね。
 一番嫌な歌は儀式で歌う歌。歌う喜びとは一番縁遠いところにある。
 練習をしながら、むりやり歌わせるのと違って自然に歌声が出てくるような、そんな雰囲気づくりができたらええなあと思ったりする今日此頃であります。


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