ぼやき日記


3月21日(日)

 東映動画「どうぶつ宝島」のビデオを買う。これで「長靴をはいた猫」「太陽の王子ホルスの大冒険」とあわせてずっと欲しかったビデオがそろうたぞ。東映はえらい! あと、「白蛇伝」「西遊記」「わんぱく王子の大蛇退治」あたりを出してくれへんかなあ。アンケートはがきに書かねばなるまい。

 今日は「たちよみの会」かつきよしひろさんからDASACON賞の裏話などをきく。ううむ、投票の推移とか、けっこうドラマがあったらしい。ノミネートするサイトの絞り込みとかも一定の基準を作ったけどスタッフからの推薦なんかでだんだんふくれあがって苦労したとか。なんにせよ、ようがんばらはったと思う。次は参加したいもんです。
 夕食にオムライスを食べたあと、子供のころの遊びの話で盛り上がる。妻がやってたのが「ポップコーン」という遊び。なんのこっちゃいなときくと、牛乳びんのふたを使った遊びやそうだ。あの紙製の丸いのね。これを2つ並べてその手前で手をたたく。すると風圧でひっくり返る。ひっくり返ったらそのふたは全部自分のものになる。ひっくり返らへんかったら相手にとられるという。
 それをきいたかつきさんは、自分たちは爪の先でひっくり返してたという。ひっくり返した2枚のふたの両方を指で押さえられたら2枚ともとれるんやそうです。しかも給食の牛乳びんのふたやと値打ちが低うて珍しいふたやと値打ちが高い。それを聞いた妻もそうそうとあいづちを打つ。マミイのふたとかがポイントが高かったとか。そうやってみんな必死で牛乳びんのふたを集めたりするところなんぞ、世代は違っても子どもの遊びはそれほど極端な違いはないもんらしい。
 私はそういうのはしてへんかったなあ。「どんま」とか「げたかくし」とか「泥棒と巡査」とかそういうのをやってた。もっとも私は小さくて運動が苦手やったから体を使う遊びというのは全然あかんかったなあ。
 しかしなんの話で盛り上がるやら。

3月22日(月)

 寒いですねえ。北の国のみなさん、大変ですね。雪害の方はどうなんでしょうか。テレビを見てたら吹雪いてるやないですか。お見舞い申し上げます。
 こっちも日中いくらファンヒーターをつけててもなかなかぬくもらんのでとうとう布団にくるまって寝てしまいました。ぼちぼち原稿の締め切りやというのにそんなことしててええんか。

 ラジオ「おはようパーソナリティー道上洋三です」のテレホンカードを送ってきた。先日、お相撲の場内アナウンスのアナウンサーは力士の情報をよう知っとるというようなことをラジオで言うていたので、「あれはアナウンサーと違うて行司さんがやったはるんです」と電話したんだ。で、電話のあとすぐに出勤したんで、番組の中で紹介してもろてたかどうか全然知らんかった。こうやってテレホンカードを送ってくれはったということは、どこかで紹介していただいたんやね。まえにテレホンカードをもろうた時とはアシスタントの人が違うんでデザインも違う。別に私はコレクターと違うけどなんか新しいヴァージョンのをもらうと嬉しいね。
 前はちょくちょく電話して「六甲颪ボールペン」とかもろうてたんやけど、最近は朝からばたばたしててラジオ番組に電話なんちゅう余裕もなかったからね。ちょっと余裕が出てきたかな。

 稲葉明雄さんの訃報に接する。私が最初に触れたSFのいくつかはこの方の訳業でありました。図書館で借りた「世界SF全集」。その中に入ってた「アルジャーノンに花束を」(短編の方)は稲葉さんの訳で、主人公の口調が荒っぽい感じがしてたのに、小尾芙佐さんの訳した「アルジャーノンに花束を」(長編の方、今書店でロングセラーになってるのはこちら)は主人公が木訥な感じを与えるようになってて、翻訳によって印象というのはほんまに変わるんやなあということを教わった。稲葉さんはやっぱりハードボイルド畑の翻訳家やったんですね。謹んで哀悼の意を表します。こうして時代は変わっていくのであるなあと痛感した次第。

3月23日(火)

 今日駅前ですれ違うた高校生の女の子が「だんご、だんご、だんご」と口ずさんでたけど、節はどう聞いても「黒猫のタンゴ」。なんでや。

 3月21日の日記で妻が子どものころにしてた遊びは「ポップコーン」やのうて「ポッコン」でした。手をたたくときに「ポッコン」という音がするから。そらそやな。なんで私は「ポップコーン」やと思うたんやろ。
 子どもの遊びについてる名前というのはまあ直接的なもんが多いけど、「ぼんさんが屁をこいた」というのは身も蓋もない名前やなあ。そんな遊びはご存じないですか。鬼が柱のところに立って目をかくし十数える。その間に他の人は鬼のいる柱にタッチしに行く。鬼は数え終わったらタッチしにきた者を見る。その時に動いてるところを見られたら、その人はアウト。鬼が数を数え終わるころにうまく静止できんとあかん。鬼は悠長に「いち、にい、さん……」なんて勘定してたらすぐに柱にタッチされてしまうから十文字の言葉をいうんですな。それが「ぼんさんが屁をこいた」という言葉だ。
 それは「だるまさんがころんだ」という方は関西の方やおまへんな。なんでかしらんけど関西では坊主が屁をこくのだ。私の郷里ではおまけがついてた。「ぼんさんが屁をこいたにおいだら臭かった」。なんと品がない。子どもの遊びに品もくそもあるかいな。
 あなたの土地ではなんというてました?
 やっぱり「だるまさんがころんだ」が多いんやろねえ。

3月24日(水)

 今日は終業式。生徒は春休みに入っても、教師はそうもいかんところがつらい。明日は新入学生保護者説明会。その他、会計の締めをしたりなど年度末らしい忙しさだ。
 年度末といえば、講師の先生には厳しい季節。私が今年1年間コンビを組んで担任を持った講師の先生が、今日、来年度は契約しないという通告を受けた。私も講師の時期が長かったから、やっと1年たって慣れてきた学校から去らなければならないつらさはわかる。
 採用試験に合格するまで、毎年この時期は不安のかたまりやったね。なにしろ1週間後、自分がどこで仕事をしてるかわからんのだもの。ある年は4月に入ってもお呼びがかからんので学習塾の面接を受けるアポまでとってた。結局4月8日に電話がかかってきて、その時は定時制で仕事をすることになったわけやけどね。私立高校の講師の面接を受けて結果待ちというときに、公立中学の産休講師の口がかかったことがある。このときは私立の返事が来るまで待ってもらえた。結局3月31日になっても返事がなかったんで電話で問いただした。採用しないという返事やったけど、文書で通知をしたのに届いてないかといわれた。すぐに公立の産休講師の話を受けたが、数日後に私立の講師の不採用の通知がきた。消印を見たら3月31日付やった。あのときはさすがになめとんのかと怒った。どうせ電話のあとで出したに決まっとる。忘れへんぞ大阪桐蔭高校。
 今はこの時期には異動があるかどうかということが気にはなるけど、とりあえず失職の不安はなくなった。それでも学校が使い捨ての駒のように講師の先生を扱うてるのを見ると、自分が講師やったときのことを思い出す。教師の数があまって新規採用を控えてるから、定数の足りないところは講師で埋めてその場をしのぐというやり方をしてるんや。せめて人間扱いせぇよ、と思う。

3月25日(木)

 今朝新聞を見てショックを受けた。
 なんと桂枝雀師匠が今月の13日に首吊り自殺を図りいまだに意識がもどらんという。えらいこっちゃ。いったいなんでや。そういわれれば、ここのところ枝雀師匠の独演会の広告とかは見たことがなかった。体調が優れず、かなりまいってたと新聞記事にはある。
 自殺を図ってから10日以上も意識がないということは、たとえ意識が戻ったとしてもそこからのリハビリが長くかかるやろう。もしかしたら、二度と高座姿が見られへんのでは……という心配がある。
 枝雀師匠がいかにすばらしい噺家であるかは私なんぞが書くまでもないこと。ただ単に笑いをとれるというだけやない、ショート・ラクゴ、フリー落語、英語落語と常に新しい分野を開拓したチャレンジャーであり、「緊張と緩和」に代表される「笑い」をとことん解明しようとする求道者であり……。一言では言い尽くせないものがある。
 私は一昨年の米朝一門会で「三十石」を枝雀、米朝のリレーで演じたのを最後に枝雀師匠の高座には触れていなかった。あのときは「三十石」の前半のうちの一部分をふくらませてとことん笑わせるといういかにも枝雀師匠らしい高座やった。そうや。あれ以来枝雀師匠の落語は聞いてなかったんや。
 師匠は小米と名乗っていたときに鬱病になって、本人は「死ぬのが怖い病」と呼んでいたけれど、枝雀を襲名してからは吹っ切ったように明るい高座になり、「爆笑王」の名をほしいままにしていた。そやけど、ほんまはずっと「死」というものをどこかで意識しながらここまできたんと違うやろうか。
 今、落語界が、否、演芸界が桂枝雀という噺家を失うことは大いなる損失だ。そやから、枝雀師匠にはなんとしても意識を回復し、高座にあがれるようになってほしい。そして、「長い間ご心配をかけまして、すびばせんねえ」という言葉を聞きたい。

3月26日(金)

 今日やっと学年会計をしめることができた。これで本年度の業務はおしまい。やっと春休みや。と思うたら、もうじき「S−Fマガジン」の原稿締切と違うか。そうそう休んではおれんということか。
 昨日のことやけど、新入生保護者説明会というのがあって、保護者に担当者が学校の説明をしてる間に、我々は新入生とレクリエーションをするという、まあそんなこんなで朝ばたばたしてた。
 もうじき受付が始まるというときに「喜多先生、電話です」。こんな時間に誰かいなとでると、聞いたことのない会社の名を言うて「××高校ご出身の方に特別によいお知らせがあるんです」。セールスだ。誰じゃ同窓会の名簿を流しとるんは。なんかマニュアル通りのおしゃべりやぞ。新入社員の研修かいな。証券がどうした投資がこうしたとべらべらしゃべっておる。
 「今忙しいんです。切りますよ」と言うと、「また後ほどかけ直させていただきます」ときた。「話はようわかりましたから、かけ直してもらわんでもけっこうです」と言うて切ろうとすると、「途中までしか聞かないでわかるんですか」と食い下がる。こっちも朝の忙しいときにかけてきおってとだんだん腹が立ってきたから「
わかります。切りますよ」とだんだん声がでかくなってくる。とにかく全部聞いてもらわないとわからないでしょうと相手も粘る。
 「
わ・か・り・ま・す。その話は私には全く関係ないということがよーくわかりました。そしたら切るよ」。最後は怒鳴るような声になってた。特に太字で書いたところ。
 電話を切って顔を上げると、職員室にいる人たちがみんな私に注目してるやんか。うわあ恥ずかし。なんかめちゃめちゃでかい声でしゃべってたみたい。
 「その電話、昨日僕にもかかってきたで」とある先生。向こうも商売やから必死なんはわかるけど、2年間定期昇給凍結の地方公務員に投資を勧めるなよ。勧めるんやったら管理職にどうぞ。
 新入生が帰って一息ついてたら今度は職員室に生命保険の外交員のおばさんがやってきて「先生、年金型の保険に切り替えませんか」。
 たのむからそっとしといてくれえ。

3月27日(土)

 ああよう寝たよう寝た。ここんとこの疲れをふりはらうように寝た。
 選挙の公示がすんだんで、選挙カーが走るようになってきた。今はまだ知事選だけやからええけど、これに府会議員の選挙が加わると、かなりやかましなるんやろねえ。
 今日は横山ノック知事の選挙カーが近くを通ってた。どっかで聞いた声やと思うたら、ノック知事本人の乗ってる車やったみたい。なんや、ノックさん自転車で走ってるんと違うたんかいな。まあ大阪中自転車で走ってたら体がもたんやろうけど。
 ところで、新聞やTV、あるいは対立候補の鰺坂真元関西大学教授のビラにはたいてい「横山知事」と書いてある。あれ、私、めちゃめちゃ違和感あるんですわ。
 ノック知事の「横山」いうのは芸人としての屋号、ですわな。横山エンタツを始祖とする横山一門の「しるし」ですな。苗字とは違う。噺家に「桂」「笑福亭」「林家」「三遊亭」「柳家」というのがあるけど、それといっしょだ。漫才の場合やと、「島田」「中田」「若井」「上方」「西川」「浮世亭」というのがある。講談やったら「旭堂」とか「神田」というようなところ。
 米朝師匠に「桂さん」と呼びかける人はおらんと思う。鶴瓶師匠に「笑福亭さん」と呼んでる人、いませんな。以前、TVで行司の式守伊之助をゲストに呼んで「式守さん」と呼んでるアナウンサーがいたけど、行司なんて「木村」と「式守」しかおらんのやから、「伊之助親方」と呼ばなあかんのと違うかと思うたことがある。
 それといっしょやないかと思う。「横山」の屋号がノック知事一人しか残ってないんやったらともかく、横山たかし・ひろしもいるんやから。
 もし仮に米朝師匠が日本の総理大臣にでもなった場合、マスコミはやっぱり「桂首相」と呼ぶんやろか。志ん朝師匠やったら「古今亭首相」ですぞ。なんか違和感ありませんか。たまたま「横山」という屋号は普通の苗字にあるから「横山知事」というても一見変な感じがせんだけ。どうも私には違和感があるなあ。

3月28日(日)

 妻の甥っ子が彼女の実家にやってきたんで遊びに行く。やってきた、というのは、彼は川崎市に住んでて滅多に大阪には来ないから。4才ですから、自分一人ではよう来んしね。お父さん−妻の兄−は大阪生まれやけど、東京で仕事をしてる。お母さん−妻の義姉−はチャキチャキの江戸っ子。したがって甥っ子はたどたどしいけど言葉は江戸っ子。
 対するに私は京都生まれの京都育ち。「この前会うた時はややこやったんに、大きいなったねえ」では向こうはわからんわな。で、意識して関東弁を使うけど、あきまへんな。なにやらけつまずいたような関東弁で、難しいねえ。それでもいっしょになって遊んでたら楽しい。追っかけっことかして、ほんまに叔父さんしてました。疲れたけど、こういう疲れは気にならん。
 帰りの電車をホームで待ってるときに、浜村淳の声が放送で流れてる。「ひったくりに気をつけましょう。ひったクリーン作戦にご協力を」とやかましい。バスに乗ったら乗ったで行き先案内の間に「ひったクリーン作戦にご協力を」。もしかしたら毎日バスや電車で通勤してる人たちは1日何度も必ずこれを聞かされてるんですか。お気の毒に。大阪でひったくりの被害が相当な数になってて警察も自転車の前かごにつけるふたを配布したりとあれこれ対策を練っている。そういうのは実効があるかもしれへんけど、浜村淳のアナウンスはうるさいだけでなんの効き目もないと思うぞ。「私だけは大丈夫。そんなことはありません」。書いたものを読めばさらりと読み流せるけど、これをあの大仰でねちっこいしゃべりでやっておるのだ。そんなん浜村淳に言うてもらわんでも、ちゃんと自衛してますがな。
 しかし、これ、浜村淳やからよけいお節介に聞こえるんかもしれへんね。他の人……アナウンサーの声やったらそうも押しつけがましく聞こえへんかもしれん。人選を誤ってまっせ。
 なんにしてもこれは騒音以外のなにものでもないぞ。なんとかしてくれよ。

3月29日(月)

 選挙のたびに思うんやけど、「事実上の一騎討ち」とかいうて、新聞やテレビが有力候補のことばっかし報道するのは、あれ不公平やと思いませんか。
 大阪府知事選挙でいうたらノック候補と鰺坂候補のことはやたらくわしいに書いてあるのにそれ以外の人については最初から泡沫候補と決めてかかってるみたいでほとんど報道されてへんもんね。有力候補のほかにもいろんな人が立候補してるねんで。たとえば、元イトマン社長の川村良彦候補とか。あのバブルの時に会社をさんざん食い物にされてゴミみたいにほかされてしもた社長ですわ。なんでこの人が大阪府の知事に立候補したんか、どういう経緯があったんか、めちゃめちゃ興味がある。バックに何がついてるんかとか。他にも、元刑務所看守でボディービルダーで働く女性を守るNPO運動家の藤木美奈子という人も立候補してる。この人はふだんどういう運動をしてるんか、ほとんどわからん。
 これ、差別やで。もう世論誘導としかいいようがないね。政党の推薦がない知名度も低い者はどんなに志が高うてもマスコミには相手にしてもらわれへんのやで。最初から「こいつらは大したことないから入れんでもええよ」といわんばかりやないの。そら、ノック候補や鰺坂候補の相手にはならんかもしれんよ。そやからいうて報道せんでもええということにはならんと思うんやけどなあ。
 まあ大新聞なんかのマスコミの傲慢さというのは別に私が指摘するまでもないことやけど。たとえ泡沫でも候補は候補。もしかしたら公平に新聞が報道することによってええとこまで食い込むかもしれへんやんか。そんなんやってみんとわからん。
 大阪府知事選は東京都知事選みたいに有力候補がたくさん出てないからつまらんというけど、報道のしかたによってはおもろなってるかもわからんよ。つまらん選挙にしてるのはマスコミのほうと違うかなあ。

3月30日(火)

 私たち夫婦は使わないんでよくわからんのだけれど、「地域振興券」という金券を扱う店には何かメリットがあるんかなあ。と、いうのも、毎日駅前の本屋に寄ると「地域振興券使えます」という張り紙がしてある。それだけやない。一皿100円の回転寿司屋にもその近くの小さな商店街にも「地域振興券はぜひ当店で」などという幟が立ってる。そこまで宣伝費を使うて地域振興券で買い物してほしいというには何か理由があるに違いない。
 これが大型店舗やと地域振興券で買い物をするついでに大きなものを買うてもらえるというようなメリットもあるんやろうけど、一皿100円の回転寿司屋やったらついでに一皿か二皿増えたところでそれほど大きいもうけになるんかしらんと思う。自前の幟までわざわざ作ってそれよりもうけが少ないということはあるまいと思うんやね。
 たとえば、金券1枚につきマージンがいくらか入るとか。
 びっくりしたのは家の近所のスーパー。チラシに書いてあったんやけど、地域振興券を5000円分持ってったらそのスーパーだけで使える商品券5500円分と交換するという。そんなんしてええんかいな。たしか地域振興券は金券ショップでは換金でけんということやったと思うんやけど、こういうのはありなんやろか。そこまでして地域振興券を集めるには何か理由があるに違いない。
 いったいどういうからくりになってるんか、知りたいもんである。

3月31日(水)

 わああ、もう3月もおしまいやないか。明日から出勤やないか。春休み終わってもたがな。えらいこっちゃ。私はこの3日間なにをしておったのやら。
 そうやそうや、本を読んでばっかしやったんや。「チョンクオ風雲録」というのは1冊読むのにやたら時間がかかる本でまるまる1日使うてやっとこさ1冊読めるというような具合。
 これではいかん、せめて花見の一つもせねばと思い、妻が自転車で通ってきたという門真唯一の桜の名所に原チャリをとばして見に行く。
 これは「砂子桜」というて用水路の土手にずうっと桜の木が植わってるところ。桜の植え方だけ見たら京都の「哲学の道」みたいやけど、いかんせん用水路の水が汚い。どぶ川と桜の花の対比を楽しむという見方もあるやろうけど、なんとも風情がない。おまけに、用水路にはまらんようにと金網のネットがはってあるんやけど、そこにサラ金のけばい看板がところせましとくくりつけてある。看板のけばさと桜の花のすがすがしさの対比を楽しむという見方もあるやろうけど、なんとも無粋である。
 うちの学校は新築2年目でまだ桜が爛漫と咲きかえるところまで根付いてない。移転前のところは桜がいっぱいあって、運動場にござをしいてバーベキューしたりしたもんなんやけど。
 ああそうや、店じまいの前にホテルプラザでいっぺんご飯を食べよかと妻と話してたんに、それもすっかり忘れてた。
 おおそうや、「S−Fマガジン」の原稿締切もきてたんやった。全然手をつけてないぞ。ほんまにもう、なにをやっておるやら。
 ええそうや、ひたすら「チョンクオ風雲録」を読んでたんやった。忘れっぽくていかんね。


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