ぼやき日記


4月21日(水)

 毎晩遅くまで掲示板をあちこちのぞいて笑ったり怒ったりあきれたりしてたら、コンピュータの電源を落としたあと、なんかもう変な疲れ方をしてしまってなかなかさあ寝ましょうというような気分にならん。いささか興奮してしまっておるのかもしれん。
 そのたんびに妻に「そやから寝る前にインターネットしたらアカンて言うてるでしょ」と言われてしまう。それはまあ重々承知なんですけどね。今日も「寝る前にはインターネットせんときや」と釘をさされてしもうた。
 しかし、ネットバトルというのは自分も経験したけど、疲れるものなんですね。なんかしらんけど「ごめんなさい」と一言いうたらそれでしまいやんかと思うようなことが目立つね。そういう場合は、自分に非があるとは思うてないのか、自分に非があることが理解できないのか、自分に非があることを認めたくないのか、いったいなんなんやろうね。「ごめんなさい」言う代わりに揚げ足取りみたいな攻撃の仕方をする人というのがいるね。あれはやっぱり防御のための攻撃なんかね。負けるということが怖いのかもね。
 そういう人にはぜひタイガースファンになってみたらと勧めたいね。勝負というのは勝ちたくてもそうそう勝てるものやないということを学ぶからね。負けても負けても何年かに1回はええ時があったりするんや。常に負けてると勝つということの嬉しさやありがたみが何倍にもなって感じられるからね。また、負けた時にも「ここのこの部分はよかった」と負けを認めた上で肯定的にとらえるということを覚えるしね。負けを認めたら自分のことを全否定しなければならんというような強迫観念を持つことはない。
 今日の試合みたいに楽勝パターンでもひっくり返されてそれでももっぺんひっくり返して勝ったりすると「おお、勝つということはそう簡単にはいかんものであるなあ」ということがわかるからね。せっかくええ選手を育ててもわけのわからんトレードであっさり他のチームに放り出すというような失敗を何回も繰り返すのを見てると「人間というものは同じような失敗をしでかすものであるのだ」ということを教えられるしね。
 タイガースファンになることにより、より豊かな人間になることができるのである。あれれ、なんでこんな結論になってしもたんや。まあ、ええか。いつものことだ。

4月22日(木)

 去年の今頃は修学旅行の係なんかでむやみと忙しくてしんどかったけど、今年は今のところ大きな係は引き受けてないんでそうしんどくないやろうとたかをくくってた。ところが、なんか毎日きつかったりするんである。なんでやろうなあと考えた。ふと気がついたのが、去年は3年生の担任で今年は新1年生の担任やということ。去年受け持っていた学年は入学したときからずっと担任をしてきた学年やから、生徒の状態なんかはほぼわかってたし、人間関係もできてた。こっちがこう言うたらどんな反応を示すかとか、そういうことはだいたい予想できたしね。ところが、1年生の4月というのはそんなわけにはいかんのやね。こっちもどういう姿勢で接していけばいいのか手探りやし、生徒たちも緊張してたりこちらの出方をあれこれやりながら探ってるところがあったりする。
 そういう緊張というのは気持ちがあらたまっていいところもあるんやけど、気疲れすることは確か。ゴールデン・ウィークがあけたぐらいにはだいたいお互いのペースがつかめるんやけど、そこをうまく乗りきらんと1年間しんどかったりする。まあ毎日が勝負というところかな。毎日勝負してて気を抜くところが少ないからしんどいんやね。
 そういえば試験に受かって正式に採用されるまでは毎年違う学校で講師をしてたから、4月はいつもきつかった。職員間の人間関係も生徒との人間関係も常に1から作っていかなあかんかったからね。急に虫歯がいたんだ年もあったし、昔骨折した右足首が痛くなりはじめて歩くのがきつかった年もあった。ストレスが弱いところにきたんやね。
 早いとこペースをつかめたらええんやけど、相手もいることやからそう自分の都合いいようには進まんね。時間がかかるのは、まあしゃあないね。

4月23日(金)

 今日も仕事が終わったわいやれやれと帰宅。団地の単車置き場にわが愛車原チャリジョルノ号をおいてぽこぽこと歩いていたら、中庭の砂場で遊んでいた女の子が近寄ってきた。年の頃なら3つか4つ。赤いカーディガンにおかっぱ頭の子であります。その子は私の顔を見上げてにっこり笑うてごあいさつした。
「こんにちは」。
 礼儀正しい子やねえ。
 私は子どもが好きである。パブラウンジで巨乳のお姉ちゃんのお尻を触りながら酒を飲むのと公園で幼稚園前の子どもと砂遊びをするのとどっちを取るかと聞かれたら、間髪入れずに砂遊びと答えるやろう。理屈もなにもない。その方が楽しいんやから仕方ない。なにロリコン。それでは私が女の子しかかわいがらんみたいやないか。男の子でもええの。なにショタコン。そのような連想をする卑しい心の持ち主には関わりたないね。
「こんにちは」。
 礼儀正しい子にはちゃんと返事しなければいけない。これは大人の義務やと思う。
「なっちゃんのおとうさん?」。
 その女の子は私にそう尋ねる。「違うよ」と答えたら、「しんちゃんのおとうさん?」と重ねてきく。ううむ困った。「違うよ」という答えを続けたら、彼女は知ってるお友だちの名前を次々に繰り出してくるに違いない。「あのねえ、おっちゃんはねえ……」と一人称が「おっちゃん」になってしもうておる。それくらいの子どもがいたっておかしない年ですからな。「あのねえ、ええとねえ、うんとねえ」といいながら我が家のある階段まで歩き、郵便受けを探り、なんとか答えを考え出す。
「おっちゃんは誰のお父さんでもないんだよ。子どもはいないから」。
 ふうん、というような表情の彼女は攻撃の手をゆるめん。
「そしたら、だれなん」。
 まいったなあ。「あんた、誰」と子どもにきかれるというのは初めてや。とっさに郵便受けの名札を指さして、「ぼくは、『喜多』っていうんだよ」。
「きたさんかあ」。彼女はなぜかそれで納得して「じゃあね、ばいばい」と言うて砂場の方に走って戻っていった。ううむ、子どもというのは油断ならん。どういう反応を示すのか予測がつかん。
 彼女はこの団地のどこかに住んでる子やろうから、たぶんまた中庭で会うこともあるやろう。そしたら彼女は「きたさん。こんにちは」というようなごあいさつをするかもしれんぞ。子どもの記憶力というのはばかにできんからね。その時はどのように逆襲してやろうか。
 そんなことを考えてしまうということは、やっぱりパブラウンジ巨乳娘を相手にするより中庭砂場ごあいさつ娘の方が私には(たぶん)性に合うてるということなんやろうね。

4月24日(土)

 午前中仕事がらみで出かけて、午後には家に帰る。ラジオで甲子園のタイガース対スワローズの試合を寝ころんで聞いていた。気がつけばうとうと午睡。目がさめたら最終回。今日はテレビではNHKでやってたんやったとあわててつけてゲームセットのところとハイライトシーンだけ見る。というかそれだけしか見られへんかった。せっかくテレビ中継に間に合うように帰ってこられたんに、なんともったいない。
 そこで、6時からUHFのサンテレビでタイガース対スワローズの試合を見る。てなことを書くと知らん人は今日の試合はダブルヘッダー(1日に同じカードを2試合行うこと)やったんかと思うかもしれんけど、サンテレビのは昼の試合の録画。それも編集したものとは違うてまるでナイター中継のように1試合全部まるまる放送するというとんでもないことをしている。なんでそんな無駄なことをするかなと思うてたけど、今日はありがたかったぞ。寝ていて見逃したところを、まるでリアルタイムのように見られたんですからな。タイムマシンで昼間に戻ってテレビを見直してるようでありますね。ありがたやありがたや。
 しかし、午睡せんかったら夜のその時間はまるまる他のことに使えたんやから、なんか二度手間のもったいないことをしているぞ。ありがたがっている場合やあらへんがな。これ、タイガースが勝ったから夜に見直さなあかんかったんやな。負けてたら見る気にもならんかったやろうからね。
 うわあ、なんという贅沢で余裕のあることを言うているんでしょ。1週間前とえらい違い。うふふふふふ。

4月25日(日)

 選挙の投票に行った帰りにコンビニに寄る。文庫本の棚を見たら、「異形コレクション」(廣済堂出版)の最新刊が4冊も入ってる。ううむ。こんな町の片隅のコンビニに4冊も割り当てがあるんか。私がいつも行く駅前の書店なんかいつでも1冊ぐらいしか入ってへんぞ。見つけたらすぐに買わんと他の客に買われてしまうというような早い者勝ち状態やねんぞ。
 私も妻もコンビニで本を買うというのには、まだ抵抗がある。古い人間と笑わば笑え。品揃えなんかで営業努力をしてる町の本屋さんを応援するには、そこで買うのが一番やないですか。くだんの書店は以前もどこかで書いたけど、常に棚を点検してこまめに本を入れ替え、アルバイトのしつけもよく、好感を持っているのだ。そういうところで買うというのが本が好きな人間の正しい姿勢やないかなどと偉そうなことを考えてしまう。
 そういうきちっとした書店には1冊しか割り当てがなくて入荷したものをただ並べてるというような感じのコンビニに4冊(か、それ以上)割り当てられてるというのは、なにか疑問を感じるぞ。実際、「異形コレクション」というシリーズはどちらかというと本を読むのが好きな人が買うタイプのものでコンビニで手軽に買う感じの本と違うような気がするんやけど。もちろん、コンビニで手軽で買う層にホラーやSFの短編のファンを増やそうという営業戦略は、それはそれで大事やとは思うけどね。そやからというて、書店の割り当てよりもコンビニの方が多いというのは、なんか違和感があるなあ。
 今に書店には専門的な本しか入らず、文庫や新書の新刊はコンビニでないと買われへんというような時代がくるんやろか。私は、それはなんか嫌やなあ。

4月26日(月)

 「桃の天然水」のペットボトルを見ながら妻がいう。「はみちちの顔はかわいいけどだんだんちちを強調した衣裳になったねえちゃん、かわったね」。ええい、いったいなんのことやわからんではないですか。「ほら、あのねえちゃん、声が超音波と冬樹蛉さんが書いてた。ラジオで紅白をきいてたらはじめてあの歌をきいてあたしは逃げ回ってるのにあなたは平気な顔してきいてて、ようあんなん平気でいられるなあって言うてた。ようあんなん辛抱できるなあ」。わかったわかった華原朋美のことかいな。「そうそう。今は違う人が『桃の天然水』の宣伝に出てるよ」。私はナイター中継以外のテレビは見ないからそんなことをいきなり言われてもわからんがな。しかしいつも感服するのは、妻のこの表現力やね。妻はタレントの名前がわからん時にこういうわかったようなわからんような説明の仕方をする。言われてみたら確かにそうなんやけど、このような説明で私が一発でわかった試しがない。そやけど、名前が出たらううむなるほど確かにそうだなあと納得させられる。このセンスはちょっと私には真似がでけん。「やっぱり、男がかわったら、コマーシャルからもおろされるんかな」。そんなことしるか!

4月27日(火)

 今日は遠足で大阪城公園に行った。疲れた。
 疲れたというと、ラジオでドリンク剤のコマーシャルをしてて、疲れた夫が朝出勤する時にその妻が「いってらっしゃい、がんばってね」と言うてドリンク剤を差し出すという恐ろしいもの。鬼のような嫁じゃ。そこまでして働かされる夫がかわいそうやないか。過労でぶっ倒れるまで働けというんか。とんでもないコマーシャルだ。
 ドリンク剤というと、医薬品やったんが医薬部外品になってスーパーやコンビニでも売られるようになったけど、あれはいったいどこが変わったのか。成分がいっしょのままで基準だけ変わったというんやったら、今までの基準はなんやったんや。新聞記事だけではどうも要領を得ない。だいたいドリンク剤なるものが医薬品であったというのもちょっと解せんものがあったけれど。どこがどう変わったのか、誰かくわしい人に説明してもらいたいもんである。
 唐沢俊一の「薬局通」(ハヤカワ文庫JA)によると薬局の売り上げのかなりの部分をドリンク剤が占めてたはずやけど、今回の改定で薬局はかなり打撃を受けてるんと違うかな。そういうことを報じるニュースというのを私は寡聞にして知らん。誰かくわしい人に説明してもらいたいもんである。
 今日は疲れてるせいでとりとめのない日記になってしもうた。すみません。はあ、いつもとたいして変わりませんか。それはそれはどうも。

4月28日(水)

 毎日必ず帰りに書店に寄らないと気がすまない。書店に寄って何も買わんと店を出るということができない。まあ無理に欲しくもない本を買うことはないんでほしい本がないときは当然何も買わんわけやけど、そういう時はなにか忘れ物でもしたみたいな気になってしまう。病気と違うかと思う。私の知り合いにはそういう感じの人が多いからそれほど特異なわけではないと思うてしまうんやけど、新聞の記事などで本の売れ行きがあまりよくないというようなことが書いてあると、おおそうか世間の人はまず毎日書店に寄ったりはしないし書店に入ったら義務のように本を買うたりするということもないのであるなあと気がつかされたりもするんでありますね。
 というわけで、当然のように本屋のおっちゃんには顔を覚えられたりもしているわけで、今日もハードカバーやら新書ノベルズやら雑誌やらなんだかんだとレジに持っていったら、おっちゃんが「毎度どうも」と書店くじを1枚よけいにくれた。図書券をおまけにつけてくれたらもっと嬉しいけど、そんなことはできませんわなあ。書店くじ1枚といえどもサービスしてくれているわけであって、その気持ちをありがたく受け取っておくべきなんでしょうね、ここは。
 高校時代、漫画を中心にかなりマニアックな品揃えをしている書店がわりと近くにあって、私はそこに日参していたわけやけど、発売日になると手塚治虫漫画全集を毎月買いに来る私を同好の士と見た店のお兄さんが「こんなんいらんか」と火の鳥のポスターをくれたときは嬉しかったなあ。それからは他のお客さんがいようがいまいが頓着せず、そのお兄さんと漫画の話をしていたもんです。その中に現在漫画家のおがわさとしくんもいたのだ。高校卒業とともに引っ越したのでその書店にはめったに行くこともなくなったけど、なんと私と入れ違いで近くの学校に入学して下宿生活をはじめた私の妻がその書店の常連になっていたという。なんとも不思議な縁であるわいなあ。
 今日も疲れてるせいでとりとめのない日記になってしもうた。すみません。はあ、いつもとまったく変わりませんか。それはそれはなんとも。

4月29日(木)

 昨日の晩に書評のお仕事が回ってきて、まだ読んでないどころか本屋に並んでもいない本を3冊読まんならんことになった。お仕事をいただくのはありがたいことなんで断ることはないんやけど、まだ出てない本はどう逆立ちしても読まれへんしねえ。読んでもいない本の書評を依頼されて受ける方が悪いといわれるかもしれんが、そこはそれ、磨き抜かれた職人芸というやつで。
 なにしろ私、学生時代からそういう腕だけは磨いてきたからね。1回も出席したことのない講義の試験を、講義ノートも買わず、友達のノートを借りようにも私は留年友達は卒業ということで借りることもできず、指定の教科書の目次と結論部分だけを図書館で読んで、あとは一発出たとこ勝負で試験を受け、どれもこれも単位を取って専門科目だけは卒業に必要な数よりもよけいに取ったりしてたからね。そんなもん自慢になるかいな。そんな腕を持っているのになんで留年したかというと、出席をとる授業の単位だけが残ってしまったという、そんなもん自慢にならんわな。誰も自慢してへんて。
 というわけで、今日は馬力入れて読みかけのシリーズ残り2冊を一気に読んでしまい、書評する本に着手できる体制を整えた。まだ出てない本をどうやって読むのかって、そんなん読めるわけないやん。まずは既に出てる本から読むに決まってるでしょ。読んでない本の書評をして原稿料をいただくほどの度胸は私にはございません。

4月30日(金)

 今日の夜は妻といっしょに「桂米朝小米朝親子会」に行った。枝雀師匠の死というつらい出来事の直後やったからどんな高座になるんか少し心配やったけど、二人とも気合いの入ったみごとな高座やった。
 前座の桂しん吉「鷺とり」のあと、小米朝師匠が登場。「桃太郎」を口演。かなり力が入っていたけど、それが若干空回りしているような印象を受ける。せがれの理屈っぽさはよくでていたが、小憎らしさが今ひとつ。
 続く米朝「百年目」はみごとな出来。実はこの噺、テープなどでは何度も聞いているけれど、ナマで演じるのを見るのは初めて。番頭と大旦那のコントラストなど、メリハリの利いた好演。ああ、見に行ってよかった。年齢的にいっても、失礼ながら米朝師匠がここまで演じきることは今後難しいのと違うかな。
 中入りのあと、小米朝「崇徳院」。手拭いを吹っ飛ばしてそれに気がつかないほど小米朝師匠の気合いを感じさせた。恋わずらいの若旦那とか、今現在の小米朝師匠だからこそ光るネタという感じ。
 トリで米朝師匠が黒の羽織を着て登場したのには驚かされた。米朝師匠がこの高座にどのような気持ちで向かっているかがおしはかられる。「稲荷俥」は実は昨年「米朝独演会」で聞いているんやけど、今回の方ができがよかった。サゲまでの流れが自然でいうことなし。
 二人とも、今回の会には期するところがあったように思われた。それは私の単なる思いこみやないとおもう。米朝師匠の着物がそれを雄弁に物語っている。そして、そういう会をじっくりと味わうことができた、一期一会の夜やった。


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