ジャンル書評はつらいよ

 野尻抱介さんのホームページにある掲示板で、野尻さんが私の「読書感想文」を読んで、こういった本を読んでいて面白いのか、という疑義を出された。それに対し、私ははっきりと「架空戦記を嫌いになった」と発言した。それでも読むのはプロの書評家としての責任であると力みかえって。それに対し、野尻さんはプロであるならそれに見合った対価が必要ではないか、という内容の返事を下さった。
 痛いところをつかれた。偉そうなことをいいながらも「S−Fマガジン」以外で原稿を書くことのない身、隔月連載の書評ページにしがみついている自分の現状をズバリ言い当てられたような気がした。
 正直言って、毎月出版される架空戦記と伝奇アクションで私の読書量は飽和状態に陥り、他に読みたくて買った本に手もつけられない状態である。重荷にもなっている。でも、書評家の責務と思いながら面白さを感じない本を読んでいる。不自然である。
「そんなに嫌やったら、やめたら」
 そう妻に言われたこともある。その時私はこう言った。
「これは先行投資のつもりや」
 強がりでもなんでもない。それだけ読書のストックがあれば、いずれ役にたつ、そんな日も来るだろう。その時はそう思っていた。けれども、これも強がりなのかもしれない。
 ただ一つだけ確信していることがある。ここまでつきあったら、おいそれとは引けない意地がある。ここまで自分の時間を架空戦記に費やしたのだ。ここで引いたらこれまでの読書はなんだったのか、読んだ意味がないではないか。こうなったら意地でもこのジャンルが衰退するまでつきあってやる。衰退するという予感はしている。小説として形になっていないものがこれほど多いジャンルが他にあるだろうか。次々とデビューする作家の作品がいずれもベストセラーになることはまずありえない。淘汰されることは必至である。伝奇バイオレンスがそうだったように、架空戦記もいずれは特定の作家のみが生き残るに違いない。そこまではおつきあいするつもりである。たとえ「S−Fマガジン」の書評から降ろされたとしても、だ。
 では、「嫌いになった」架空戦記に対し、私は今どのように考えどのように読んでいるのか。伝奇アクションについてはどうなのか。そこらへんをもう少し突っ込んで考えなくてはならない時期が来たようだ。
 「SFアドベンチャー」の書評をしていたのは1年と少し。担当のS氏より一方的に降板の連絡を受けて以降、しばらく商業誌に書く機会はめぐってこなかった。その間何をしていたかというと、F社が発刊したティーンズ文庫でのデビューを目指し少女小説を書いたり、小浜徹也・三村美衣夫妻の出していた同人誌「てんぷら・さんらいず」で新書ノベルズの書評をしたり、「トーキングヘッズ」誌でアイドルコラムを書いたりしていたわけだ。「S−Fマガジン」の八十年代特集号で伝奇バイオレンスについての回顧を書くよう依頼がきて、商業誌にカムバックしたのが1992年の夏。これは「てんぷら・さんらいず」でやってた連載が基盤にあったようだ。
 「S−Fマガジン」でヤングアダルトSFの書評のページを設けると連絡がきたのが翌年の秋、依頼内容は「伝奇バイオレンスと戦記シミュレーションの書評をしてほしい」というものだった。「紺碧の艦隊」をはじめとして戦記シミュレーションもめぼしいところはポツポツと読んでいたので、いけると踏んで依頼を受けることにした。困ったことは、伝奇バイオレンスというジャンルが衰退してしまい、取り上げる対象の幅が狭かったことだった。そこで私は奇策を弄することにした。当時、井上祐美子をはじめとした中国を舞台にとった伝奇的要素の強いアクション小説がはやっていたので、「伝奇アクション」なる造語をでっち上げてそれらも書評の対象にしたのだ。最近でこそ「伝奇アクション」はジャンルの一つとして割と一般的に使われるが、当時この言葉を使っていたのは私だけであった。もっとも、そういった小説がはやっているという状況のもとでは他にも同じ言葉を考えた人がいてもおかしくないので、「伝奇アクション」の名付け親を私が主張したところで別に偉くもなんともないが。
 実は、この枠の拡大のおかげで書評できる本が増えたぐらい、当時の「戦記シミュレーション」は出版点数が少なかったし、SFから派生したジャンルというイメージは強かった。檜山良昭、荒巻義雄、山田正紀、谷甲州らがジャンルの中核としていて、他には新人として横山信義、佐藤大輔、伊吹秀明がいた程度。志茂田景樹、谷恒生も書いていたが、SFファンには不要と思い、読まなかった。「S−Fマガジン」の書評ページとしてはやりやすかったといえる。
 あれから4年が過ぎた。私は途中で「戦記シミュレーション」という呼び方をやめた。シミュレーション的要素よりも歴史を改変したことによって何を言いたいのかということを評価の中心に置くことに決めたからだ。出版社サイドも「架空戦記」「架空戦史」という呼び方をはじめていたこともある。SFファンに紹介するからには、ただこんなに歴史が変わりましたよ、というだけの小説ではおそらく食い足りないだろうとも思ったし。
 大きな変化があった。架空戦記のファンという層が形成されニフティなどで部屋を作り、そういったファン向けの作品がどっと出るようになってきたのだ。ここにおいて、あとがきで「これはSFのように荒唐無稽な話ではなく……」ということを書く作家も出てきた。「架空戦記」はSFの手から離れ、全く別のジャンルに変貌してきたのである。
 「S−Fマガジン」でそのようなものを取り上げる必要は果たしてあるのかと悩む間もない。とにかく出版量が増え、追いかけるだけで精一杯という状態になってしまった。「伝奇アクション」の枠を広げたおかげで、こちらも大量に読まなくてはならなくなってきた。
 書評のための読書しかできない日々が延々と続くのであった。
 私の信条は、「読書は主観、批評は直感」である。人それぞれに読書歴があり、何をもって面白いと思うかは十人十色、千差万別。面白いか面白くないかというのは感覚的なものではないか。批評というのはそれに理屈をつけていったものだ。というと語弊があるな。自分の直感を言葉に直す作業といったほうがいいかもしれない。
 書評は本のセールスマンではない。しかし、信頼できる書評家の文章は、自分が本を買う時の参考にはなるだろう。誉めていようとけなしていようと。私は自分の直感を信じて面白い本を「S−Fマガジン」で紹介するのみである。困ったことに、架空戦記は私にはあまり魅力のあるジャンルでなくなってしまった。小説として面白いと思わないのである。
 なぜ歴史を改変するのか、それは史実と比較して歴史の可能性を探り、ひいては現実というものに対して何らかの批判を投げかけるものであってほしい。それが私の架空戦記に対するスタンスである。しかるに現状はどうか。「もし、この戦闘にこの戦車があったら」「もしこの国に機動艦隊があったら」といった設定だけでおしまい。後は歴史をいじくりまわして面白がってるだけ。どうせウソの歴史なのだ。人間の想像力には限度がある。史実の面白さに対抗しえるわけがない。史実をどのように解釈し、どのように批判しているかという過程を踏まえた上で、歴史を創造してほしいものだ。こんなふうに歴史は変わりました、または結局変わりませんでした、面白いでしょう、そんな小説が多すぎる。
 読みやすい小説というものは、ある一定の視点から一貫して描かれている。ところが架空戦記というのは、味方の視点で描写していたかと思うと、次の節では味方の知りえない敵の様子が延々と描かれる。主人公が特定できない小説というのも読みづらいものである。複数の登場人物の視点から描かれる小説はもちろん多い。大河小説というのはだいたいそうですね。ただ、大河小説というのはそれら複数の人物がからみあいついには一つの流れに収斂し、大団円を迎えるから面白いのだ。架空戦記ではそうならないものが多い。延々とある人物の視点で描いてたかと思うとその人物はいきなり戦死、物語はまた別の人物を中心に進むというような例は少なくない。
 歴史というのは線ではなく面である。だから、そのような展開をして当然といえるかもしれない。それならば、歴史小説はどれもそうなっているはずだが、そうではない。たいていは主人公がいて、その人物と周辺の人物が織り成す人間模様が描かれているではないか。
 どうせなら、史実に忠実な歴史小説と対抗できるだけの「架空歴史小説」を書いてほしい。ところが、書き手に実力がないせいで、小説としての面白さは二の次でまずは改変した歴史の様子のみを面白がっているものがほとんどである。どうせなら、これは本当の歴史じゃないのかと錯覚させるくらいのものを書いてほしい。「これはウソの歴史だよ」とわかっているからなんとか読める、では困るのだ。
 私は小説として面白いものをまず求めてしまう。それが私の読み癖だから仕方ない。困ったことに、その前提条件を満たしていない架空戦記が多すぎる。一昨日のこのページで「架空戦記は衰退する」と断言したのは、このジャンルが生き残るためには結局は「小説として面白い」という前提条件をクリアしなければ飽きられてしまうからであり、現状ではその条件をクリアしている作家がいなさ過ぎるという材料に基いてのことである。
 架空戦記の作家は、あまり小説を読んでいないのではないか、という疑問が浮かぶのもそのせいだ。小説の書き方は、読んだり書いたりしていくうちに身につくものだと思う。それができていないような気がするのだ。
 現在の架空戦記の状況はそんなところだろう。では伝奇アクションはどうか。
 以前「伝奇小説」を国語辞典で引いたことがあるが、それによるとファンタジーも「伝奇小説」の枠組みに入ってしまうことになって、困ってしまった。伝奇小説の定義というものは、これまであまりはっきりとされてこなかったのではないか。
 ここでは特に「伝奇小説」の定義はしないでおきたい。そんな定義をすると、書評をするときの手枷足枷となってしまうからである。ただ、できれば神話や伝説のたぐいを下敷きにし、史実との整合性をもたせてほしいとは思う。「なんでもあり」というのは一見面白そうであるが、実はかえって作者の想像力の範囲にとどまってしまいがちなのだ。かえって縛りがかかっているほうが、その縛りの中で最大限の想像力を発揮できるのではないだろうか。
 いい例が、ヤングアダルト小説に多い異世界ファンタジーである。そちらの書評は三村美衣に任せているのでそれほど読んでいるわけではないが、C・S・ルイス、トールキン、ムアコックなどの縮小再生産、いや、ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなどの縮小再生産になっているようなものが多いように思う。
 実は、伝奇アクションにもその傾向がある。中華風や和風の異世界ファンタジーがここ1・2年の間に増えてきているのだ。本格的に中国や日本の神話、伝説を調べ、自家薬篭中の物にするのはなかなか大変、それならば、神話や伝説の設定だけ借りて、オリジナルな(に、見える)世界を想像したほうが面白いものができると踏んでのことだろうか。しかし、そこに落し穴がある。そういった作品ほど、ご都合主義に陥りやすいのだ。
 人一人の想像力には限界がある。その点、神話・伝説・歴史は人間の営みの積み重ねから生まれてきたものだから、その懐の深さはいうまでもない。資料をきっちりと調べベースとなる神話や伝説に整合性をもたせるだけで、たちまち小説に奥行きが生まれるから不思議である。私が加門七海や霜島ケイ、井上祐美子や加納あざみを高く評価したいのは、そういったところで決して手を抜いていないからである。
 中華風・和風異世界ファンタジーが決して手抜きというのではない。ただ、そうするのならば実際の神話や伝説に劣らない世界を構築してほしいのである。そうでないと、借り物臭い箱庭世界でステロタイプの登場人物が魔法ごっこをしているようなものになりかねないのである。
 むろん、書評をするためには作家に負けないほどの神話や伝説についての基礎知識をもっていなければならない。そのための読書もしたいのだ。ところが、伝奇的異世界ファンタジーまで「伝奇アクション」という言葉で枠にいれてしまうという失策を犯したため、これまた大量の新刊をこなすのが精一杯ということになってしまった。自業自得とはいえ、苦しいものである。
 そんなにまでして読む必要があるのかどうか、そこのところも考えなくてはならないだろう。
 「書評家」としてあるジャンルの小説について批評を加えるには、最低限何が必要か。
 まず、そのジャンルのあらゆる作品について通曉していることだろう。そして、一つの価値基準をもってそれらの作品を読むことができること。そのジャンルに対して愛着をもっていなくてはなるまい。でなければ、書評なんてやってられないのである。
 書店でその本を手にとれば、十中八九は面白いかどうか見当がつく。つまらなそうな本を手にとるとき、私はため息とともにレジに持っていく。買わなければ買わないですむのである。読んでも読まなくても、「S−Fマガジン」の書評欄で取り上げることはまずないのもわかっている。おかしなもので、そんな作品でも、読んでおかないと落ち着かないのだ。その作品は実は傑作かもしれないじゃないか。確認の意味でも、目を通しておかないと気がすまないのだ。因果なことを引き受けてしまったと後悔する反面、原稿の〆切が必ずやってくるというのはありがたいことだとも思っている。
 私は「SFアドベンチャー」誌から降ろされた後、5年間というもの商業誌とは縁がなかった。京フェスで毎年大野真紀さんに聞かれるんですよ。「今、お仕事はどうですか?」とね。もちろんこれは原稿書きのお仕事なんであって、「学校の講師をしてます」なんて返事が正しい答えになっていなかったことは重々承知。「開店休業中の書評家」と称して強がっていたが、いったんセミプロとしてデビューした者が5年間商業誌から遠ざかるということはどういうことか、想像してほしい。
 だから、私は今の仕事は大事にしていきたい。幸い、インターネットをはじめてから、私の書評が「S−Fマガジン」読者の何らかの参考になっているという声も届くようになった。
 架空戦記にしてもヤングアダルト伝奇アクションにしても、いわゆる文芸評論家がまともに取り上げるジャンルではない。私がまともな文芸評論家であるかどうかは知らないが、小説として評価し、あらゆる作品を読み、マニアックな視点を退け、面白いものを面白いと紹介するプロの書き手は、もしかしたら今のところ私だけかもしれない。誰かがその役割を担わなければならないのだったら、たまたま私のところに依頼がきたというのがきっかけだったにせよ、私しかいないのなら、私がやるしかないのである。これも縁と割り切って、ぼやきながらも読んでいくしかないのである。
 新造人間キャシャーンじゃないけれど、俺がやらねば誰がやる。誰でもいいからやってちょうだい。なに、誰もいない! しかたないねえ。ええい、こうなりゃ俺も男だ。みんなまとめてめんどうみよう。言いたかないけどめんどうみよう。とほほほ。


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