ブック・レヴュー


手塚治虫COVER[タナトス篇]

 私こそ、世界で一番の手塚治虫ファンである。

 そう思っているのは私だけではあるまい。本書『タナトス篇』および姉妹篇である『エロス篇』に執筆している作家諸氏、イラストレイター、そしてこんな企画を考え出した編集者、その全てがそう思っているに違いないのだ。でなければ、神様の名作のリスペクト小説なんて書けるわけがないしイラストを描けるわけがないしそもそもそんな小説を当代一流の作家陣に書かせて本にしようなんて思いつくはずがない。またその本にさらに解説なぞ書けるものか。
 みんな手塚治虫にとり憑かれているのである。手塚治虫の呪縛はそれほどまでに強いのだ。あ、呪縛じゃないな。神託だ。本書で田中啓文が書いているように、手塚治虫は神様なのだ。手塚治虫による神託を下された者たちが、それにつき動かされているだけなのだ。
 戦後日本のストーリー漫画とSFは、手塚治虫の神託が産み出したものなのだと、私はもう臆面もなく書いてしまうのだ。「ストーリー漫画」はともかく「SF」に関しては違うぞという声がどこかから聞こえてくるようだが、そんなものは無視する。手塚治虫がいてくれたおかげで、戦後の日本では「SF」小説を何の抵抗もなく受け入れることができる素地が作られたのだと、私は確信しているのだ。『メトロポリス』『ロストワールド』『来るべき世界』の初期三部作を手はじめに、『鉄腕アトム』『0マン』『バンパイヤ』『火の鳥』……。これらを原体験として持っていたからこそ、日本にSFが根づいたのだと言わねばなるまい。もしこれらがなくてもSFは日本に入ってはきただろうけれど、たいていの国がそうであるように英米SFの翻訳が中心で、国産のSFがこれほど豊かなものになったかどうかは疑問である。手塚治虫の作品に出会い、その魅力にとり憑かれた者たちが自分も同じような作品を作りたいと思う。そういう流れがごく自然にできたのである。国産SFが日本で発展したのはごく当然の事なのだと認識していただきたい。
 では、SF作家たちに下された神託とはなにか。手っとり早いのは『手塚治虫漫画全集』全巻を読破することなのだが、それは物理的に不可能な人の方が多いだろうし、だいたい全部で四○○冊も読まねばならないという方法が手っとり早いかどうか。急がば回れとはいうが、回り過ぎであるな、これは。ここで解説するのが私の役割なのであった。忘れてはいかんな。
 まず、科学に対する信頼と不信。戦争という体験を経て、進んだ科学が人間にとって諸刃の剣であることを手塚治虫は痛感したのである。人間が制御し切れない科学が、人間そのものを滅ぼすのではないかというテーマは、手塚SFに常につきまとう。
 続いては、無常感。これもまた戦争体験からくるものであろう。大空襲により焼け野原となった大阪の町の風景が、若き手塚治虫に刻み込んだものは小さくないはずだ。
 そして、人間の持つ影の部分。体力的にも弱く幼い頃からいじめられることの多かったという手塚治虫は、劣等感のかたまりであったという。その劣等感をはらす手段として、手塚は漫画を見つけたのではないだろうか。手塚漫画の登場人物は多かれ少なかれ劣等感にさいなまれ、なにかしら影の部分を抱いている。手塚治虫自身、新しい漫画がヒットすると、それに対して猛烈な対抗心を抱いたそうだが、そこに幼少時に刷り込まれた劣等感がそこにはたらいていたのではないかと推測されるのである。
 さらに、モダニズム。手塚治虫が育った宝塚は、阪急電鉄の創始者小林一三がたてた都市計画にのっとって作られた新興住宅地である。昭和初期の上流・中流階級の住む町というステータスが、宝塚をはじめとする阪急沿線にはある。自伝『ぼくはマンガ家』によると、手塚治虫は父が持って帰ってきたディズニー映画などを家の映写機で見ていたりする。通っていたのは、師範学校の附属小学校(現大阪教育大附属小学校)だ。土着的な泥臭い文化よりも、モダニズムの香りのする都市文化に囲まれて育ったことが、手塚SFには色濃く反映されている。
 戦後の日本SFには、大なり小なりこれらの要素が含まれているといっても過言ではあるまい。これこそが手塚治虫がSF作家たちに下した神託なのである。

 そろそろ本書に収録された作品について見ていくことにしよう。

五代ゆう「バンパイヤ」
 獣に変身するバンパイヤたちと、それを利用して富と力を手に入れようとする間久部緑郎(ロック)の野望を描いた原作では、特にロックの持つ悪の魅力が光彩を放っている。ここまで悪を魅力的に描いたものはそれまでなく、そういう意味でも画期的な作品である。五代ゆうは未来世界に舞台をとり、誰もあらがうことのできないロックの魅力を再現すると同時に、その弱点をも強調することにより、ロックにつきまとう孤独感を浮き彫りにしてみせている。

山田正紀「魔神ガロン」
 宇宙から飛来した魔神ガロンは、心臓部にピックという少年が入ることによりその強大な力を正しく使うことができる。それは宇宙人が地球人を試すために送り込んできたものだったのである。山田正紀は、ガロンが飛来してきたのが後楽園球場であるという原作の設定に着目し、現実の世界ではそれがあの村山実が長嶋茂雄にサヨナラホームランを打たれた天覧試合の日であるとし、ガロンが飛来した手塚作品の世界と飛来しなかった現実の世界を交差させる。二○○一年九月一一日の同時多発テロとガロンの飛来を重ね合わせ、手塚治虫がガロンに託したメッセージを再検証している。

田中啓文「三つ目がとおる」
 超古代に栄え、滅亡していった三つ目族の末裔である写楽保介は、その第三の目の力を使い三つ目族の再興をもくろんでいる。しかし、その第三の目を隠してしまえば写楽は幼子のようになってしまう。彼の同級生で保護者的な役割を果たす和登サンは、それでも第三の目があらわになった時の悪魔的な魅力に惹かれている。田中啓文は伝奇ものとしての原作の魅力を忠実に再現すると同時に、日本神話を彼ならではの解釈で味付けしている。

若木未生「ルードウィヒ・B」
 楽聖ベートーヴェンの生涯を描く原作は、手塚治虫の死により未完となってしまった。若木未生は、作中に登場するモーツアルトたちを狂言回しにして原作で手塚治虫が試みた音の映像化をさらに文章化するという大胆な試みをしてみせた。一種のメタフィクションといえる構成の妙と、未完に終わった作品へのオマージュにあふれた一篇。

草上仁「ミクロイドS」
 地球環境を破壊する人間に対する昆虫たちの逆襲を描いた原作では、手塚治虫は悲観的な結末を提示した。しかし、草上仁は昆虫軍を裏切る者の逃亡劇をストーリーの中心にすえ、人間と昆虫の共生の可能性を探ろうとする。いわば原作のサイドストーリーとでもいえる内容となっている。逃亡する裏切り者とそれを追う追跡者の巧みな心理描写と緊迫感あふれる展開はさすが短編の名手、草上仁の本領発揮である。

手塚治虫「火の鳥/COM版 望郷篇」(漫画)
 掲載誌休刊により未完に終わってしまった「望郷篇」の単行本初収録となる。この前に発表された「羽衣篇」とリンクする内容のものであるが、掲載誌を「マンガ少年」に移して再開された現行の「望郷篇」は内容が一新され、全く違ったものとなった。もちろん「羽衣篇」との関連はなくなっている。またそのためか現行の「羽衣篇」も初出時のセリフが改変されてしまっている。本書に収められた「望郷篇」が完結していれば、各篇ごとにつながりをもたせ、完結時には循環した内容になるというコンセプトが貫かれたはずである。

二階堂黎人「火の鳥 アトム篇」
 手塚治虫が残したメモによると、「火の鳥」は「大地篇」「アトム篇」と続いて完結する予定であったといわれている。二階堂黎人は、未完に終わった「COM版 望郷篇」の結末と、書かれるはずであった「アトム篇」を融合させる形で「未来篇」につながる作品に仕上げている。手塚治虫ファンクラブ代表も務めた二階堂黎人の「火の鳥」への強い思いが込められている。

 手塚治虫の魅力は、様々な立場の人たちがそれぞれの視点で語っており、私がここで付け加える言葉は、ありそうにもない。なによりも、本書と『エロス篇』を読んでいただければ、手塚作品の魅力が作家たちの手によって再構築され私たちの前に提示されることにより、より鮮明になっていることがわかるはずだ。
 本書と『エロス篇』は二○○二年一月発行の『SFJapan』に掲載されたものを再編集したものである。私はこの時、各作品の原作について、未読の読者にもわかるように解題をした。むろん、そのために全作品を再読したわけだが、読みながら胸が熱くなるのを禁じ得なかった。私や、リスペクト小説の執筆者たちは、最も感受性が強い時期にリアルタイムで手塚作品と出会い、様々なことを教わった。それは、私たちが生きているということ、そしてやがて死ぬということ、大人の世界とはどのような世界か、宇宙の広さ、人間の小ささ、そして大きさ……。それを受け止めた時の思いが、まざまざと蘇ってきた。そう、ちょうどその頃の事である。中学生であった私は、高校受験の模擬試験が終わると同時に、京都で行われていた手塚治虫展の会場に直行したことを昨日のように思い出す。ちょうどその日に手塚さんのサイン会があったのである。色紙を買い、展示品を見ながら時間がくるのを待っていた私の目の端に、手塚さんが入場してくる姿が写った。その時の私には、手塚さんから光が発しているように見えた。大きな存在感があった。サインをしていただいたあと、手塚さんは手を差し出し握手をして下さった。柔らかい掌であった。
 手塚さんが発していた光は、今なお消えてはいない。その光を受け止めた若者たちが、こうやって送り手となり、その光を次の若者たちに投げかけているのだ。本書と『エロス篇』は、単なるオマージュではない。手塚治虫が私たちに伝えてくれたことを、新たな形で伝えるという行為そのものなのである。

(二○○三年四月記)

(「手塚治虫COVER[タナトス編]」デュアル文庫編集部・編〈徳間デュアル文庫〉解説)

附記
 手塚治虫先生のリスペクト作品を収録した文庫の解説ということで、私情がむき出しで入ってしまった。今読み返すと気恥ずかしいくらいに興奮している。もっとも、「SF Japan」用に書いた原作解説の方が手間ひまはかかっている。できれば文庫にはそちらを収録してほしかったのだが。


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