ブック・レヴュー


ラー
歴史の本質と理想の美のハーモニー
高野史緒著
ハヤカワSFシリーズJコレクション
2004年5月31日第1刷
定価1500円

  本書を一読し、私は「お、これは今までの高野作品とはひと味違うぞ」と感じた。そこで、ネット書店で私の担当している書評ではこう書いた。
「本書は高野史緒の新境地開拓への意気込みを感じさせる一冊なのである」
 どう違うのか。そこらあたりをここではもう少しくわしく書いてみたい。
 高野史緒というと、『ムジカ・マキーナ』である。断言してしまう。デビュー作でもある『ムジカ・マキーナ』は傑作である。ここで、高野史緒は、中世から近代、そして現代へと向かう激動期を舞台にした歴史小説に、その時代にはあり得なかったテクノロジーを導入し、当時のの価値観と現代の価値観をミックスすることによって新たな価値観を生み出そうとした。理想の芸術とはなにかという問いかけが大きなテーマとなっていることや、博覧強記といってもいい情報量が小説全体を覆っていることなど、その後の高野作品の特徴がデビュー作にはふんだんに詰め込まれている。
 高野史緒は、文学的なスタイルを持ちながらエンターテインメント志向であるところにその特徴がある。そのバランスがうまく取れた時に、『ムジカ・マキーナ』のような傑作が生まれるのだと思う。
 ところが、彼女は『ラー』で、そのスタイルを変えた。舞台は古代エジプトで、そこにタイムマシンを使用して現代人が登場する。彼の目的はピラミッド建造の瞬間をその目で見ることである。ここでは現代テクノロジーはその時代に投入されない。主人公が目撃したのはすでに建造されてしまったピラミッドであり、それを作り上げた能力は既に失われ、読者といえどもその能力が使用されるところを見せてはもらえない。舞台となった時代よりもさらに遡った時代に驚くべき能力があったということが示唆されてはいる。が、作者はそれすらも明確には示さないのである。主人公にそのことを推測させるのみなのだ。
 そこで、連想されるのは高野史緒の非SF作品である。『架空の王国』と、中編の連作シリーズ『ウィーン薔薇の騎士物語』(全5巻)は、歴史の裏側に隠された謎を、前者は現代の日本人留学生が、後者は二十世紀はじめのウィーンで活躍する若きヴァイオリニストが解明していくという筋立てである。むろん書誌や音楽の知識がふんだんに物語に組み込まれているという作者らしさは感じさせる。しかし、本質的にはミステリであり、ファンタスティックな要素は少し匂わせるだけで前面には出てこない。むろん、現代テクノロジーの外挿という要素は一切ない。
 そう、『ラー』もまた、ピラミッド建造の秘密を外来者である主人公が解明しようとするという構成なのである。ところが、物語が進むにつれて『ラー』は『架空の王国』などとも違う道を進み始める。それは、世界観の視点である。
 例えば『カント・アンジェリコ』や『ヴァスラフ』などの長編では、舞台となる時代のものとは違うテクノロジーが外挿され、いわば架空の歴史というものを形作ってはいる。これらは架空戦記のように歴史改変を試みたものとは違うように思われる。どちらかというと、史実によく似た異世界の物語という趣向であろう。ハイ・ファンタジーが一から架空の世界を構築しているのに対し、高野史緒は現実の歴史を借りて異世界を作り上げていたのだ。ただ、そうすることによって、私たちが現実に感じている世界観が覆されるかというと、必ずしもそうはなっていない。いわば知的遊戯と表現したいものなのである。そういう意味では、ヴァーチャル・リアリティ・ファンタジーとでも名付けてみてもよい。実際、『ヴァスラフ』はヴァーチャル・リアリティそのものをテーマにとっているわけだし。
 ただ、そうなると、歴史の遊戯的な扱いが気になってくる。『架空の王国』では「歴史」や「国家」の存在意義に疑問を投げかける。彼女にとっては、残された歴史は後世の人間による知的遊戯の産物なのかもしれない。とはいえ、たとえそうであったとしても、『架空の王国』では、ストーリーそのものでそのテーマを追っていたわけではなく、世界観を揺すぶるところまでは到達していなかった。
 そこで気になるのが、『アイオーン』の位置付けである。ここで彼女は外挿的な手法ではなく、極めてまっとうに歴史改変小説を書き上げたと、私は考えている。確かに扱われている時代のものとは違うテクノロジーは登場するのだが、それによって一つの文明が滅亡した後の世界を扱っているからだ。つまり、高等なテクノロジーのせいで東洋世界が滅び、西洋世界は逆に科学そのものを否定しているという背景があって、その背景なしでは主人公の行動を描けないという構成になっているのである。そういう意味で、これはもう正々堂々たる歴史改変小説なのだ。
 それまでの作品では、外挿されたテクノロジーは物語の終結とともに結局は滅んでしまい、そのようなテクノロジーが後世に影響を与えることはなかった。歴史そのものにメスが入ったわけではないのである。そういう意味では『アイオーン』は転機となる作品であったといえるだろう。
 では、『ラー』は歴史に対してどのようなアプローチを試みているのだろうか。
 高野史緒は、『ラー』では前述の通り現代のテクノロジーを史実に直接からませてはいない。つまり、歴史改変は行っていないのである。それどころか、主人公は残されたわずかな史料をもとに、自分自身が史実とされている出来事をなぞって行動してさえいるのだ。そして、自分が歴史の観察者となることにより、ピラミッド建造の秘密を追究する。その結果、人類というものの根源的な謎を(あくまで推測の範疇ではあっても)明らかにしていくのである。
 これまでの高野作品では、史実に異なる要素を挿入し、あるいは歴史そのものを改変することによって、歴史というものの本質をあらわにしようとしていた。また、芸術というものの存在と理想の美の追求というテーマが通奏低音として絶えず流れていた。だが、歴史の本質と理想の美というテーマが必ずしもハーモニーを形作っていたとは言い難いし、時には不協和音とさえ感じることもなくはなかった。
 しかし、『ラー』では人類の歴史をストレートに扱った上で、ピラミッドという究極の美を中心にすえることによって、みごとなハーモニーを奏でることに成功した。私が本書を「新境地開拓への意気込みを感じさせる」ととらえたのは、そのハーモニーを感じたからである。
 今後、高野史緒の作品にどのような変化が生じていくのか。それがどのようなものであったとしても、『ラー』を抜きにしては語れない変化であると私は確信する。

(「S−Fマガジン」2004年11月号掲載)

附記
 「S−Fマガジン」の特集「ハヤカワSFシリーズJコレクション」で、この時点までに発売されたシリーズ全巻をレヴューするという企画があり、私には本書が課題として与えられた。そこで、高野作品を一気に読み返し、いわば「高野史緒小論」になるように書いてみた。的を射ているかどうかは読者のみなさんの判断にゆだねるが、枚数の関係でいささか舌足らずになってしまった感は否めない。もし文庫解説などの機会があるとしたら、本稿を基盤にもう少しきっちりしたものに仕上げてみたいものである。


目次に戻る

ホームページに戻る