ブック・レヴュー


天を越える旅人
濃密な仏教的世界観
谷甲州著
ハヤカワ文庫JA
1997年4月15日第1刷
定価700円

 山に対する畏敬の念が、山そのものを神格化する。あるいは、山中における極限体験が、神秘的な力を人間にもたらすと信じられる。日本で霊場と呼ばれる場所が山の奥深くにあることは多い。山の持つ神秘性が役小角や鞍馬山の天狗などの伝説を生んだといえるであろう。
 平安時代初期、日本ではいわゆる山岳仏教と呼ばれるものが起こる。最澄の比叡山延暦寺や空海の高野山金剛峰寺がそれにあたる。特に後者では密教という修行によって大日如来と一体化するという神秘体験が重視された。富士山は霊峰と呼ばれ、そのまま信仰の対象となる。富士登山そのものに宗教的意義がもたされているのである。
 小さな島国である日本ですらこういう状況なのだ。険しい山岳が多数そびえ立つ中央アジアにおいては、山のもつ神秘性はそれ以上のものがあったと思われる。本書の舞台はまさしくそのヒマラヤ山脈であり、主人公は現代の中国で迫害を受けているラマ僧なのである。
 ストーリーをかいつまんで紹介しよう。
 チベットの少年ラマ僧、ミグマは、自分の前世であるシェルパが雪山に登頂しようとして死ぬ夢を繰り返し見る。親代わりのヨンドンラマは、その夢を見ることによってミグマが夢の中に吸い込まれると諭し、そのことについて考えさせないようにする。ヨンドンラマの死後、ミグマは夢に現れた雪山を求めて旅立つが、登山経験のない彼は、途中で力尽きる。彼を助けてくれた老僧、ダンズンの指導により、ミグマは瞑想で夢の世界に行く技を身につける。ミグマは山の向こうのダージリンの町で僧院を訪ね、特別の情報を提供する曼陀羅を見つける。その情報に従って霊を飛ばしたミグマの前に、彼の前世であるナムギャルが現れ、真の世界の姿を見せようと導く。ミグマはやがてナムギャルの目指した山頂を求め、山に慣れるために登山チームの一員となる。しかし、山で彼を悪霊たちが襲った。ミグマは悪霊の、そして山の神の妨害を突破して山頂に行き着くことができるのか。そして、目的地で待ち受けているものは……。
 本書の主人公ミグマは空海のような神童ではない。本人に潜在的に能力が隠されてはいるけれども、それは何かをきっかけに発動するという性質のものではない。ミグマはナムギャルらに導かれて普通ならば経験し得ない空間や時間の移動をさせられるけれども、だからといってすぐにその力を自在に操れるというわけではない。彼は何度も時間遡行を繰り返し、失敗し、挫折しながらその力を体得していくのである。
 本書で語られる最大のテーマは、輪廻転生の秘密であるといえるが、実はそれ以上に修行とそれによる主人公の成長というところに重点がおかれている。主人公は自分では「頑張った」「秘密を手に入れた」と自覚するのだが、新たな試練が現れるとその自覚はあっさりと否定され、自分の無力さを受け入れざるを得ない。あるがままの自分を受け入れた時に、彼はさらなる高みへと進むことを許される。これは、仏教の修行の物語という体裁をとってはいるが、実は私たち全ての人間に共通の普遍的な課題を提出しているものだとはいえまいか。
 むろん、仏教的世界観(本書では『チベットの死者の書』に基づく死生観)を、主人公の成長に合わせながら明らかにしていくというところに本書の主眼はおかれてはいる。しかし、宗教体験を扱った物語は、そのような体験をしていないものにとっては実感の薄いものにならざるを得ない。下手をすると特定の教義を読者に押しつけてしまう、独りよがりなものになってしまう危険性すらはらんでいる。作者は、それをどうやって克服したのか。それは、緊迫感あふれる登山を中心とした圧倒的な状況の描写である。死と生の狭間をかいくぐるようにして山に登っていく男たちの姿は、私のような登山体験のないものにまで高峰へ挑戦しているのだということを実感させてくれる。
 名人といわれる落語家が夏の盛りに『鰍沢』というような冬の雪中行を描いた落語を演じたら、汗をだらだらかいている観客でさえ思わず寒気を感じて襟元をかきあわせてしまうのだそうだ。それが”芸”というものの持つ力なのだとしたら、本書における作者はまさしくそれに匹敵する”芸”を見せつけたということになるだろう。
 読者はミグマの体験を自分のもののように感じる。その目前で人を救うことができなかったという無力感をも共感させられてしまう。だからこそ、自分の前世、さらにその前世と魂が時代を遡行していくという神秘体験も、絵空事のように感じるどころか、まさに目の前で起こっていることのように受け入れることができるのである。
 谷甲州の場合、宇宙を舞台にした小説でも同じことを感じさせてくれる。登山という極限状態の経験を宇宙でのそれと重ね合わせて描いているのだろう。
 それでは、本書で扱われている仏教的な死生観について、私なりに考察を加えていきたいと思う。
 本書では、仏教の死生観の中でも特に”輪廻転生”が重視されている。これは人間の本質を”因果”で説明したものである。人は前世での行いが悪ければ、現世に生まれ変わった時にその”業”を背負って生きていかなければならないという考え方で、煩悩を抱えた俗人は現世で功徳をつまない限り、来世でもまたその”業”を背負ったまま次の生を生きることになるのだ。それは人に課せられた運命ではあるが、ただそこから逃れる方法がひとつある。それが”悟り”をひらくことだといえる。それにより人は輪廻の輪から”解脱”することができるのである。それが成仏するということなのだ。
 本書では、ミグマは曼陀羅にて図示された世界を旅することにより、空間、そして時間すべてを包含した宇宙に触れることになる。つまり、物理的に存在する世界を仏教的な視点から理解するのである。これこそ”解脱”のひとつの形である。作者は”解脱”という仏教的な世界把握を科学的に示してみせたということができるし、また逆に科学的な世界観を仏教の概念を用いて解釈してみせたということにもなる。
 科学と宗教は相反するものであると思われがちであるが、このように哲学的な体系を持ち得ている宗教は、実はその宗教が成立した時点での科学の最前線であったのだということを、本書は読者に指し示しているのである。
 本書で描かれたものは、一人の人間の成長とともに世界の真理を明らかにしていく過程である。しかも、それが説教くさい退屈なものではなく、第一級のエンターテインメントとして成立しているということに驚嘆するのである。

(「S−Fマガジン」2005年2月号掲載)

附記
 「S−Fマガジン」の谷甲州特集で、その代表作について考察するという企画があり、私には本書が課題として与えられた。実は別のシリーズについて書くよう依頼されたのだが、当方の都合で変更していただいたものである。編集長には申し訳ない思いでありました。
 本稿における仏教に関する知識は、私が勤務校で受け持っている授業「倫理」で教えるために仕入れたもの。こういうところで役にたつとは思ってもいなかった。そのせいか、なんだか教科書みたいな記述になってしまった。もう少し柔らかいものにするつもりで書きはじめたのだが。


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