ブック・レヴュー


山の霊力の具現化−幻想とリアリティ
谷甲州「ジャンキー・ジャンクション」解説

 日常生活に疲れたら、山に登ってみよう。
 例えば霊峰比叡山。重い装備も何もいらない。市内から小さな鉄道に乗り、ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぐだけで、もう山頂だ。別世界なのに普段着のまま、というのが難点ではあるが、それでも清浄な空気、雑木林の木漏れ日のまぶしさ、そよぐ風の音、なにもかもが疲れた心に力を与えてくれるのを感じることだろう。
 山頂から眺める京都の街の小さなこと。あんな細かいところにぎっしりと人がつまっているなんて、信じられなくなる。出町柳駅のホームで電車を待っている時に感じていたくさくさした気分はどこかにいってしまう。
 山には、何かしら、力がある。
 独りでいくのがいい。気のあった仲間と歩くのもいいが、おしゃべりなどを楽しんでいる間に見逃してしまうものは多いはずだ。
 風景を楽しむのもいいし、山頂だけをめがけて歩くのもいい。
 歩きながら、ふと谷甲州の山岳小説に登場する人物たちのことを思い出してみる。彼らは、たいてい一人で厳しい登攀に挑戦している。チームを組んで登る時もそうだ。仲間と力を合わせながらも、彼らは精神的には単独行をしている。
 例えば、新田次郎文学賞を受賞した『白き嶺の男』(1995/集英社文庫)に登場する加藤武郎がそうだ。もともと単独行からスタートした加藤は、単独で山に登ることに限界を感じて山岳会に入会する。しかし、会になじまず結局は単独行を続けることになる。同じように単独行にこだわる久住と出会い、お互いにないものを認めあってチームを組むことになるのだが、二人とも単独行の延長として自分たちの登山をとらえているのである。
 では、本書『ジャンキー・ジャンクション』の登場人物である筧井宏、加藤由紀たちはどうだろうか。
 まず、ストーリーをおおまかに追ってみてみよう。
 筧井は東部ネパールの山中で、ヒッピーじみた人物から声をかけられる。彼はデヴィッド・マクスウェル(マックス)と名乗るアメリカ人で、いずれインドで再会し彼の登山隊に筧井が参加することを予言して去る。
 ネパールでの登山を終えてカトマンドゥに戻ってきた筧井は、偶然にもデリーに行かなければならなくなり、そこでマックスの予言を思い出す。マックスを訪ねていった筧井を待っていたのは、日本人クライマーである加藤由紀だった。彼女もまた、マックスの誘いで登山隊に加わることになったのである。
 彼らが挑戦する山はヒマラヤのヴァジュラカン峰。気心のしれないイギリス人二名と即席で三国合同の登山隊を組むという。イギリス隊のリーダーはジョージ・フェアリングというアルピニスト。もう一人は若いクライマーでデニス・ワーウィック。デニスはまだ十代であった。
 筧井は、マックスの吸う水パイプの煙にまかれ、幻覚を見る。彼は自分でない何者かになり、吹雪く山の氷壁で遭難しかけている。その命を握るのはわずかに一本のロープだけである。しかも、彼とペアを組んでいる相手はその命綱を切ろうとしていた。
 幻覚からさめた筧井は、由紀とジョージが激しい口論をしているのを止めに入る。冷静なはずの由紀はなぜかヒステリックになり、ジョージをののしるのである。結局、彼らの登山隊はイギリス隊、日本隊、そしてマックスの三チームに別れて登頂することになった。筧井はデニスと話す機会を持つ。そこで明らかになったのは、由紀がイギリス隊のとるべきルートとして危険度の高いジャンクション・ピークをジョージに提言したことがトラブルの始まりであったこと、そしてデニスの兄マシュウがかつてジョージの登山のパートナーであったことなどであった。
 由紀は筧井の予定をはるかにこえるスピードで登山していく。筧井と由紀は予定について激しい口論をするようになる。不思議なことに、筧井もまた、ジョージに対して由紀がヒステリックになったように、冷静さを欠いて由紀に抗議をする。そして、口論の最中に彼は再びあの幻覚を見る。ロープ一本で命を支えている男がとりついている氷壁は、今イギリス隊が登攀しようとしているジャンクション・ピークであった。幻覚からさめた彼は、由紀もまた彼が見たものを感じとったのではないかと推測する。彼女にはどうやらシャーマン的な体質が備わっているようなのである。
 自分が見たものが未来の予測であるとすれば……。イギリス隊の遭難は必至である。彼らにできるのはただひとつ。イギリス隊の先回りをしてジャンクション・ピークに一刻も早くたどりつき、その遭難を防ぐことしかない。そう判断した筧井と由紀は常識外のスピードで登攀を始めるが……。
 ここから先の展開はご自分の目で確かめていただくとして、クライマーたちの人間関係の葛藤や苛酷な登攀の細密な描写が一気呵成に物語を進めていくとだけ記しておこう。
 これまでの谷甲州の山岳小説は、前述の『白き嶺の男』にしても、『遥かなり神々の座』(1990/ハヤカワ文庫JA)やその続篇にあたる『神々の座を越えて』(1996/同)にしても、主人公は現実的な理由から(山岳会の登山計画、中国とチベットの独立闘争など)好むと好まざるとに関わらず厳しい登攀を余儀無くされた。ところが、『天を越える旅人』(1994/同)では、主人公はラマ僧で、自分の前世を確かめるために登山をし、そこでの極限体験から宇宙の真理を探っていく。同じように自分の意志ではなく登攀をするのだが、人為的な理由、強制的な行為から、人知を超えた運命的なものへの転換がはかられていることがわかる。
 本書における鍵となる人物はなんといってもマックスであろう。この正体不明の予言者(?)は、運命の意図を操るかのように登山隊のメンバーを集め、主人公には予知夢を見せ、そのパートナーにはシャーマンとしての能力を使用させる。そして、イギリス隊の二名の運命を日本隊の二名が変えようと動くお膳立てをするのである。
 このマックスとは何者だろうか。本書の冒頭ではヒッピーのような人物として登場し、物語の重要な場面にのみ現れ、主人公たちを導いていく。
 私はこの解説のはじめに書いた。
 山には、何かしら、力がある。
 それを踏まえた上で、マックスこそは、山の持つ力を顕現した存在なのではないだろうか、と思わずにはいられない。
 筧井や由紀もまた、山の持つ力によって未来視をしたりシャーマン的な言動をとったりする。『天を越える旅人』では山は主人公が悟りを開くための舞台装置であった。しかし、本書において、山はただ舞台であることをやめ、登場人物の運命を操っていく主体となってきたのではないか。
 ただ、こういう設定の小説の場合、絵空事として一笑に付されてしまう可能性もないわけではない。ところが、谷甲州はその抜群といっていい細密描写で、この幻想小説に驚くばかりのリアリティをもたせているのである。
 私は以前『天を越える旅人』について評したことがあるが、本書におけるリアリティにも共通しているので、そのまま引用する。

「名人といわれる落語家が夏の盛りに『鰍沢』というような冬の雪中行を描いた落語を演じたら、汗をだらだらかいている観客でさえ思わず寒気を感じて襟元をかきあわせてしまうのだそうだ。それが”芸”というものの持つ力なのだとしたら、本書における作者はまさしくそれに匹敵する”芸”を見せつけたということになるだろう」(SFマガジン二○○五年二月号「濃密な仏教的世界観」より)

 本書を支えるのは、ヒマラヤでならそういうことも起こり得るだろうと思わせる説得力なのである。
 実際、私はこの解説を書くために、夏の猛暑の中、谷甲州の山岳小説を立て続けに読み返したのだが、汗をかきながら読んでるにもかかわらず、「寒さ」をはっきりと感じたのである。
 さらに、山というものを通じて生まれる連帯感というものを重視しているのも、本書の特徴だろう。単独行にこだわる孤独なクライマーの姿よりも、チームを組むことによって生じる葛藤と、それを経て形を結ぶようになる協力関係の重要性。ここまではっきりとテーマとしてこの連帯感を打ち出したのは谷甲州の山岳小説では本書が初めてではないだろうか。そういう意味において、作者にとっての分岐点となる作品として、本書の持つ意味は大きいと思うのである。
 願わくば、読者の方々も、本書から山の持つ力を受け取っていただきたい。本格的な登山には全く縁のない私であるが、知らないはずの山の厳しさを、自分もまた体験したような気になったのだから。
 優れた小説には、それだけの力があるのだ。

(2005年8月記)

(谷甲州「ジャンキー・ジャンクション」〈ハヤカワ文庫JA〉解説)

附記
 山登りの経験もほとんどない私に早川書房のAさんが大胆にもノンSF山岳小説(幻想味はあるけれど)の解説を依頼してきた。そのために盆休みの期間を利用して谷さんの山岳小説を一気に数冊読み切った。書いてみれば書けるものである。依頼を受けた時は自信がなかったのに、今読み返してみてもなにやら自信満々な書きぶりである。ケーブルカーとロープウェイで山の頂上に連れていってもらうのを冬山登攀といっしょにするなと言われそうではあるが……。


目次に戻る

ホームページに戻る