ブック・レヴュー


秘境小説
何が起きてもおかしくない地を求めて

 今から二◯年くらい前、テレビの特番で『川口浩探検隊』というのがあった。俳優の故川口浩が隊長となって現代に残る秘境を探検し、幻の動物や今なお生存する原人を発見しようとする、うさんくさいといえばうさんくさいがツッコミどころ満載の楽しい番組であった。原人を発見したものの遠くにちらりとその姿を見せただけで探検隊もそれ以上その原人を追うこともしないし、次の探検の時にはそんな原人のことなんか忘れたかのように角の生えた大蛇かなんかを追っかけたりしているのであった。嘉門達夫の『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』という歌は、そんな番組をネタにした傑作であった。
 よく考えてみたら、あの時点で我々はもう既に「秘境」なるものはこの世界に存在しないと思うようになっていたのだろう。それでもまだそういうものはあってほしいという気持ちの残り香が『川口浩探検隊』だったのかもしれない。
 カーナビなどというものまで存在し、宇宙から世界各地をのぞきこむことができる現在、「人跡未踏の地」へのロマンなんてどこかに消え失せてしまったのだろうか。あるいは、発達したマスメディアと高度な情報網が「秘境」の存在を矮小化してしまったのだろうか。
 秘境が秘境らしくあった時代、二◯世紀前半くらいまでは、秘境でならば何が起こってもおかしくはなかった。たとえばハガードの一連の作品がそうだし、エドガー・ライス・バロウズの『ターザン』シリーズは全編これ密林の奥地が舞台という秘境小説の定番となっている。もう密林の向こう側ならば何が起こったって許してしまいましょうという世界である。その中で私が一番ぶっとんでると思うのは『ターザンと蟻人間』(ハヤカワ文庫特別版SF)だ。飛行機の操縦をおぼえたばかりのターザンがこれまで行ったことのない密林の奥に不時着したら、そこは女性上位の原人が住む村落であり、そこから脱出したらターザンの三分の一くらいのスケールの小人たちが社会生活を営んでいて、ターザンまでそのサイズに縮められてしまうという、もうここまでくるととても地球上のできごととは思えない設定なのである。ストーリーはもちろんターザンが苦境を脱して小人たちの社会に安定をもたらすという読者の期待を裏切らない展開になっていくわけだが。ともかく「秘境」というだけでこういった設定が許されたおおらかな時代があったのである。
 日本でも戦前には蘭郁二郎や南洋一郎などの秘境冒険小説の書き手が頻出しているところをみると、「秘境」への憧れは国際的なものだったのだろう。その中では小栗虫太郎の『人外魔境』(角川ホラー文庫)が面白い。秘境で尋常ならざるものを発見することにのみ情熱を燃やす人物折竹孫七が世界をまたにかけてあらゆる謎にぶつかっていく。エキゾチックなものへの憧れというのか、異形への好奇心というのか。
 戦後になると、SFというジャンルが確立されたということもあって、こういった古典的な作品を発表するのは香山滋くらいにとどまっていた。しかし、高度経済成長時代が終わった頃、SF界の俊英によって古典的秘境小説へのオマージュのような作品が書かれることになる。山田正紀の『崑崙遊撃隊』や『ツングース特命隊』(どちらもハルキ文庫)である。山田正紀の工夫は、舞台を昭和初期や明治末期といった秘境が秘境らしかった時代においたことにある。例えば前者では死んだ恋人が残した「崑崙」という言葉を手がかりに主人公が砂漠のどこかにある幻の都市を探し求める。後者では軍の組織の密命を受けた元軍人がシベリアに何かが落下して起こったツングースの大爆発を調査にいき地下にある伝説の地を探検する。そこには大陸浪人や馬賊なども加えてその時代の雰囲気をつとめて再現しようとしている。むろん山田正紀らしく最後には壮大なSFになっていくのだが、結局古典的な秘境小説を再現しようとすると舞台もその最盛期に置かなければならないということになるのだろう。その後、横田順彌が得意の明治ものでこういった形の作品をいくつか書いているし、最近では赤城毅が書き継いでいる。しかし、どうしてもただ秘境に行って冒険するだけではちょっと苦しいのも事実だ。なにかひねりがないと類型的なものに終わってしまいがちになるのだ。大ヒットしたスピルバーグの映画『インディ・ジョーンズ』のシリーズも、舞台は第二次大戦直前であった。ということは、これはもう日本だけの傾向というわけではないのだろう。
 となると、現代を舞台にした秘境冒険小説はやはり『川口浩探検隊』的なものにならざるを得ない。清水義範は『大探検記 遥か幻のモンデルカ』(集英社文庫)でマスメディアによって矮小化された秘境の世界を描いている。テレビスタッフや雑誌取材主導で行われる探検は、その皮肉な結末も含めて現代社会において「秘境」なるものが成立しにくくなっていることをはっきりとあらわしている。「秘境」はもうパロディの対象としてしか成立し得ないのだろうか。
 最近の出版傾向からいうと、未知の世界への探究心はいくぶんオカルトに傾斜しているように思える。現代人にとっての極地は、物理的な世界ではなく霊的な世界なのかもしれない。それはそれで寂しいことではある。

(「本の雑誌」2002年10月号掲載)

附記
 「本の雑誌」の特集「活字の極地探検隊!」の原稿を依頼され書いたもの。ほかには「山岳ヨロメキ小説」(柿沼瑛子)「宇宙の果てまでひとっ飛び」(牧眞司)「地底・海底小説」(香山二三郎)「誰も辿り着けないところ」(豊崎由美)が「極地」として挙げられていた。


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