ブック・レヴュー


歴史を変えるということ−日本架空戦史総括

はじめに

 「歴史に“もし”は禁物だ」といわれる。歴史というのは既に起こってしまった事柄である。我々にとっては残された史料から歴史の真実を探り、あるいは現代的視点で解釈し直すことのみが許されることで、ありもしなかった歴史をまことしやかにでっちあげるのはご法度だということだ。
 歴史小説の足かせは実にここにある。作家が「真珠湾攻撃でハワイ基地を徹底的にたたいておけば、太平洋戦争はもっと日本に有利に展開しただろうに」と考えても、史実としてはそうでなかったのだから、戦記小説では史実通りに戦闘を展開させ、そこにいたる司令官や兵隊たちの姿を自分なりの解釈で描いていくしかない。
 また、歴史はただ“もうすんでしまったこと”ではなく現在につながるものであり、“現在”というこの瞬間もやがては“歴史”になってしまう。したがって、現在の社会が抱えている諸問題を解決しようとするならば、歴史をさかのぼりその原因を探り出さなくてはならない。その際に歴史の再点検や再評価は行われるが、歴史そのものを変えてしまうわけにはいかない。
 SFマガジンの読者の中に歴史小説や時代小説のファンがどれだけいるかはわからないが、ファンならわかるだろう。歴史小説や時代小説の書き手が史実を掘り下げながらどれだけ必死に自分なりの味つけをしようとしているか、を。
 歴史というものは本当に変えてはいけないものなのだろうか?歴史を改変することによって見えてくるものがありはしないか。SFという手法を使えば、それはできるのではないだろうか。
 日本SFにおける“歴史改変”の流れをたどれば、そういう試みをいろいろな作家が行ってきたことがわかる。
 特に九◯年代になり突如巻き起こった架空戦史小説のブームでは、そういう試みと同時に改変された世界それ自体を楽しむような傾向も見られるようになった。これは海外SFの改変世界ものに通じるといえるかもしれない。とはいえ、ブームの起こった経緯を考えるとそこには日本独自の流れがあるといえよう。日本SFの場合、歴史改変の持つ意味合いは幾分海外とは異なるのではないか。
 そこで、本稿では歴史改変をテーマにした日本の小説の代表作を取り上げ、歴史改変小説の意義を考えていくことにする。どれもご一読をお薦めするものばかりで、ブックガイドとして活用していただければ幸いである。

日本SFと歴史改変

 第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)がどれだけ日本という国家にとって重要な意味を持つかは計り知れない。戦後生まれの高度経済成長下育ちの私でさえそう感じるのだから、戦前・戦中派の人々にとってはなおさらであろう。
 戦後多くの欧米文化・文明が日本に流入してきた。SFもまたその一つで、それは戦前・戦中の科学小説や軍事冒険小説とは一線を画したものであったことは、矢野徹をはじめとするSF第一世代の作家たちが書いた文章を読めば、そこから受けたショックを含め、戦後世代にも想像がつく。
 戦後の日本SFは『宇宙塵』出身の作家たち=「ハヤカワSFコンテスト」出身の作家たちの活躍から始まったことはご存知のとおり。「SFコンテスト」で賞を受けた作家は『宇宙塵』からも声がかかって作品を発表した。そんな作品の一つに小松左京の「地には平和を」(角川文庫『召集令状』所収)がある。ポツダム宣言受諾時にクーデターが起こり本土決戦に突入した世界での一兵士の動きを軸に、歴史改変をもくろむマッドサイエンティストとタイムパトロールの論争をはさんで、歴史改変の意義を問うた傑作である。日本SF草創期に既に現在のブームで問われるべき問題を取り上げた作品が書かれていることに注目しなければならない。
 小松左京は昭和ヒトケタ世代である。少国民として教育を受け、国のために死ぬことを当然のこととして育った少年が、敗戦を機に百八十度転換した社会に対し自分の中で何らかの形で決着をつけておきたかったであろうことは想像に難くない。SFの手法を使えばタブーであるはずの歴史改変も許される。本土決戦の続いた改変世界を設定することにより、自分たちが戦時中に置かれていた状況というものを問い直すことができたのである。小松左京にとっての“歴史改変”は自分の体験した“戦争”を位置づけるための手段の一つであったといえよう。実際、小松左京はさまざまなSFの手法を用いて戦争それ自体または戦争によって引き起こされる悲喜劇を幾度となく書き続けている。
 改変世界SFを精力的に書いていったのが豊田有恒である。代表作として『モンゴルの残光』(ハヤカワ文庫JA/講談社文庫)を挙げたい。豊田有恒のテーマは白人優位の文明に対する疑念である。『モンゴルの残光』では、アジア人の支配する世界に住む白人の主人公がタイムマシンで元朝末期の時代に行き、歴史に介入する。その結果、世界は改変され元は滅亡してしまう。主人公はタイムパトロールに連れ戻されるが、自分が改変した世界が正しい歴史世界とされてしまっており、その世界もまたアジア人と白人の立場が逆転しただけでしかなかった。歴史を改変しても人間の愚かさは変わることがないという主張に満ちあふれている。豊田有恒はほかにも『タイムスリップ大戦争』『パラレルワールド大戦争』(いずれも角川文庫)などで同じテーマを扱っている。
 半村良の『戦国自衛隊』(ハヤカワ文庫JA/角川文庫)は、改変世界小説の最高傑作の一つである。自衛隊の一部隊が突如タイムスリップして戦国の世に放り込まれる。歴史を自分たちの手で改変しようとした隊員たちであったが、結局、自分たちが歴史上の人物とその役割を交代しただけで歴史の大きな流れには抗えなかったのである。
 これら第一世代のSF作家に共通するのは歴史を巨視的にとらえ、個人が介入して歴史の表層的な部分は改変されても本質は変わっていないという点にある。P・アンダースン『タイム・パトロール』、P・K・ディック『高い城の男』の影響もうかがえよう。
 これに対し、ミステリ作家による改変世界小説へのアプローチも無視できない。高木彬光『連合艦隊ついに勝つ』(角川文庫)がそうである。これこそ現在の戦記シミュレーションのルーツといえる作品である。史実を知っている人間がタイムスリップして戦闘のポイントに立ち会い、後世“あの時こう戦っていれば戦局は変化していたはずだ”といわれている通りに作戦を展開させる。高木彬光はミステリ作家らしく論理的に戦闘をシミュレートし、日本の敗戦は避け得ないという結論を導き出している。結局歴史は変わらないという点においてはSF作家のそれと同じであるが、かなり微視的な視点に立ち、歴史の本質を見つめるよりも戦闘の経緯を重視している。そこには歴史を変えることへの抵抗よりも、歴史の一コマを“改変”という形で新たな解釈を加えようという姿勢が感じられる。
 それをもっと徹底したのが檜山良昭の『日本本土決戦』(光文社文庫)である。小松左京が“マッドサイエンティストによる歴史介入”という手続きを踏んで本土決戦を描いたのに対し、檜山良昭は実際に本土決戦があったものであるかのように小説を書いた。“あり得たかもしれないもう一つの歴史”をドキュメンタリー的に描き出したのである。これは檜山良昭が『スターリン暗殺計画』(中央公論社Cノベルズ)など、ミステリの手法を用いたドキュメント小説で評価を得ていたことと無関係ではあるまい。歴史改変の結果生じるであろう新たな世界については、本作品では(おそらく意識的に)触れていない。檜山良昭にとって重要であったのはそこから先よりも“本土決戦”という状況それ自体を描くことにあったのである。以後、『アメリカ本土決戦』『ソ連本土決戦』(いずれも光文社文庫)とこの路線を押し進め『大逆転!ミッドウェー海戦』(光文社文庫)から始まる『大逆転!』シリーズではタイムスリップという手続きを踏んで歴史を変えるようになったが、基本的な姿勢は変化していない。
 一九八◯年代までの改変世界小説にはこういった二つの流れがあった。それは九◯年代に入って起きた「架空戦史」ブームへとつながる流れでもある。

架空戦史ブームの現状

 「冷たい戦争」があった。米ソ両大国を軸にした東西両陣営の睨み合いはソ連崩壊まで続いた。森詠をはじめとするポリティカル・フィクションの書き手たちは「近未来小説」という形で第三次世界大戦を予測する小説を量産していった。そのような作品群の中に、『ニセコ要塞1986』(中公文庫)があった。著者は荒巻義雄。伝奇ロマンを書き続けてきた荒巻義雄が、なぜ近未来小説に手を染めたのか。それは彼が北海道在住であったからにほかならない。冷戦時代、常に“北の脅威”にさらされ続けていた危機感が、彼の関心を戦争や平和の問題に導いていったのである。激動する世界情勢の中で「近未来小説」の限界を悟った荒巻義雄は、歴史を改変することによって現在の世界情勢を問い直すようになる。その結実が『紺碧の艦隊』(トクマノベルス)と『旭日の艦隊』(中央公論社Cノベルズ)の両シリーズである。山本五十六が日露戦争時にタイムスリップし、自らの手で歴史のやり直しを決意するという発端。そして、同じように転移してきた仲間たちとともに大胆な歴史改変を行う展開は、これまでの改変世界小説よりも強いメッセージ性を帯びたものとなっていく。それは荒巻義雄の壮大な実験といっていい。当初は「いかに上手に負けるか」という戦略論が主眼であったこのシリーズも、現在は近代思想から地政学をおりこんだ政治論小説に変わってきている。歴史の本質を見据え、改変することによってそれをあぶり出そうとする姿勢は、スペキュレイティヴ・フィクションとしてのSFを想起させるのである。
 八◯年代半ばに開始された川又千秋の『ラバウル烈風空戦録』シリーズ(中央公論社Cノベルズ)もまた、冷戦時代に始まったシリーズであるが、幻の戦闘機「烈風」を軸に展開するストーリー展開は冒険小説の書き手としても定評のある川又千秋ならではの作品である。幼い頃から模型少年であったという彼の思い。そして、やはり北海道で“北の脅威”を体験している故におそらくあったに違いない戦争について身近に考える機会。そこから生じる戦闘機への憧憬と戦争への脅威感という矛盾する感情は、架空戦史という形で戦争の意味を問うことによって彼自身の中で解決すべきものなのかもしれない。
 谷甲州の『覇者の戦塵』シリーズ(カドカワノベルズ)は、小さな要素の積み重ねが知らぬ間に歴史を大きく動かしていくという構成をとっているが、その節目節目に現れる謎の人物が狂言回しよろしく主人公たちに歴史が変わったことを示唆する。まだ未完のこのシリーズで、最後にこの人物がどのような働きをすることになるのか。それが鍵となるだろう。しかし、この人物の存在のおかげでシリーズは単なるシミュレーションではなくなり、歴史を巨視的にとらえたものと感じさせてくれていることは間違いない。
 山田正紀は『機神兵団』(中央公論社Cノベルズ)と『影の艦隊』(トクマノベルズ)の二つの長編で巧妙な手法をとった。この二作は、我々の知る歴史ではないパラレル・ワールドであり、その点では架空戦史に分類してよい。しかし、完結したところでもう一度読み返すと、これらが『神狩り』(ハヤカワ文庫JA)以来幾度となく繰り返されてきた人知を超えたものへの人類の戦いの一環としてとらえるべきものだということが解ってくる。そういう意味で、山田正紀は架空戦史の手法を逆手にとって本格SFを書こうとした作家といえるだろう。
 田中光二の『新・太平洋戦記』シリーズ(光文社カッパノベルズ)第一巻『連合艦隊大奇襲』著者あとがきは、そういう意味ではSF作家の架空戦史に対する考え方をはっきり示したものといえるだろう。ここで田中光二は「改変した歴史への責任」を強調している。架空戦史ブームの中で、歴史を変えたはよいがただそれだけで終わってしまい読み手に問いかけるものがあまりにも感じられない作品が多いのを憂いての発言であろう。巨視的な問題意識なくして歴史を改変できないSF作家ならではの伝統といえばよいか。
 『紺碧の艦隊』の大ヒットは、新たな架空戦史小説の書き手を要求した。志望田景樹・谷恒生・柘植久慶・辻真先といったSF作家以外のベテランの起用もさることながら、新人作家の台頭に注目したい。架空戦史をSFから離れた新たなジャンルとして確立してきたのは新人たちの既製のジャンルにとらわれない感覚があればこそなのだ。そこで、注目すべき作家をしぼって紹介していくことにしよう。
 『征途』(トクマノベルス)で登場した佐藤大輔は、異色作家といえよう。八◯年代から流行し出したゲームという新しいジャンルは、ボード上のシミュレーションやゲーム小説を皮切りにテーブルトーク、コンピュータゲームと様々な形でファン層を拡大していった。そして、それらゲームのシナリオを書くゲーム作家たちが小説に参入してくることになる。佐藤大輔もその一人で、自ら小説化した『レッドサン・ブラッククロス』(徳間文庫)も含め、ウォー・ゲームのヒット作を持つ彼は、歴史の枠組みを大きく変え、その結果改変された世界の状況をも論理的に導き出していく。その改変の仕方は徹底的で小気味よい。小説では細部にいろいろな遊びを入れ、読み手を飽きさせない。彼にとって歴史改変に手続きなどいらない。ゲームの一素材として歴史を扱っている以上、そのようなこだわりは無用と考えているかのようだ。ただし、改変するにあたっては常に現実の歴史、特に冷戦というものを歴史上の事柄として冷徹に見つめ、必ず史観の中心に置くようにしている。そのこだわりはどこから来るものなのか。今後の作品に注目していきたい。
 横山信義の場合は佐藤大輔と異なり、ゲーム性を廃したところにその特徴がある。正攻法というべきか。歴史の枠組みを大きく逸脱することはないが、歴史に対して真正面に向き合い恣意的な改変を避け、本当にあったかのように物語を紡ぎ出していく。『八八艦隊物語』(トクマノベルス)での戦闘シーンの迫力は他の追随を許さない。やはり巨視的な視点から戦争を描いているのである。
 伊吹秀明は『氷山空母を撃沈せよ!』(トクマノベルス)で架空戦史ならではの超兵器を活躍させた。兵器などへの夢を描く場として架空戦史を選んだといえるだろう。もっともそのためには他の部分での考証に正確を期さねばならない。そのためか最近の伊吹秀明はごくオーソドックスなシミュレーションに徹しているようだ。
 青山智樹の『原潜伊602号浮上せり』(ケイブンシャノベルズ)を読むと、架空戦史が現在起きている社会的問題の矛盾点をえぐり出すために有効な手段として発展し得ることを確信できる。執筆を重ねるごとにそういった面を強めている作家である。
 『青き波濤』(ワニノベルズ)、『鋼鉄の嵐』(サンマークノベルズ)で「シム・シビライズ」という読者参加型の架空戦史を創造した羅門祐人については、作家の手腕が問われる。よりマニアックになっていき歴史改変小説が結局一部の人間の間だけでしか評価され得ないものになっていく危険性を孕んでいるからだ。
 その他、『破 三国志』(学習研究社歴史群像新書)の桐野作人、『異 戦国志』(学習研究社歴史群像新書)の仲路さとるたちのように改変された世界それ自体を描くことを楽しむ作家たちの活躍や、『レヴァイアサン戦記』(徳間文庫)『わたしのファルコン』(朝日ソノラマ文庫)の夏見正隆のように改変世界の設定のもとに怪獣小説を書くという遊び心に満ちた作家の登場にも触れておきたいが、紙数が尽きた。これらについては別の機会に(あるのか?)譲りたい。

おわりに

 現在の改変世界小説の状況は、手法としては高木彬光や檜山良昭の流れをくむものといえる。ただ、ブームの火つけ役が荒巻義雄であったことを想起してほしい。ここであげた書き手たちは歴史改変という手段を用いて自分たちの持つテーマを確かな史観をもとに描きあげている。既存のSF作家だけでなく、新たに登場した作家も。小松左京たちからの流れがそこに融合しているとはいえまいか。
 歴史を変えて何がそんなに面白いのか。歴史を変えてまで書きたいものがあるのか。ブームが過ぎ去りSFの亜流でない成熟した一つのジャンルとして架空戦史が定着した時、問われるのはそこだろう。歴史を、そして現代世界を批評する手段の一つとして、日本の改変世界小説が位置づけられることが予想される。その将来に期待していきたい。

(「S−Fマガジン」1996年3月号掲載)

附記
 「歴史改変特集」ということで、日本における歴史改変小説の流れを架空戦記小説の現状もふまえてまとめてほしいという依頼があり、自分なりに一度覚え書きみたいなものを書いておきたかったので、実にいい機会を与えてもらったと、今も編集部には感謝している。
 これに毎年の年間総括と1998年12月に行った「京都SFフェスティバル」での「さらば架空戦記」と題した講演を加えれば、架空戦記小説の大まかな流れはつかめるはずだと自負している。
 書く作品の分析などをもっとじっくり掘り下げれば、おそらく一冊の本にまとめられるくらいの分量にはなるだろう。一度取り組んでみたいテーマではあるが、時間的にできるかどうか。


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