ブック・レヴュー


「ラッキー・ストライク」解説

 アメリカ人にとって原爆の投下というのはかなりデリケートな問題としてとらえられているようである。1995年、スミソニアン博物館では戦後50年を記念して戦争展を行ったが、展示の目玉は10年の歳月をかけて修復したB29「エノラ・ゲイ」と広島と長崎から借り受けた被爆関係の写真や遺品であった。企画段階ではこれらの展示を通じて核兵器の生み出す被害とそれが冷戦時代を引き起こした事実を多くの人々に知ってもらおうという意図があったそうだ。ところが、この企画にクレームをつけた人々がいた。退役軍人組織「アメリカン・リージョン」を中心とする人々である。彼等は言う。「『エノラ・ゲイ』と原子爆弾は、100万人のアメリカ人の命を救った」と。つまり、広島と長崎に原爆を投下しなければ、日米戦は日本本土決戦となり、一億玉砕を唱える日本人たちを完全に降参させるためには、米兵100万人の犠牲を必要としたであろう。原爆投下の是非を言う前に、あの戦争を引き起こしたのは日本の卑劣な真珠湾攻撃なのだから、原爆で日本人が死んだのは自業自得なのだ。日本人は中国でもっとひどいことをしている。真珠湾攻撃もバターン死の行進も南京大虐殺も展示せず、原爆投下だけを悪者扱いにする展示には反対だ、というわけである。
 戦争が政治の延長線にあることを考えれば、真珠湾攻撃の前には「ハル・ノート」を展示すべきだろうし、バターン死の行進の前にはマッカーサーが兵士を見殺しにして逃げた舟艇を展示すべきだろうし、南京大虐殺の前には蒋介石軍の日本人虐殺も展示すべきなのだが、そんなことを言っててはキリがない。
 ともあれ、事態はスミソニアン博物館の意図から大きく離れてしまった。退役軍人たちの訴えはマスコミを通じて多くの賛同を生み、世論は議会を動かし、上院議員たちは内容の変更を決議し、展示は原爆の被害を伝えるものをすべてカットし、「エノラ・ゲイ展」として、退役軍人を賞賛する内容に変更となった。
 退役軍人たちのヒステリックな反論、議会からの歴史観の押しつけなど、この展示がアメリカという国に投げかけた波紋は大きく、学者たちや良識あるマスコミはこれらの動きにたいし、言論弾圧であり表現の自由をおかすものとして新たな動きを見せているそうである。ただ、この一連の事件で明らかにされたことは、普通のアメリカ人は原爆投下を正当化していること、特に退役軍人たちにとっては議会に訴えかけることまでしてでも正当化しなければならないことだった、ということであろう。
 しかし、SF作家までがそのような感情的な自己正当化に流されることはないことを本作品『ラッキー・ストライク』は示している。『荒れた岸辺』(ハヤカワ文庫SF)の作者であるキム・スタンリー・ロビンスンならではの着眼点で原爆投下に対する人道的批判が行われていると言っていい。
 そもそも原子爆弾製造を目的とした「マンハッタン計画」の対象は日本ではなかったのである。アインシュタインがルーズヴェルト大統領に送った手紙には、ナチス・ドイツが原子爆弾という悪魔の兵器を手にする前に連合国が開発し、ヒトラーの野望をくい止めるべきだというものであった。ニューメキシコ州ロス・アラモスで極秘に進められたこの計画の全貌を知っている者はほんの一握り−ルーズヴェルト大統領、スチムソン陸軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、そして総責任者のグローヴス准将−だけであり、トルーマン副大統領もアイゼンハワーもマッカーサーも計画の存在すら知らなかった。原爆の開発にはオッペンハイマー、フェルミといった世界的な物理学者たちがあたった。
 実は、歴史改変小説では「マンハッタン計画」の時点でこれをくい止めるという形のものが多いのである。荒巻義雄『紺碧の艦隊』(トクマノベルス)では密偵本郷義昭がキャッチした情報をもとに爆撃機がロス・アラモスを奇襲攻撃し、原爆開発を遅らせる。青山智樹『原潜伊602号浮上せり』(ケイブンシャノベルス)では日本の原子力潜水艦開発と「マンハッタン計画」の動きを軸に、そこで働く科学者たちが原爆開発を阻止しようとする動きを描いている。
 国内作品だけではない。アンダースン&ビースン『臨界のパラドックス』(ハヤカワ文庫SF)の場合は、現代の反核運動家が計画当時のロス・アラモスにタイム・スリップし、計画に入り込んで歴史を改変している。原爆ができてしまってからでは遅い。この悪魔の玩具を手中にした瞬間、権力者はそれを使わずにはいられまいということだろうか。
 さて、原爆が完成した時、ドイツは既に降伏、日本はサイパン、硫黄島と全滅。米軍はカーティス・ルメイ少将の指揮のもと、B29による大都市空襲を始めていた。ルメイはドイツ空襲にも功を挙げた空襲の専門家であり、原爆投下も彼の指揮に委ねられることとなった。日本は追い詰められていた。米軍と戦う戦力は既になかった。鈴木貫太郎首相は和平工作を行っていた。不可侵条約を結んでいるソビエト連邦を通じて英米と話をつけようというのである。降伏の条件は、天皇制の維持(いわゆる“国体の護持”ですね)である。しかし、ソ連は既に対日参戦を決めていたからこの和平工作には乗らない。徹底抗戦を叫ぶのは一部の意固地になった陸軍軍人だけでしかなかった。ソ連参戦の効果を考えると、たとえ原爆を投下せず本土決戦となったとしても、米軍兵士が100万人も犠牲になる可能性はなかったと言っていい。
 ルーズヴェルトの急死で大統領に昇格したトルーマンは、原爆を終戦後にアメリカが世界の主導権を握るための切り札とすべく、日本に投下し、アメリカの力を世界各国に示すとともに、日本を敗戦に導いたのはアメリカであることを印象づけようとしたのだ。
 マリアナ諸島のテニアン基地に集められた原爆投下スタッフ第509混成部隊は、ルメイの指揮下で訓練を重ね、日本がポツダム宣言を黙殺−英訳では拒否−したと同時に原爆の投下は一気に実現されることになった。部隊長ポール・ティベッツ大佐はB29「エノラ・ゲイ」(文中でも触れられているように彼の母親の名から命名された)で「リトルボーイ」と名づけられたウラニウム爆弾を1945年8月6日午前8時15分、広島上空3万フィートの高さから投下、爆発させたのである。
 8月9日(ソ連参戦と同日)、スゥィニー機長搭乗のB29「ボックス・カー」から「ファットマン」と名づけられたプルトニウム爆弾が長崎に投下され、8月10日の御前会議にて昭和天皇の「聖断」でポツダム宣言受諾が決定され、軍部の一部の反対で正式受諾はずれこんだものの8月14日の御前会議で正式決定、そして15日の正午には「玉音放送」で国民にポツダム宣言受諾の詔勅が朗読されたのはご存知の通りである。
 さて、本作では事故により「エノラ・ゲイ」が山中で遭難、替わりに「ラッキー・ストライク」と名づけられたB29が原爆投下の任にあたることになる。「ラッキー・ストライク」といえば現在も販売されているアメリカ産紙巻き煙草の代表的なものだが直訳すれば、「運のよい爆撃」となる。搭乗者の愛飲する煙草を愛称として使うということはありそうな話だが、そこに原爆投下による歴史改変をひっかけた、なかなか味なタイトルとは言えまいか。もちろん、史実では前述の通り「エノラ・ゲイ」が原爆を落としたわけで、「ラッキー・ストライク」なる爆撃機は作者ロビンスンの創作である。ティベッツは実在するが、主人公ジャニュアリーをはじめとするクルーは創作である。スイーニーという人物が会話の中に登場するが、長崎に原爆を投下した機長と同一人物なのかは不明である。
 作中、主人公が日本人に対して「自業自得だ」と呪う場面があるが、前述の通り、退役軍人たちは原爆の投下を正当化しているのだから、おそらくロビンスンはそういった点を踏まえてこう言わせているのであろう。しかし、現実に原爆投下に関わった退役軍人たちは比較的冷静に「あれは命令だったんだから」と発言している。果たして、本作のジァニュアリーのように煩悶していたのかどうか、公式な発言からはうかがい知れない。
 もちろん、このような煩悶の結果、歴史が改変されるのだから「もしこんな風に苦しむ兵士がいたら」という仮定の話であっても構わないわけだ。
 原爆投下の失敗による改変世界小説というのは、意外に少ない。というのも、たとえ大都市に投下されなくとも放射能による被害はあるわけで、歴史改変の鍵にはなりにくいからであろう。特に、日本の架空戦史小説は戦争の勝敗にこだわりがちだから、本作のように、戦争の勝敗とは違った意味合いを持つ勝利者の物語というものはあまり考えられないのだ。
 原爆投下を効果的に描いているのは横山信義『砂塵燃ゆ』(カドカワノベルズ)であろう。物語自体はロンメル将軍の活躍によりドイツが第二次世界大戦に勝利するというものなのだが、同盟国の日本が火事場泥棒的にドイツの勝利に便乗し、その結果、ティベッツの搭乗する「エノラ・ゲイ」によってしっぺ返しを食らうという結末が待っている。
 原爆をはじめとする核兵器のことを一貫して「反応兵器」と表記しているのは佐藤大輔だが、彼の場合は歴史の大枠が変更されているので、広島への原爆投下という一場面だけで論じることはできない。むしろ、冷戦時代の宇宙開発を題材にした『遥かなる星』(トクマノベルス)で、史実では使われることのなかった「反応兵器」がアメリカに投下される展開などに、作者の核兵器に対する考え方が反映されていて興味深い。
 恐ろしいのは霧島那智の『烈将の艦隊』(廣済堂ブルーブックス)である。なにしろ日米ソ各国が鳥が野糞を垂れるように原爆をばらまきあうという展開になるのだ。しかも、そうやって世界中を放射能漬けにした後のことは何も書いていない。
 本作品が書かれた1984年は、アメリカ大統領レーガンが再選され、ソ連に対する強硬的な態度を改め始め、ソ連もブレジネフの死後、アンドロポフ、チェルネンコと次々と指導者が変わり、戦後40年を目前にして冷戦体制の見直しが盛んになっていった時期である。
 本作には米ソの雪解けという時代背景、戦後40年の区切り、第二次世界大戦を純粋に歴史としてとらえられる戦後生まれの作家としての在り方などが感じられ、それまでの核戦争によりミュータントが生まれたり世界が滅びたりするような古典的SF小説との肌ざわりの違いとでもいったものを感じさせる。
 改変された世界はかなり理想的で、楽観的に過ぎなくもない。しかし、一人の兵士の煩悶が大きく歴史を変えてしまうという、そこに改変世界小説の楽しみがあることも事実。 また、これは読者の歴史観を問う作品とも言えよう。本稿で示したような歴史的背景、作品の書かれた時代背景を頭において読んでみると、一つの場面ごとにいろいろな隠喩が含まれていることがわかるだろう。

参考文献
朝日新聞社編『二十世紀の千人』(朝日新聞社)
児島襄『太平洋戦争 上・下』(中公新書)
斉藤道雄『原爆神話の五◯年』(中公新書)
伊東壮『新版1945年8月6日』(岩波ジュニア新書)

(「S−Fマガジン」1996年9月号掲載)

附記
 キム・スタンリー・ロビンスン「ラッキー・ストライク」(後藤安雄訳)の舞台背景と歴史改変小説をからませた解説を、という依頼を受けて書いたもの。かなり枚数を与えてもらったので、いろいろと調べものをしてなるべく正確を期したつもりである。小説の解説だから、そのものを読んでもらわないとわかりにくい部分もあるだろうが、戦争のとらえ方に関する日米の違いなどをコンパクトにまとめることはできているのではないだろうか。


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