ブック・レヴュー


まず読み手を育てよ

 論争は面白い。考え方も立場も異なる者が一つのテーマを軸にあれこれ意見を開陳し、様々な角度からそのテーマを見ていき、また掘り下げていくことができるからだ。但し、野暮な足の引っ張り合いはやめましょう。外部から野次馬的に見ている分には面白いが、最終的には全滅の危険性もある。というわけで、私は今回、ヤング・アダルト小説担当の書評家、特に伝奇アクションと架空戦記を中心に扱うものとしての立場から、また、ジャンルを問わず大衆文芸を愛する者として、ささやかな一石を投じたいと思う。
 今回の論争でまずおさえておくべきは、『日本経済新聞』に掲載された記事と、『本の雑誌』の鏡明・高橋良平対談は切り離して考えた方がよいということだ。前者については私は読んでいないのでなんともいえないが、SFについて現状をよくわかっていない記者の手になるものであるらしいのに対し、後者は長年SFに関わってきた人たちの放談である。したがって、書き手、話し手の意図は全く違う位置から発されているはずであり、それを同列で語ることはできないだろう。その区別をしないままに論を進めると論点がぼやけてしまう。だから、私は後者の挑発にのった形で話をしていくことにしたい。
 ヤング・アダルト小説を毎月20冊平均読んでいると、一部のジャンルしか知らない書き手と読み手が狭い世界でじゃれあっているようでイライラすることがよくある。そんな中からどんなジャンルでも通用する面白さを持ったものを見つけだし紹介していくのが私の責務と心得る。だから、駄作凡作と読む前から覚悟していても読む。傑作佳作が突如として現れる可能性があるからだ。もっとも、そこに私個人の好みが入ってくるのは止むを得まい。だいたい読書というものは主観的なもので、面白さを感じる部分は人によって違うのは当たり前。誰かが「今年のSFには収穫がなかった」といい、それに対して「いや、これとこれはよかったではないか」と反論したところで、それは価値観が違うだけの話。ま、知ったかぶりをして偉そうなことをいうのはよしましょう、というだけのこと。商業出版という誰がどのような形で読んでいるのかわからない媒体では、嘘をついたらすぐばれる。自分が駄作凡作と思っている作品を他の人が「傑作だ」といった時に反論できなければ、それはプロの書き手としては失格でしょう。知らぬ間に自分の書いたものが権威づけられていることだってある。今回の論争に参加しておられる皆さんは、その点は重々ご承知のはず。鏡明さんも高橋良平さんも、確信犯ではないかと私は思っている。
 私の役割は、おそらく『SFマガジン』の読者が積極的に手に取らないと思われる作品を紹介していくことに意義があると思っている。また、ヤング・アダルト小説は意外にこれを批評する場が少ないのも事実。まともな批評の対象となっていないという現状があるようだ。作家は一部の読者のお便りと編集者の意見、友人たちの感想をもとに作品を書き続けているらしいことが、『著者あとがき』を読むとわかる。実際、面識のない作家の方から、私が書評欄でとりあげて高く評価したことに対するお礼を書いた年賀状を戴き面食らったことがある。私はただ自分が面白いと思ってそう書いただけなのだけどね。別に作家のために書評をしているつもりはなかったのだが、普段批評の対象とされない作品にスポットを当て、よりよい作品が生み出されていくことを応援するという役割もあるのだと最近は考えている。
 SFに限らず、私にとって面白い作品とはどんなものか。「批評は直感である」を信条としている私だが、その根拠をを書かないと論にならないわけで「面白いから面白いと言うとるのじゃ!」では話にならない。要は、魅力的な登場人物ががっちりした構成のもとで有機的に動いていて、うだうだ理屈を説明せず、息をもつかさぬ展開で最後まで一気に読ませてくれれば、私にとってはいうことなし。読む度に新しい発見があればなおよし。読み手によっていろいろな読み方ができればさらによし。それがSFであるかどうかにはあまりこだわっていない。
 SFとして面白いと思った作品でいえば、たいていは視点の相対化がなされているものが多いように思う。そういう意味ではSFとは「物の見方、考え方」のひとつといえる。例えば、かつて『ジュヴナイルSF』というジャンルがあり、私たち三十代の人間にとってはこれらがSFを読む取っかかりとなったものだった。眉村卓の『ねらわれた学園』『まぼろしのペンフレンド』、光瀬龍の『明日への追跡』『暁はただ銀色』、筒井康隆の『時をかける少女』などなど、いずれもTVや映画にもなった作品があった(福島正実のジュヴナイル小説が私のSF入門)。今、自分が置かれている世界は実は危ういもので異世界から侵略されたり多次元世界にスライドしてしまったりと危機的な状況がおとずれる。主人公の少年少女は自分の力でその危機を解決し、その過程で成長。多様な価値観を身につけていく。そう、ジュヴナイルの傑作には「絶対悪」なんて存在しなかったのだ。侵略する側にはそちらの価値観に基づく原因があり、それは私たちに理解できるものもあれば理解不能のものもあった。そこに奥の深い世界を、大人の世界を感じとり「SFってカッコいい!」と思ったものだ。
 そう、「大人の文化」が昔はあったのだ。今は購買力があるのが子どもたちなものだから、子ども文化が幅をきかせ、そこに大人が追随するということが多いもんね。SFがカッコ悪くなったとしたら、それは「成熟した大人の文化」などという言葉が死語になりつつある現代を象徴しているのかもしれない。
 ヤング・アダルト・伝奇アクションの最近よく見られるパターンを挙げてみよう。主人公は平凡な少年少女。彼等のまわりに常識では考えられない事件が起こって、彼等もそこに巻きこまれる。そこに現れた謎の美形の人物。彼等を助け、また主人公に不思議な力を発揮させ、事件を一時的に収める。主人公は遺伝的にあるいは霊的に過去の超人の力を引き継いでおり、その超人が過去に封じた悪の勢力が復活してきたため、覚醒しなければならない運命だと告げられる。主人公は葛藤するが、戦いを通じて覚醒し使命を自覚し悪の勢力と戦い始める。そして次巻に続く。
 「覚醒」と「絶対悪」がキーワード。かつての『ジュヴナイルSF』との一番の相違点がここにある。「覚醒」というプロセスは「今の自分は本当の自分ではない」という読者のフラストレーションを、楽をして「本当の自分」になるという形でもって願望を充足させているもののように読みとれる。しかも読者は延々と続く作品世界に浸っていればそれはそれで心地よいわけだし、作者だって一作ずつ新しい設定やキャラクターを考えずにすんで楽だし。送り手と受け手の間にいい意味であった緊張感がない。
 「大人のSF」は、このような関係を拒否するので、このようなパターンのヤング・アダルト小説の読者をストレートに「SFマガジン」の読者にするのはかなり難しいと思うのだ。
 だったら、SFを「成熟した大人の文化」の最後の砦にするという手もある。「君たち子どもにはわからない世界があるんだよ」ということ。拒否するのでもなく追従するのでもない。ヤング・アダルト小説は前記のようなものばかりでは決してないし、パターン化した世界にあきたらなくなった読者もいるだろう。その受け皿としてのSF。かつて、『SF入門』という本があった。SFは「入門」しなければならないものだったのだ。それは現在でもたいして変らんと思う。最近のSFが急に難解になったわけでは決してない。昔から難しかったのだ。SFは面白いというならば、それをサルにもわかるように語ればいい。大衆化する過程でSFの面白さを見失う危険性すらある。独善的に「SFはどうあってほしいか」を論ずるよりも、「どのような読者に自分が面白いと思うSFを読んでほしいか」ということを論議していく方が建設的になるのではないか。
 十人十色の例えもある。SFに関わる作家や翻訳家、評論家、ファン活動家、それぞれが自分の理想とするSF像を持っていることだろう。そして、それら全部を満足させ得る作品など生まれっこないのだ。いろいろな作家が自分が面白いと考えるSF小説を書く。その作品をある評者は「SFでない」と決めつけ、ある評者は「すぐれたSFだ」と賞賛する。それはそれでいいではないか。だったら、『SFマガジン』誌上で、「立体批評」のコーナーでも設けてはどうか。一冊の本について複数の評者が書評を書くのだ。賛否両論まとめて掲載すればよい。読者のSFに対する見方を深めることもできるし、批評する側も鍛えられる場となる。批評される作家にとっても試練の場となる。要はそうやって、作家を、批評する者を、そして読者を、良質なものに育てていく姿勢が必要なのではないか。確かに、現在は「SF読者を作る」時代ではない。SFというものの見方や発想の仕方は社会に浸透し、潜在的読者も多いはずである。だったら、良質な読者を育てることを考えた方がいい。
 「今時の若い者は……」といいだしたら、年をとった証拠だというが、今時の若い者は過去の名作SFを手に取る機会が少ないのでかわいそうだ。『SFガイドブック』のたぐいで推薦されたり、オールタイム・ベストとして発表される作品を読もうと思っても、品切れないしは絶版で、古本屋でバカ高い値のついたものしか入手できないとなれば、本当に面白いSFを知ろうと読みたくても、読めない。どこや、そんなことをしてるのは。あらら早川書房やないか。『復刊フェア』はいいけれど、要はそれだけ名作の品切れを放置しておいたということで、これは恥ずかしいことですぞ。売れないから売らない、それはわかるが、売ってないものをどうやって買えばいいのだ。
 さて、今回の論争について、感想めいたことを最後に書いておこう。とにかく、これを内輪もめにしない方がいい。いくら『SFマガジン』誌上で活発に論議したところで、外向けに発信されることがなければ現状を変えることはできない。実際に売れないからという理由で「SF」と銘打ってもらえないSF作品があるわけだから、そこをなんとかしなければならないのだ、要は。外向きに見えるのは『日経』の記事や『本の雑誌』の対談くらいなのだったら、もっと「こういう論争があるんですよ」ということをPRしないともったいない。そこで、『日経』の記事も含めて、今回の論争に関する一連の文章をまとめて一冊の本にするのもいい。「SFの世界で何かが起きている」ことを印象づけ、普段あまりSFに関心のない人たちにも読んでもらう。それだけでもけっこう内外にいい刺激になる。それと、編集部は『朝日新聞』の「論壇」欄あたりに投稿して、『日経』への反論を展開すべきではないか。どつかれっぱなしなんてサンドバッグやあるまいし。編集後記で反論しても、『日経』の記者は読んでいるのかな。
 それにしても、今回のこういう論争が始まったことで得をする人っているのだろうか。そこがよくわからない。したがって、この論争を奇貨として、SF全体が得をするようにもっていかないといけないのではないか。
 結局は、良質の書き手と読み手が育たないジャンルに未来はないということ。今回の論争がそのための里程標とならんことを願う。

(「S−Fマガジン」1997年7月号掲載)

附記
 「SFクズ論争」のまっただ中で「S−Fマガジン」編集長とそれについての話をしていて「それなら書きませんか」と勧められて書いたもの。「緊急フォーラム『SFの現在を考える』」と題されいろいろな人たちが意見を述べた連載の3回目になる。この時は、私の他には大原まり子、梅原克文、巽孝之といった人たちの意見が掲載された。
 私としては論争に加わるつもりではなく、なるべく建設的な意見をと思って書いた。なお、ここで提案した「立体批評」はのちに「今月のクロス・レヴュー」というコーナーに結実することになる。
 なお、『日経』の記事はこのあとすぐに読むことができたが、読んだからといって特にここに書いた私の考えを覆すほどのことはなかった。人づてに聞いたことで確証はないが、ある作家が「『日経』の記事も読んでないで論争に加わるのは意味がない」とどこかの掲示板で書いていたそうだ。だから論争に加わっていないってば。
 自分なりに書評に関する考えをまとめられたという意味でも、この記事は私にとっての転機になったのではないかと思う。


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