ぼくたちが子どもの頃は、土曜日の楽しみというとTVの笑芸番組であった。
「吉本新喜劇」、「道頓堀アワー」、「爆笑寄席」、「松竹新喜劇」などなど、上方の笑いをこれでもかこれでもかと見せつけられ、骨の髄まで笑いがしみつき、人がボケたらつっこみ、座がダレたらボケてみせるような体質にできあがっていったのだ。
そのせいか、関西人であるというだけで他の地方の人たちからは何か笑わせてくれるだろうと期待されるらしい。ラジオ「おはようパーソナリティー道上洋三です」で、道上アナウンサーがこんな話をしていた。
道上さんの息子さんは東京の大学に進学したそうだが、そこで「大阪から来たのなら、何か面白いこと言ってよ」と同じクラスの女の子に言われたという。「そんな面白いことなんか言われへん。君の顔の方がよっぽど面白いわ」と言い返すと、「そう、それ。おもしろーい」とかえって喜ばれたんだとさ。
なにか違うぞ、という気もしないではないが、まあ「大阪=お笑い」というイメージがあるようだ。完全に否定はしないけど、全てがそうととられるのも困ったものである。
いつごろからそんなイメージができたのか。これははっきりしている。横山やすし・西川きよし、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、今いくよ・くるよたちが爆発的なマンザイブームを引き起こした1980年代以降のことである。それ以前、東京の寄席番組に当時最高のコンビだったWヤングなどが出演しても、東京の観客はきょとんとして笑うこともなかったのをぼくは記憶している。
そして、1990年代に入るとなぜか「吉本新喜劇」の人気が再沸騰してきた。大阪の「花月」では新喜劇の人気が低下して解散の危機にまで追い込まれたのが、ヴェテランの岡八郎や花紀京、船場太郎、山田スミ子たちがやめていき、それまで脇役であった池乃めだか、島木譲二、チャーリー浜などが座長格となってリニューアルしてからの話である。若手だった石田靖、内場隆則、辻本茂雄、未知やすえ、島田珠代らも一本立ちし、もともと人気のあった桑原和夫、間寛平ら残留組も踏ん張って、なんとか人気を盛り返したのである。
もともと、吉本新喜劇は上方笑芸の主流ではなかった。主流といえば藤山寛美の松竹新喜劇で、館直志、茂林寺文福らの優れた脚本と寛美の卓越した演技力は、ただドタバタ走り回る吉本新喜劇とは一線を画していた。吉本の座付作者の一人である竹本浩三さんは、故林正之助会長から「松竹とおんなじことしてて勝てるかい。笑わせたかったら、体を使え」と言われたそうだ。笑いをとるためなら自分が怪我をしてもかまわない。どこかでお客さんが少しでも笑ったら、それをしつこく繰り返して爆笑にまでもっていく。それが吉本新喜劇のカラーとなった。
子どもであったぼくたちにとっては人の心理のひだをくすぐる松竹新喜劇より、見ればわかる吉本のほうが面白かったことはいうまでもない。VTR「吉本新喜劇ギャグ100連発」を買った層は、東京に出てきていた関西人だったという。世代としては子ども時代に吉本新喜劇で育った世代にあたる。つまり、自分の笑いの母乳をもう一度飲みたいというホームシック的な心境が背景にあった。
この10月より「超・吉本新喜劇」と題して、東京から毎週吉本新喜劇が全国ネットのゴールデンタイムで放送されることになった。「マンザイブーム」以降の関西タレントの活躍で、大阪の笑いの下地は全国にできていると判断してのことだろう。異端から始まり、松竹新喜劇を主流の座から引きずり降ろし、今や大阪の笑いの代名詞ともなった吉本新喜劇が全国に向けて挑戦するというわけだ。
とにかく、見たらわかる笑いだから、受けるだろうとは思う。しかし、タレントを消耗させるTVというメディアで、これまで大阪ローカルで培ってきたものがいっぺんに消費され尽くしてしまわないか、それがぼくには心配でならない。関西圏以外の視聴者は吉本新喜劇という母乳を飲まずに育った人たちなのだ。
もう一つ心配なのは、これが成功してますます「大阪=お笑い」、しかも「大阪の笑い=吉本」という図式が全国的に広まってしまわないかということだ。松竹新喜劇も上方落語もしゃべくり漫才も「大阪の笑い」の一部であるからだ。
とにもかくにも、吉本新喜劇の挑戦は始まったばかりだ。笑芸ファンとしては、ここはしっかりと見守っていきたい。
(1997年10月24日記)