笑芸つれづれ噺


上方歌舞伎の現在 日本芸能再発見の会レポート

 「日本芸能再発見の会」第14回例会は講師に水口一夫さん(松竹株式会社・演出家)を招き、上方歌舞伎の歴史や現状についての講演が行われた。笑芸とは関係ないけれど、興味深い内容であったのでメモ程度ではあるがお知らせしておきたい。
 昨年4月より、関西松竹でも東京にならい歌舞伎役者の養成を始めた。理由はただひとつ。上方歌舞伎の後継者不足に尽きる。20年前京阪に在住していた歌舞伎役者は72名。しかるに現在はなんと11名しかいない。理由は二つ。関西の歌舞伎役者は自分の子どもを役者にあまりしたがらないのと、東京に住まいを移す役者が多いということ。このままでは大阪の歌舞伎は消滅してしまう。そこで松竹は「上方歌舞伎塾」を作って第1期生8名を迎え入れた。
 上方歌舞伎の源流は出雲の阿国にさかのぼることができる。阿国歌舞伎は男装した阿国と女装した男優が妓楼の客と太夫に扮するという倒錯的な舞台が人気のもとであったという。猿若と呼ばれる道化役が客とのやりとりで笑わせたり、あとは笛や太鼓に合わせて踊るというもの。それから坂田藤十郎らが和事と呼ばれる色恋ものを得意として野郎歌舞伎の人気を定着させた。ネタが尽きたため、人形浄瑠璃の狂言をそのまま取り入れ、現在のように義太夫の語りに合わせて芝居をするという形が整ったのが元禄以降。明治時代に入り、東京からも役者がきて交流が進むようになったが、戦後は東京組と上方組が半々の割り合いになり、二代目中村鴈治郎が役者廃業宣言をした昭和三十年代になると役者の東京流出がどんどん進み、上方歌舞伎は壊滅状態になってしまったという。
 上方歌舞伎とはなんぞや。この問いに二代目鴈治郎は「上方歌舞伎なんてあらへん。鴈治郎歌舞伎や仁左右衛門歌舞伎があるだけや」と答えたそうだ。大阪における歌舞伎は役者の個性で成り立っていたもので、それは現在も変らない。東京と違い、大阪では役者自身がより目立つために演出に工夫をしたものだそうだ。また、上方歌舞伎は家柄よりも実力本位で番付が決まる。役者の家から出たものでなくとも、実力さえあればいい役をもらえ看板になることができる。そこらあたり、上方の合理性というものを感じさせる。また、義太夫の節回しの違い、台詞のアクセントの違い、背景の写実性など、上方歌舞伎独自のローカル色があるそうだ。それらは現在、「播州歌舞伎」等の地方の劇団に受け継がれているということである。
 役者の養成は始まった。しかし、義太夫など裏方はほとんど東京におり、そちらの養成も必要となってくるなど、上方歌舞伎の復興は時間を掛けねばならない。義太夫、地唄舞、茶道に和裁などを中心に指導するという。幸い上方の歌舞伎役者は女形でも立ち役をひととおりできるので、立ち役が全て東京に行ってしまった現在でも、片岡秀太郎など女形役者から立ち役の指導も受けられるという。「昔はこうだった」という伝統ばかりを押し付けるのではなく、新しい上方歌舞伎を作っていくつもりで取り組んでいるのだそうである。
 私は歌舞伎については何も知らないに等しい。しかし、丁寧な説明で今まで知らなかったこともすんなり頭に入り、歌舞伎を見にいきたいなと思ったぐらいである。上方歌舞伎の復興を目指して粘り強く続けてもらいたいものである。

(1998年2月14日記)


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