笑芸つれづれ噺


七代目松鶴襲名問題の顛末 日本芸能再発見の会レポート

 「日本芸能再発見の会」第15回例会は講師に笑福亭松枝さん(落語家)を招き、著書「ためいき坂、くちぶえ坂」に書かれた七代目笑福亭松鶴襲名に関わる一連の動きについての講演が行われた。さすが噺家だけあってしゃべりは本業。危ない発言もあったけれど、上方芸能史に残る騒動の一部始終を著書では伝わりにくいニュアンスのところまで知ることができた。
 噺家であるから講演も枕をふらずにはいられないらしく、他で講演を頼まれたら本題を話したあとで必ず落語を一席するが今日はそんな話ではすまんやろというような前ふりのあと、本題にはいる。
 まずはここでの話は特定の人物の非難をするがこれは決して誹謗中傷ではないと断わる。特定の人物とは笑福亭仁鶴のこと。六代目笑福亭松鶴の死後、1993年の忘年会で突如七代目松鶴に七番弟子の笑福亭松葉を指名した人物である。本来なら仁鶴が松鶴を継ぐべしであった(六代目が生前に残したメモにも七代目は仁鶴であったという)のに、仁鶴は自分が継ぐことをせず鶴光、福笑、松喬、松枝、呂鶴を飛ばして松葉を指名したのである。その際、仁鶴は弟弟子たちには一切相談していない。松枝さんがいうには、仁鶴は六代目のことを尊敬していなかった。そのため、自分が同じ名前を名乗るのを嫌がったのではないか。また、5人の弟弟子を飛ばして松葉を指名したのは松葉が控えめな性格で人と争ったり自分に逆らったりしないところから彼を好んでいたという、そのような理由があったのではないか、と。
 その忘年会に鶴光、福笑が欠席していたこともあり、結局その場では七代目の話に結論は出なかった。しかし、年が明けてすぐに仁鶴の家が火災にあい、集まった記者たちは火事のことよりも七代目松鶴のことばかり聞き、仁鶴もそこで鶴光たちのことを悪し様に言ったことからことは大きくなり、松枝さんの予想していた通り、マスコミを巻き込んだ騒動へと発展していったという。
 つらいのは指名された松葉だけではない。弟弟子に大看板を継がれたあとの兄弟子たちも辛いのだ。また、六代目の弟弟子、笑福亭松之助は、自分の師匠五代目松鶴の名を大切に思っており、松枝さんや松葉にまで「松鶴の名前はワシが死ぬまで誰も継がないでほしい」とうったえたという。松枝さんはここまでまわりの人たちに辛い思いをさせた、仁鶴の考えのない一言を許せなかった。しかし、松葉に七代目の継承を断わらないようにも言っている。松葉と兄弟付き合いをしていた松枝さんは、松葉に辛い思いをさせたくもなかったのである。
 松枝さんは言う。「松鶴という名前の噺家がおらんかっても損する人はいないんです。そやけど、この名前は宝物です。襲名披露など松竹芸能あげて大々的にやるはずです。それほどの名前なんです。その名前をもらえるのは芸人としてチャンスなんです」と。
 松枝さんは松葉の独演会の打ち上げで後援者たちが七代目継承を後押しする様子を見て、ここまできたらこれ以上反対しては松葉が辛くなるばかりだと思い、最終的に仁鶴の言葉に従う決心をする。かくして一連の騒動に一応の決着はついたのだが……。
 松葉は七代目松鶴を継ぐことなく、一昨年病死。死後、「七代目松鶴」の名を追贈されている。
 会場からの「八代目松鶴」待望の声に対しては、松枝さんは「もうあんな騒動には辟易してます」と語り、「六代目の直弟子21人が死んでから決めてほしい」とも。
 しかし、会場からは「ファン心理として、松鶴という名前がないのはさみしい」という声が多かった。
 ここで語られた仁鶴像はあくまで松枝さんの主観である。とはいいながらも七代目松鶴襲名について、その原因は仁鶴の言葉によるものであることは確かなようだ。今晩、私たちは上方芸能史に残る事件の当事者から生きた証言を聞くことができた。それは刺激的でもあり、また貴重な時間でもあった。仁鶴という人を非難し、相当きついことも言っているのに、少しも胸くそ悪くならなかったというのは、語り口のうまさか、松枝さんの人徳か。
 果たして「八代目松鶴」という名の噺家を私たちは目にすることができるのだろうか。

(1998年4月11日記)


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