7月18日、大阪のサンケイホールまで「桂米朝独演会」を聞きに行った。昨・ 驕jの門を叩いたが研究対象の上方落語が漫才におされて滅びかけていたので、噺家になって保存にこれつとめたという次第。いわば実地研究というわけだ。これが上方落語を救うことになる。
米朝の持ちネタというのはいったいどのくらいあるのだろうか。隠居していた噺家をたずねてめったに高座にかからないネタを集める。もともとは上方ネタだったのが東京では演じられても上方では消えていた、そういうものを再度上方落語として復活させる。書物にだけ残っていたネタを復活初演する。今では上方落語には欠かせない大ネタ「地獄八景亡者戯」も米朝がいなければこれほど盛んに演じられることはなかっただろう。
ネタが多いだけではない。そのネタをきちんとした形で演じられる上に、時代に合わせてアレンジし新しい客層にもわかるようにもできる。その柔軟性。
その上、ちゃんと笑わせてくれるのである。なんということのない前座ネタでも観客の爆笑を生む。
私は放送ではともかく、実演で同じネタを2回聞いたのは「たちぎれ線香」ぐらいで、あとは必ず違うネタである(三代目春團治なんか実演では「いかけや」しか聞いたことがない。生で「野崎」を聞きたい!)。
米朝は男前である。フラといわれるもって生まれたおかしみは他の噺家に比べると少ないと言わざるを得ない。芸人の家に生まれたわけではない。だから、芸人らしさを身につけるようになったのは成人してからである。大阪ではネタが多いだけでは自慢にならない。漫才に伍して笑いをとらなくてはならないのだ。
今回聞いた米朝は、確かにところどころすっと言葉が出なかったりして年令を感じさせた。しかし、間のうまさやマクラからネタにはいるところの自然さなど、芸を堪能させてくれた。米朝を聞く幸せというものがある。それは例えば知らないネタを教えてくれたり、落語のネタのどこが面白いのかを見通しよく示してくれたり、そういう面も確かにあるのだけれど、噺家のキャラクターだけに頼らない「芸」というものを味わうことのできる、そんなところだ。
(1998年7月22日記)