笑芸つれづれ噺


TVコメディの草創期 日本芸能再発見の会レポート


 「日本芸能再発見の会」第17回例会は講師に山路洋平さん(放送作家)を招き、ご自身の関わってこられたTVコメディのエピソードなどを中心に草創期のTV事情についての講演が行われた。
 山路氏は東宝の演劇部で演出家をしており、北野劇場で映画と同時に行っていたショーの演出家としてやっとチーフをまかされるところまでいったのに、昭和33年4月4日付で新設の「東宝関西支部テレビ課」に配属させられた。そのうちに舞台に戻るつもりでいたのに、ショーが経費節減のために中止となり、そのあとはテレビ中心に活動していくことになる。
 おりしも、関西ではTV局が次々に開設され東宝としても映画だけでなくTVにも力を入れていこうという方針が立てられたのだそうだ。この頃の映画界は最後の黄金期を迎えており、徐々にTVにとってかわられることなる。
 山路氏が組んだ相手はのちに「細腕繁昌記」などで知られようになる脚本家の花登筺(はなとこばこ)。当時は大阪テレビ(のちに朝日放送と毎日放送に分かれる)で「やりくりアパート」をヒットさせていた。横山エンタツ、初音礼子らベテランと新進の佐々十郎、茶川一郎、大村崑といった組み合わせで人気のあった生放送のコメディである。
 テレビ課に配属されたもののTVの受像機すら持っていなかった山路氏であったが、北野劇場で演出をしていた経験を生かし、台本を書くようにもなっていく。
 花登筺の画期的であったところは、現在プロダクションが請け負っているような形と同じ、スポンサー、企画、俳優を全てパッケージにしてTV局に売り込むという方法をとっていたことだという。しかし、好き嫌いも激しく、自分にちょっとでも逆らうとみたらパージをするというところがあったそうだ。例えば、芦屋雁之助はいわれたそのままに演技をするのではなく自分なりに納得しないと気がすまず、花登筺とはよく衝突し番組に起用されなかったという。山路氏がなんとか取りなして出演させたがなんとセリフなしのルンペン役。もっとものちに東宝を離れて「笑の王国」を結成する時に佐々十郎らに抜けられ、雁之助はそこで花登筺と和解し行動をともにすることになる。
 山路氏が最初に書いたコメディの台本は「パッチリ天国」(富士フィルム提供)で、東宝と花登筺には内緒だったので花村洋というペンネームを使ったそうである。花登筺にその事実を明かしたところ、「花」の字が入っているのに気を良くして快く許されたとのこと。また、花登筺はその後の自分の弟子に必ず「花村」姓を名乗らせたというのだから、よほど気に入ったのだろう。
 山路氏はやがて本名で台本を書きたいと思うようになり、次の「グッドナイトファンタジー」という深夜番組で新野新と組んで本名で台本を書きはじめる。この番組は音楽番組だったので音楽の苦手な花登筺からも特に何も言われることはなかった。それどころか学生時代グリークラブにいた(バス歌手の岡村喬生の後輩にあたり進駐軍のキャンプまわりをいっしょにしたほど)関係で音楽には強かったのも幸いした。
 ところが、その次に担当した「LMS珍道中」という番組は花登筺のテリトリーに觝触し、山路氏は「花登パージ」を受けることになってしまう。幸い花登筺が「笑の王国」を結成したりという流れや、茶川一郎主演の「一心茶助」が当たったこともあり、TVの仕事は順調に進み、その後も放送作家として数百本の台本を書く活躍をしたということである。
 当時は「早くて安くて面白い」台本作家が求められていたそうで、花登筺はその条件を満たしていたという。新しい企画の説明のために台本作家が集められた時、花登筺は一心に何かを書いている。そんなところで仕事をしなくても……と不快に思った山路氏であったが、なんと花登筺が書いていたのは今説明されている番組の台本で、説明が終わると「これでどないですか」とその台本を差し出したそうだ。
 その他、「大阪テレビ」が「朝日放送」「毎日放送」に分裂した時に社員が足らず、専門外の者までかき集められたこと、その「大阪テレビ」の資料は「朝日」「毎日」どちらの局にもほとんど残っておらず、散逸してしまっている現状などが語られた。
 草創期のTV界を駆け抜けた風雲児、花登筺のエピソードを中心に、TV史では顧みられない短期間しか放送されなかった番組の話など、貴重な証言を聞くことができた。もっとも、話はかなり前後するものだから、このようにまとめるのにはちょっと苦労させられたんですけれど。
※写真は「グッドナイトファンタジー」の台本を手にした山路氏。このような台本もたいていは散逸していてかなり貴重なものである。

(1998年9月12日記)


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