笑芸つれづれ噺


講談師が語る講談史 日本芸能再発見の会レポート

旭堂小南陵
 「日本芸能再発見の会」第19回例会は講師に旭堂小南陵さん(講談師)を招き、講談の歴史や話芸のルーツ、講談の現状についての講演が行われた。
 現在NHK朝の連続テレビ小説「やんちゃくれ」に講談師「天神堂梅林」役で出演中の小南陵さん。そのおかげで若い世代で「講談を教えてほしい」という人たちが出てきたという。「やんちゃくれ」で講談がとりあげられた裏話などのあと、実際の上方講談では使われない張り扇を使っているのは東京の視聴者がもつ東京講談のイメージを損なわないためであるとのこと。東京で約50人、大阪で約10人という講談師の現状を考えると、東も西もなく講談というものを知ってもらわなければならないという使命感があるということだ。上方では軍談はあまりやらないので張り扇は使わず、普通の扇子と小拍子を使って語るのである。
 また、最近「ワッハ上方」で「安倍晴明伝」をかけたところ、若い女性を中心に立ち見が出る盛況で、夢枕獏さんの「陰陽師」などの影響で晴明ブームが起こっている今、「晴明伝」や「菅原天神記」などの「神道講釈」をどんどんかけて講談を盛り上げたいという。
 もともと上方は玉田派を中心とする神道講釈が盛んであったという。江戸は武士が多く、そのために武家の物語がはじめに流行り、それから騒動物→裁き物→盗っ人物→侠客物という変遷があって庶民のための講談になっていったのである。
 上方では玉田永教(賀茂神社の禰宜だった)が神道の教えを広めるかたちで講釈をし、玉田玉秀斎の代になって「立川文庫」の速記本でとりあげられた「猿飛佐助」が全国で大当たりした。いわゆる「真田十勇士」も当初は三勇士ぐらいだったのが人気が出るのにつれてあちこちから引っぱってきて「十勇士」にまで増えていったのだそうだ。もっとも、猿飛佐助自体は玉秀斎の独創ではなく、年寄の忍者であったものを子どもに変えたのだという。それがヒットの原因となったのだ。これらは「神道講釈」の流れをくむもので、忍者が印を結ぶのは「晴明伝」で陰陽師が印を結ぶところからきている。
 小南陵さんの考えでは、「講釈」と「講談」は別なもので、神主が講釈をするうちに人々の興味をひくためにおもしろおかしく語るように芸能化して講談になったのではないかということである。
 もともと旭堂は東京の流れを組み「太閤記」「難波戦記」などが得意であるが、小南陵さんは今後は「晴明伝」などを中心にしていきたいと抱負を語ってくれた。そのために「いざなぎ流」などを取材したりしていて新しい「晴明伝」を作っていこうとしている。
絵解説教
 講談がブームであった明治36年から大正にかけては「講談本」という速記録が出版され、人気を支えていた。これらは大阪の出版文化の最後の花ではないかと思われる。おおくはつぶれてしまったが、現在の「駸々堂」「受験研究社」「三木楽器」はそれらの出版社の流れをくむものだそうだ。これら速記本は講釈師の語ったものを新聞記者が速記したものだが、速記者が創作するようにもなったという。
 もともと「神道講釈」は神官の姿で語ったもので、張り扇は使わず、明治時代は注連縄を張って本を見ながら語っていたのだが次第に無本で語るようになった。そのルーツは本願寺の僧の語る「節談説教(説経とも書く)」や「絵解説教」にあるという。講談でいう「修羅場読み」というたたみかけるような語りは戦場を語るからそう呼ばれるようになったのではなく、阿修羅の世界を読むので「修羅場」というようになった。説教では「くり弁」「せり弁」といわれるものがそれである。「前座」「高座」というのも説教僧の用語からきたものなのだ。
 ここで小南陵さんが「節談説教」「絵解説教」を実演。落語、浪花節、講談などの芸能の要素を全て含むものであることを示してみせた。また、スライドで「絵解説教」に用いられた絵を複製したものを紹介した。
 明治以降、宗教の合理化で説教僧は姿を消し、現在ではほとんど残っていないという。
 講談の歴史だけでなく、全ての話芸のルーツを探るという意欲的な講演で、小南陵さんが実際に調査した結果などがふんだんにとりいれられていた。その勉強ぶりには頭が下がる。
 夢枕獏さんとも親交があり、獏さんに「安倍晴明伝」のことを教えたのは小南陵さん。そして獏さんは「平成講釈 安倍晴明伝」という本を書く。世の中、いろんなところで思わぬ人のつながりがあるものだと感心した次第。

(1999年2月14日記)


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