笑芸つれづれ噺


テレビにおける演芸の変遷 日本芸能再発見の会レポート

有川寛さん
 「日本芸能再発見の会」第20回例会は講師に有川寛さん(読売テレビプロデューサー)を招き、氏の関わった演芸番組を中心に、演芸番組の変遷と現在の問題点を語っていただいた。
 有川氏というと、太平シロー、オール阪神、西川きよしといった人たちの「おこるで!」という物まねで知られる名物プロデューサー。担当した番組の代表的なものとしては「お笑いネットワーク」「平成紅梅亭」「ときめきタイムリー」「上方お笑い大賞」など。そして、それらの映像は有川氏の手によって保存され、「思い出の漫才コンビベストテン」という番組(これも有川氏がプロデュースしている)などで貴重な記録として紹介される。最近は「知ってるつもり」のような番組からもビデオを使用したいと申し出があるそうだ。
 元々ドラマ制作を志望して読売テレビに入社した有川氏だが、九州で生まれ育ち、学生時代を東京で過ごし、大阪には縁がなかった。ドラマのキャラクターの勉強のためにと3年間ほど寄席通いを続け、大阪文化に親しんだ氏は、1970年、大阪万博の年に「お笑いネットワーク」を開始する。現在は週に1回のローカル番組だが当時はウィークデイの帯番組で全国にネットされていたそうだ。それから30年続く長寿番組となった。
 「お笑いネットワーク」の30年でいえば、10年ごとに区切ってみれば時代とともに笑いの質が変化していった経緯がつかめるという。第1期(1970〜79)はヴェテラン芸人の時代。ちょうどビデオテープを使って番組編集ができるようになる。それまでは「道頓堀アワー」(ABC)に代表されるような生の寄席中継が中心であった。しかし、1976年頃から演芸場が閉鎖されたり規模が縮小されたりして寄席の数が激減。寄席に出るのはヴェテランばかり。若手が芸を磨く場がなくなりつつあった。そこで有川氏は漫才作家の秋田實さんとともに若手の漫才師の勉強会である「笑の会」を立ち上げた。
 1978年に秋田氏が亡くなり、藤本義一さんが後継者となる。翌1974年には第1回の東京公演を実施、若手に混じって横山やすし西川きよし、人生幸朗生恵幸子といったヴェテランたちがバックアップもかねて出演したが、なかなか観客が集まらず苦労したそうだ。この時にはビートたけしなども見に来ていたそうだ。
 翌年の第2回公演には東京のテレビ局関係者にもしらせ、横沢彪や沢田隆治といった人たちも見に来て、これが直後の「漫才ブーム」につながった。芸術祭の優秀賞を受賞し、B&Bは東京のプロダクションの誘いを受けて東京に残留することになる。第2期(1980〜89)はマンザイブームがわき起こり、連日テレビをマンザイ番組がにぎわせることになる。ブームは数年で去ったが、それはネタを練りこんだものが受けたのではなくキャラクター性などが人気を呼んだためだと氏は言う。もともと芸を磨く場のなかった若手たちが中心となったのだ。パワーで押す笑いしかなかったのに、それが主流みたいになってしまったということ。ブームで消耗したマンザイはバブル期に大物外タレを呼んだりする風潮の中で隅に追いやられてしまうことになる。
 第3期(1990〜1999)はテレビから作られる笑いが主流となる。劇場でお金を払ってみるお客と違い、タダで見られるテレビからは笑いの質も低下していった。
 有川氏はこれからは原点に返り、テレビだけの笑いではなく、寄席、劇場に戻っていかなくてはならないと主張した。漫才は流行を取り入れながらしゃべくりという不易の部分を両立させた芸である。劇場で、観客と共感する笑いを得ることが大切なのである。テレビだと流行に流されてしまい不易の部分がないのではという指摘がなされた。そのため、第1期にあった様々な諸芸が現在では劇場からも消えてしまっているのだ。
 テレビのカット割りも時代とともに速いテンポのものになってきた。テレビで落語をしたいと桂米朝師匠にいうと、言下に拒否されたこともあったという。師匠曰く、「テレビでは催眠術がかけにくい」。落語世界に観客を引き込むには一方向から見てもらわなければならない。テレビでは細かなカット割りのためにそれが不可能になると考えたということだ。しかし、有川氏は上方落語のヴィジュアル的な表現に着目し、噺家と事前に話し合ってカット割りをすることでテレビで落語を放送することができるようになったそうである。
 氏はビデオ初期に重ね取りで消える運命にあったものも保管し、現在では演芸のビデオテープは3000本が読売テレビのライブラリーに収められているという。
 かつて吉田留三郎さんが語った「大阪の芸は雑草、踏まれてもまた出てくる」という言葉をひき、大衆芸能のスタンスは雑草であるとする有川氏。タイムリーなネタを咀嚼してアドリブで笑いのとれる芸人の必要性を説き、漫才がインテリジェンスを持ったときに、新しいものが生まれるだろうと結論した。
 質疑応答は、デジタル放送による多チャンネル化で演芸専門のチャンネルができればという話、テレビはこれまで使い捨て番組を多く作ってきたが二次使用に耐えられるものを作らねばならないという話、視聴率の裏話、最近のテレビディレクターの質の話など、かなりきわどい話も出て時間をオーバーする熱気のあるものになった。

(1999年4月17日記)


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