笑芸つれづれ噺


狂言の今日的意義 日本芸能再発見の会レポート

茂山あきら
 「日本芸能再発見の会」第23回例会は講師に茂山あきらさん(狂言師)を招き、狂言の歴史や現状についてざっくばらんな感じで語っていただいた。
 狂言は日本でももっも古く能楽と並んで800年前からある芸能で、「古典芸能」という場合はこれに400年ほど前に成立した歌舞伎、文楽を含めたものをいう。ここに落語なども含まれるようになってきているという前置きで話は始まった。
 もともと「狂言」は「芝居」の意味で、歌舞伎でも出し物のことを「狂言」という。茂山氏の言ではいわゆる「狂言」は「室町時代の吉本新喜劇」ということになる。太郎冠者など役名がついているもの以外の登場人物は「あきらさん」「千五郎さん」と本名で台詞を言ったりするところなど、まさしく「吉本新喜劇」に通じる。その時々のトピックをとりいれ、どんどんと新しい演目が作られていったところも同様。その中から普遍的なテーマで現在まで残った演目が大蔵流で200ほど、和泉流で260ほどになるという。
 さて、大蔵流の当主は代々千五郎を名乗り、隠居して千作となる。現在一番上の代は千作、千之丞。中堅に千五郎、七五三、あきら。そして現在人気のある「少年隊」の若い世代として千三郎、正邦、茂、宗彦、逸平、童司がいる。大蔵流の狂言師は茂山家が全部でこれだけということになる。
 茂山家は江戸中期に京都で起こった。御所出入りの鏡屋が狂言師になったのが初代で、その時に茂山の名をもらい、井伊家にも仕えた。桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたときにも茂山家のものがお供していたという。もっとも、その人は殺されてはいないが。茂山家の当主は代々長命で、これは腹から声を出すのが健康を保つ秘訣になっていいるのかもしれないという余談も出る。
 能や狂言の役者は身分は武士であったという。歌舞伎役者が江戸時代は河原者とされていたのと対照的だが、これは能楽が武家の式学(正式の芸能)だったことに由来する。奈良の春日大社にある影向松で能を演じ、その松に神が宿って見に来たことから、能舞台には背景に松の絵が描かれているなどの歴史的背景も語られた。江戸時代は幕府の庇護があったので地位は安定していたが、明治になって、その地位が失われてしまった。江戸時代に隆盛を誇った「鷺流」はこのころ滅びてしまったそうだ(現在は山口県に保存会がある)。
 生き残るためにはパトロンが必要であった。大蔵流の場合は、野村家(野村証券の一族)がパトロンで、野村別邸で会が行われると、そのたびに野村の紋が入った紋付きをいただいたりしていたという。1回出るだけで相当のギャラももらえ、時間はたっぷりあって稽古も遊びもたっぷりできたそうだ。
 しかし、戦後は会自体がなくなり、副業で喫茶店をしたりした時期もあった。昭和30年くらいまではそのような状態が続いたが、武智鉄二がパトロンとして登場し、新しい演出の能・狂言を行うようになり、ここに第一次の狂言ブームが起こった。ちょうど当時の千作など名人たちも円熟期に入り、学校狂言などを盛んに行い裾野を広げる。このころは飛び込みで学校に行ってもやらせてもらえるほど引っ張りだこだったという。
 この時期に狂言は能から脱皮していった。それまでは能の間に行われるだけであったものが、狂言だけの会も開けるようになったのだ。「狂言づくしの会」がひんぱんに行われ、学者も狂言を独立した古典芸能として研究しだすようになった。千五郎、千之丞の兄弟や和泉流の野村万作などが中心となり歌舞伎役者と協演したり異流合同の会を開いたりしたのがこの時期。能楽の方からは兄弟を除名するほどの騒ぎになったけれど、その父の千作が「まず自分を除名せよ」と迫り、以後は狂言は能楽から離れた自由な活動を行うことができるようになった。「彦市ばなし」の狂言化やTVドラマ出演などいろいろなジャンルに進出したのである。
 昭和40年代は現在の千五郎と七五三の兄弟、そしてあきらさんが「花形狂言会」を開き、SF狂言「狐と宇宙人」(小松左京作)の上演など、新作を多く手がけたりした。また演出を洗い直し、間をつめてテンポよく語るなどの工夫を重ねる。狂言のリズムは決まっていて、速く言うと声の大きさも落ちるので、この改変はかなり難しかったそうだ。学校狂言で、生徒たちの気をそらせないように速いテンポの狂言をすることにより、新しいリズムを作れるようになったという。
 現在は、茂、宗彦、逸平、童司らの若手が「少年隊」として女性たちの人気をつかみ、ホームページを作り会誌を作りなどして新しいファン層を開拓している。
 これができるのも、大蔵流が「お豆腐狂言」だからだという。先々代の千作は余興でどこにでも出かけていったので「誰でもどこでも食べる豆腐みたいな狂言や」と言われたのを逆手にとって、気軽に楽しめる、笑いをとるためにはなんでもできる狂言を作り出したのだ。だから、大蔵流は当世風にできるのだと胸を張る。和泉流の格式、芸術的なものとは対照的である。タテのピラミッド型ではない、ヨコの世代で動けるところにその特徴が現れている。
 狂言の稽古は「猿に始まり狐に終わる」のだそうで、子役の「靫猿」で初舞台を踏み、20歳頃に「狐釣」の舞台を踏むとひととおりの演目をこなせるようになるという。「そやから、それ以降は稽古せんでもなんでもできるんです」とあきらさんが言うと新野代表は「稽古してるんでしょう?」と聞き返すが、「ほんまにしてませんよ」。わざわざしないでも2歳から20歳までの間に体に染みつくまで演目を叩き込むようである。
 このあと、あきらさんは古典芸能の現代の危機感をあらわにする。古典芸能は、能楽、歌舞伎、日本舞踊など、ピラミッド型の世界が形成され、その中で弟子をとって教えたりしていると食べていけるので、現代の動きについていけなくなっていると指摘する。狂言師は役者稼業で動いているが、動きのない組織は今を生きられず、いずれ博物館入りとなるのではないか。文楽のように、保存の対象になるのではないか。
 現代社会はTVに代表される、特別なことを要求しない時代である。しかし、古典芸能は特別すぎるのだ。それをピラミッドの中にいる人たちは理解していないと、何度も繰り返し力説されていた。今日的な切り口で芸能を見直す「再発見」が必要なのだが、今後古典芸能をどのようにしていけばいいのか、あきらさんにも見通しがつかない、みなさんに教えてほしいと話を締めくくった。
 あきらさん自身は、時代に応じて狂言も変化していけばよいと考えているけれども「これを外したら『狂言』でなくなる」という一線は残していたいという。若手が狂言の文法を使った新しいものにしたときに、あきらさんはそれに反対はしないが、自分はその中に加わらないと考えておられるそうである。
 現代に生きる古典芸能というものを考える鍵が多く含まれた講演で、それを笑わせながら聞かせる話術の巧みさに酔う一夜であった。

(1999年11月13日記)


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