笑芸つれづれ噺


宝塚映画の思い出 日本芸能再発見の会レポート

梅林貴久生
 「日本芸能再発見の会」第24回例会は講師に梅林貴久生さん(脚本家)を招き、映画の黄金時代の様子を語っていただいた。
 実は今回は私は所用で少し遅刻してしまったので、始めの部分については聞き逃してしまった。ご了承願いたい。
 梅林さんは最初は映画の脚本家として、そして後にはテレビの放送作家として活躍された。脚本家の師匠は安達伸男さん。この方は嵐寛寿郎さん主演の映画脚本などを書いていた方であったが、不慮の事故で亡くなられた。その事故には嵐寛寿郎さんが関わっている。寛寿郎さんの全盛時代、撮る映画は必ず当たった。そのためスケジュールはいっぱい。ところが、寛寿郎さんが病気で10日入院して、そのスケジュールがかなりきついものとなり、退院後は徹夜の連続。仮眠していたときに布団の端を蹴ってガスストーブの火を消してしまった。このためガスが漏れ、同室にいた安達さんはガス中毒で死亡してしまったのである。梅林さんを安達さんの親類と勘違いしていた寛寿郎さんはこのあとなにくれとなく梅林さんを引き立ててくれたという。安達さんの死などもあって、梅林さんは宝塚映画に入社したが、最初の脚本は寛寿郎さん主演の映画だったそうだ。
 梅林さんによると、当時の映画俳優で立ちまわりのうまかったのは嵐寛寿郎さんと近衛十四郎さんだったという。二人とも、重心が低く剣が伸びるように出てきたそうである。しかも太刀筋が一定していて、NGのあとの取り直しをしたときに、斬られ役の俳優さんがあとで着物を脱いだら、打ち身のあとがほとんど同じところに2ヶ所ついていたという逸話が紹介された。
 その他、映画スターたちの思い出が次々と語られた。「義理を欠け」という教えをくれたのは長谷川一夫さん。梅林さんが脚本でいくつかの賞を受賞したとき、律儀に関係者に挨拶まわりをしたが「なんべんも挨拶に来るやろ。義理だけやったらそれはやめて、その時間をよい本を書くのにまわせ」と忠告されたという。長谷川さんは自分でも「義理を欠く」筋を通し、葬儀には花輪を送っても決して顔は出さなかった。
 宮城千賀子さんは素顔のとてもきれいな方で、度胸のある人物だった。お酒が好きで、飲めば飲むほどきれいになったという。その美しさの秘訣は日本酒の超特急酒で肌を磨いていたからだそうだ。宮城さんが初めてテレビに出演したのは梅林さんの台本だったという。
 三益愛子さんは同じ大阪出身ということで特に目をかけてくれたそうである。大のコーヒー好きの三益さんに、梅林さんは師匠のコーヒーを横流ししてあげたりもしたそうだ。
 当時は「五社協定」のために俳優はそう簡単に他社の映画やテレビには出演できなかった。宮城さんと三益さんは梅林さんのために五社協定と関係のない俳優さんを多数紹介してくれて、テレビに起用することができたという。
 当時の映画スターに逆らうと干されてしまう、そんな時代でもあった。そんな中で嵐寛寿郎さんに正面切って自己主張したのが志村喬さん。スター特有のわがままに対し、「私はやめる」と啖呵を切ってカツラを取って投げつけ、東京に行ったのだ。志村さんが黒沢監督作品になくてはならない俳優となったのは、そのすぐあとだった。
 梅林さんにとって大事なスターがもう一人。鶴田浩二さんである。鶴田さんは大曽根辰保監督に見出されて主演俳優になった。梅林さんは大曽根組で脚本をよく書いていたので、その縁で可愛がられたということだ。実は鶴田さんは錯覚の多い人で、梅林さんが支那事変の軍神とうたわれた人物と同姓であったためにその親類と思いこんでいたらしい。どうやら鶴田さんが梅林さんを可愛がったのは、それもあってのことだったという。梅林さんがテレビ製作に入り込んでいたやくざににらまれたとき、また自分が梅田コマで起用した大部屋女優が座長である有名歌手に口説かれたとき、いつでも鶴田さんの名前を出すと相手は引っ込んだというからその威光はいかほどであったか。
 さて、梅林さんがテレビに移った理由であるが、宝塚映画がテレビに進出し「阪急・サンケイ新聞・電通」の共同出資で関西テレビのために台本が多く必要になった。その時にたくさんの台本を書かせてもらえるというので宝塚映画と契約し、テレビに活躍の場を移すことにしたのだそうだ。
 テレビ初期では藤山寛美さんに新喜劇の笑いについて直言してから縁を切られた話などが語られた。
 最後に、当時の俳優の情の強さについて語られ、締めくくられた。プライベートな場では「梅ちゃん」と呼んでいた三益愛子さんは公の場では「先生」と呼ぶ。「私はお茶くみをしてた者です。『先生』はやめて下さい」と言うと「あんたは人前では『先生』やないとしめしがつかん。今は今やないか」と立ててくれていたのだ。今はひとつの番組が終わるとそれで関係が切れてしまうようなところがある。人間関係の薄さは内容の薄さにもつながっているのではないか、と締めくくられた。
 黄金時代の映画スターのエピソードが生き生きと語られ「本に書きたいけれど、出版しても若い人は読んでくれないだろう」と語る梅林さんだが、貴重な証言をぜひ後世に残しておいてほしい。そう感じさせる講演であった。

(2000年2月7日記)


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