笑芸つれづれ噺


演劇記者から見た芸能の世界 日本芸能再発見の会レポート

廓正子さん
 「日本芸能再発見の会」第25回例会(2000年4月8日)は講師に廓(かまえ)正子さん(産経新聞編集委員)を招き、演劇記者40年の中で見た役者さんたちの思い出を語っていただいた。
 記者として毎月演劇、芝居を見ている廓さんだが、これまで何本の芝居を見てきたかは数えていない。しかし、年間200本くらい見ているだろう、とのこと。先だって勘三郎十三回忌追善興行を東京まで見に行ったが、これまで見てきた役者についてのいろいろなことが思い出されたという。
 板東玉三郎が初めて大阪の舞台に上がったときに、インタビューをした思い出から。当時、18才で守田勘弥の芸養子として知られていた玉三郎。「僕は、宇宙が好きです」「人間でないものを演じたい」「泉鏡花が好きなんです」「(今一番会いたい人は)杉村春子さんと越路吹雪さんです」といった言葉が印象に残ったそうだ。養父の勘弥は玉三郎について「ひっぱたいても女形にしますよ」「最後の歌右衛門にしますよ」と語っていた。
 その勘弥が死去した翌年、玉三郎は舞台「マクベス」でマクベス夫人を演じた。廓さんもすぐに見に行ったが、ここで玉三郎が歌舞伎の所作でシェイクスピア劇を演じてみせたところに彼の真骨頂を見たという。例えば、マクベス夫人が手に一日を何度も洗い流すシーンで「海老ぞり」をしてみせたのだ。ただ、当時の寺川プロデューサーが廓さんに言うには「勘弥が生きていたら、彼は新劇の舞台には上がれなかっただろう」。皮肉なことに勘弥の死によって玉三郎の芸域が広がったのである。
 ここで廓さんが思い出すのは板東志うかという役者のことである。志うかは玉三郎と同い年で、同時に勘弥の芸養子になっている。志うかの名は勘弥の前名。勘弥はその前に玉三郎を名乗っているから、芸名の格としては志うかの方が上なのだ。それだけ立ち役として期待されていたのである。しかし、女形で役のよくつく玉三郎が先に売れ、役がつかない志うかは酒におぼれ、体をこわし、遅刻を繰り返し……ついには破門となってしまう。現在、志うかは大谷桂三と改名し、10年ほど前に歌舞伎の世界にカムバックしたという。いい芝居をするのでこれから遅咲きの花を咲かせるかもしれないが、現時点では玉三郎と大きな差がついてしまっている。これは、天才と同時に入門した者の不幸であったと廓さんは言う。
 現在、玉三郎は市川新之助を育てることに熱中しているという。玉三郎も次世代にバトンタッチしていくようになったかと廓さんは感慨深げに語った。
 玉三郎は養父の守田勘弥を早くに亡くしたが、その時点で自分の位置を確立していたからよかった。しかし、歌舞伎の世界で親=後ろ盾を早くに亡くした者の悲劇は数多くある。今をときめく市川猿之助がそうである。父の段四郎が死んだとき、猿之助は中村歌右衛門から自分の一座にこないかと誘われたが、彼はそれを断った。「人に呼ばれて加入しても、その一門では下の扱いになってしまう」というのがその理由である。猿之助は地方回りを重ね、自分の一座を持ち、後に「スーパー歌舞伎」と名乗る独自の世界を作っていく。はっきりとものを言う彼は歌舞伎の世界では疎んじられる。だからこそ、伝統に縛られない芝居を作り上げてきたのだ。このようなことをするのは今では猿之助だけになってしまった。「スーパー歌舞伎」の内容の好き嫌いはあっても、その凄さを認めたいと廓さんは言った。
 猿之助は座付き作者を持ち、ブレーンとして活用することで「スーパー歌舞伎」を成功させた。しかし、ブレーンに恵まれない役者の悲劇もある。それが藤山寛美であった。先代の渋谷天外までは自分で台本を書いた。しかし、寛美は台本を書けない。自分のアイデアを他人に台本化してもらっても、うまく演出できない。寛美の死後、松竹新喜劇が衰退していった原因の一つである。
 現在、寛美の孫が歌舞伎役者を目指して修行中である。彼の踊りの間は、寛美の間と同じである。ただ、彼には歌舞伎の世界に後ろ盾がいない。それで果たして歌舞伎の世界で成功できるかどうか。松竹の関係者は、寛美の衣鉢を継ぐ者として期待しているそうだ。
 不思議と仲間割れは喜劇人に多い。当代の天外と曾我廼家文童、野村萬と萬作などがそうだ。狂言の京都茂山一族を例外として。結局は経済的な理由が多いのではないかと廓さんは考える。例えば、茂山家では装束を一家のものとして独り占めしないようにしているが、野村家はそうしなかった。新国劇や新派は常に二人のスターがお互いの力を認めあいながら並立できていた。なぜ人を笑わせる喜劇役者ばかりの喧嘩が目立つのだろうかと、廓さんも新野新さんも首を傾げていた。
 この後は、話題を会場からもらい、それについて廓さんが話す形となった。
 実川延若には実子がおらず、芸養子もとらなかった。上方歌舞伎が衰え、延若は苦労を重ねた。結局東京に行って言葉の違いや流儀の違いに悩みながら亡くなった。そのような苦労をしたから、誰にも継がせたくなかったのだろうというのが廓さんの考えである。
 上方歌舞伎が末期的症状を呈していた時代、若き日の廓さんたち記者仲間で作った「鉛筆クラブ」で取材した役者の思い出。プロデューサーたちが冒険をしないので歌舞伎に新鮮な面白さがなくなっていること。歌舞伎界のこれからのホープの話。最近面白かった演劇(山田五十鈴と市村正親の親子公演など)の話題、市川雷蔵の思い出など、話の種は尽きなかった。
 大阪の中心地に人が住まなくなり、船場の旦那衆が芦屋などに移ってしまった頃から、上方歌舞伎は衰退を始めたとし、人が大阪の町中に住んで下駄ばきで芝居を見にいけるようでなければ、上方歌舞伎の復興は進まないという事で廓さんは話を終えた。
 思いつくまま語るという感じで話の本筋が見えにくい講演であったが、廓さんの豊富な経験や知識をたっぷり味わうことのできた2時間であった。

(2000年4月13日記)


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