笑芸つれづれ噺


劇団四季の思い出 日本芸能再発見の会レポート

広瀬正勝さん
 「日本芸能再発見の会」第27回例会(2000年9月2日)は講師に広瀬正勝さん(劇団てん主宰・元劇団四季俳優)を招き、劇団四季についてその長所短所を含めて語っていただいた。
 広瀬さんは1979年に劇団四季に入り、10年間「子どもミュージカル」の「小公子」の主役などで活躍された後、負傷したことがきっかけで退団、その後、新神戸オリエンタル劇場のプロデューサーとしてご活躍のあと、自ら劇団てんを主宰し、現在に至っている。
 広瀬さんが演劇を志したのは、お姉さんが日本大学の芸術科から劇団文学座の研究生に進んだのがきっかけだという(お姉さんは劇団円を経て現在は青年座に所属)。高校時代は体操部で活躍していたが、鉄棒で怪我をして休養中にフレッド・アステアやジーン・ケリーの映画に接してミュージカル俳優に憧れた。お父さんから出された上京する条件は大学にはいること、4年間で卒業すること、教員免許を取ること。日本大学に体操の推薦で入学し、大学に通いながらバレエ、タップダンス、ジャズダンス、歌のレッスンを受け、ミュージカル俳優になるための基礎を身につけていった。条件どおり4年で大学を卒業し、劇団四季のオーディション(「コーラスライン」)を受け体操の特技を披露し合格。17期生として入団した。
 広瀬さんによると、劇団四季に入団する人は四季そのものに憧れて入ってきた人とミュージカルができるならどこでもよかった人との二通りに別れるそうで、広瀬さんは後者。両者の間には意識差があって、そのあたりで問題が起きることもあるという。
 さて、劇団四季の成り立ちだが、主宰の浅利慶太さんが慶応大学在学中にフランス文学を学び、ゼミで演劇を始めたところが出発点である。教授が「年間最低4回は公演できるように」と「劇団四季」と命名した。従って、創立当初は仏文を愛する集団として発足したのである。5年後には研究所を作り、1期生が入団した。美しい日本語を使いたいという志を立てたけれど、お堅い作品だけでは食べていけず、ミュージカルの上演に踏み切ることになった。これは日生劇場の設立に浅利氏が相談役となっていた関係で、「ニッセイこどもミュージカル」の上演をしたいとの依頼を受けたことがきっかけだという。寺山修司作・いずみたく音楽の「はだかの王様」がそのスタートであった。以来、劇団四季はドル箱スターづくりを行い、越路吹雪さんの年3回の「ドラマチック・リサイタル」を公演したりした。広瀬さんは入団時、越路さんの楽屋番をし、大きな影響を受けたそうである。6期生に久野綾希子、鹿賀丈史、滝田栄らが入団、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」のヒットで劇団四季はブレイクする。また、仏文の演劇をするときにはゲスト扱いで平幹二郎、北大路欣也、加賀まり子らが参加した。また、ダンスの指導に飯野おさみ、文芸部に石坂浩二を招くなど多彩な人材を集めた。なお、広瀬さんの同期には原日出子、山口祐一郎といった人たちがいたそうだ。
 浅利氏の考え方は「愛と願い」。劇団員に「売れないチケットでも売りなさい。チケット代分はお客さんを楽しませなさい」と説いているそうだ。そのためにはひたすらレッスンするしかない。浅利教とでもいうのか、劇団員はそれを正しいと信じていくしかないという。3年間のレッスンと6回の試験をクリアすれば、晴れて正式入団となる。広瀬さんと山口祐一郎さんは研究生の段階で主役に抜擢された。その後、前述の通り「こどもミュージカル・小公子」の主役となる。小柄で童顔だったことからそういった役が多く回ってきた広瀬さんだったが、自分のやりたいこととのギャップに苦しんだそうだ。
 ギャラの問題だが、研究生、団員などで1ステージごとの金額が決まっていて、主役になったりするとかえって稽古などで時間をとられ、年間のギャラが低くなることなどもあったそうだ。脇役で数多くステージに立つとその方が収入としてはよかったりもする。しかし、アルバイトしなくても食べていける程度の収入は保証されたので、新劇のように全て自腹で興行をし、舞台だけでは食べていけないというようなことはない。入団当初は自分についてくれた250人ほどのファンに公演の案内をプリントゴッコで印刷したり電話をしたりしてチケットを必死でさばいていたそうだ。浅利氏は「いずれチケットを売らなくていい時代がくる」と言い続けていたという。ここで「金のための舞台か、好きな舞台をするのか」というギャップが出始めてきた。
 浅利氏の経営者としての有能さはよく知られるところだが、劇団が潤ってくると研究生の月謝をなくしたりもした。西城秀樹を舞台に上げたり、なんと引退直前の山口百恵が四季の舞台に立つ話まであったという。やがて企画で当てる時代がきた。「キャッツ」である。「ぴあ」とチケット販売の独占契約を結び、稽古場を作った。この時の借金について浅利氏は「20年かけて返す。それまで私についてくるか?」と劇団員に伝えたという。「キャッツ」は当たり、劇団四季の盛名は高まったが、昔からの仏文系のファンが離れていきだした。四季では現在、原点に戻る意味でも仏文劇を上演してみるが、現在の劇団員はちゃんと演じられなくなってしまっていると広瀬さんは指摘する。そのためには外部の客演に頼らなければならないのだそうだ。700人の劇団員を養うためには、企画もののミュージカルを続けなければならないのだ。
 浅利氏の政治的手腕については、広瀬氏はあまり快く思っておられないようだ。中曽根元首相との交遊はつとに知られるところだが、「ロン・ヤス会談」に別荘を提供しただけではなく、中曽根氏の政見放送の送稿を書いたり、放送にチェックを入れアドバイスをしたりしていたという。前述の「小公子」の場合、自動車労連の後押しがあり、スポンサーとなってもらうために労連幹部に浅利氏が頭を下げる場面も広瀬さんは見てきた。そんな浅利さんの姿は見たくなかった、と広瀬さんは言う。
 ただ、労連がバックアップしてくれたおかげで「小公子」は障害者のための公演を行うことができ、広瀬さんが「舞台はどんな人の前でも全力でやらなければならない」と意識できるようになったという思い出もあるそうだ。
 広瀬さんは宙吊りの相手が落ちかけてそれを受け止め、そこで膝を痛めたのをきっかけに退団。その後神戸の女子校で体育の教師をしたり、宅配便の運転手をしたりしていたけれど、新神戸オリエンタル劇場の開場の際にダイエー中内会長が「専属の劇団を作る」と言ったと聞き、再び演劇の道に戻ろうと訪ねていった。しかし劇団は作らないことがわかる。がっかりした広瀬さんだったが「プロデューサーをしてみないか」と声をかけてもらい、7年間その職にあった。ここで広瀬さんは四季とは違ういろいろな劇団や俳優のあり方を知る。劇団四季では台本の重要性が俳優の演技よりも高かったが、松竹などでは五分五分くらいに考えられていることなどがそうである。
 元劇団四季というだけで便利使いされるようなところがあると広瀬さんは言う。その理由は、わがままを言わず演出家に従い、長期公演でものどをからさないからだそうだ。またマネージメントの感覚が少なく独立してもなかなかうまくいかない場合も多いらしい。四季の公演には人気俳優が観客としてやってくる。そこで知りあった俳優たちとギャラの話をしたりすると、自分たちが低いギャラでやっていると思い、退団するのだそうだ。しかし、そういう場合はおいしい部分だけが耳に入り、それ以外のマネージメントの苦労などは考えない。そこに問題が出てくるという。四季の場合、年間契約でギャラやステージ数が決められているので安定した収入が得られる。そういう意味では明朗会計で事務所のピンハネなどはない。そこを外に出てしまう時には考えないということである。
 最後に、ご自分の劇団でやりたいこと、浅利氏が俳優は育てたが自分の後継者を作り得ていないこと、そして戯曲作家を育てることの重要性などを語り、話は締めくくられた。
 劇団四季の裏舞台など非常に興味深い話題が出、ここには書けなかったがゴシップ的な話も飛びだした、日本芸能再発見の会としては異色の講演であった。 

(2000年9月10日記)


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