笑芸つれづれ噺


松竹座、そして上方歌舞伎塾 日本芸能再発見の会レポート

中川芳三さん
 「日本芸能再発見の会」第28回例会(2000年11月18日)は講師に中川芳三さん(松竹株式会社顧問)を招き、大阪松竹座の沿革や、上方歌舞伎塾の展望などを語っていただいた。
 大阪松竹座は1997(平成9)年、2月26日に開場式を行ってから、4年間、45ヶ月連続公演を実施してきている。松竹座建築の理由は、東京には歌舞伎座や国立劇場などがあるが、大阪には当時中座くらいしかなく、大きな劇場がないと歌舞伎の発展もないということからである。映画館であった松竹座を、敷地はそのままだが工夫して3階からでも花道が見えるような劇場に建て替えることを提案したのは、松竹の永山会長だった。取り澄ましていない、暖かい劇場でありたいという願いは、客席の勾配まで考えた見やすさというかたちでその目的は達せられたと中川さんは考えておられる。
 改築時のコンセプトとして、デコレーションよりも機能性を重んじたかったが、建築デザイナーは正面の部分を昔のまま残すことを提案し、会長は「文化を残すことだ」と賛同、200席減を承知で決定したという。会長は「お見合いのできるよそ行きの劇場」を作りたがり、中川さんは「普段着の劇場」を作りたかった。それは道頓堀ならではのもので、東京のように社交場としての劇場にはしたくなかったのだという。日本中に立派な劇場が作られているが、そんなものを作っても中身がなければ意味がないと力説される。その例として、九州の「博多座」を中川さんはあげた。
 「博多座」は、建築は役所で運営は民間という形態である。人件費は役所が持ち、土地も広い。ただし、公演内容は5つの芸能会社が持ち回りで行っている。3日だけの特別公演、ではなく、連日の公演でなければ意味がない。そして、役所の方で運営をすると2年ほどで人事異動があり文化として根付かないという難点がある。例えば「国立文楽劇場」はプロデューサーが役人なので文楽のことを知らず大阪のことを知らず芸人心理を知らず……。それに対して全てが民営だと「松竹座」のように人件費と税金対策で苦しむことになり……。その点、「博多座」は2ヶ月ごとに各社が自分の得意技をもってこられるので変化もつけられる。「こんなにいい劇場はない」(市川猿之助)と役者にいってもらえるような劇場ができたのだと中川さんは胸を張る。
 さて、「大阪松竹座」だが、これまで47ヶ月の公演のうち、17ヶ月を歌舞伎に、7ヶ月を準歌舞伎(猿之助スーパー歌舞伎)に、12ヶ月を演劇(「西太后」「クレオパトラ」「華岡青州の妻」「ハムレット」「夢千代日記」など)に、1ヶ月を新派に、1ヶ月を新喜劇に、3.5ヶ月をミュージカルに、2ヶ月を歌手の芝居に、とバラエティに富んだプログラムで飾ってきた。歌舞伎は襲名披露公演などもあり、集客力が安定しつつある。永山会長は全てを歌舞伎にという意向だったが、肩の張らない芝居も大事にしたいということで、その他のプログラムも組んでいるのだそうだ。ただ、昔のように絶対的なスターがいなくなったので、苦しい面もあるという。世襲批判もあるが、歌舞伎は看板を次々と生み出しているので松竹にはその強みがあるということである。
 さて、このあと中川さんの舌鋒は現在の演劇界の貧困に向けられていった。特にスター不在を嘆き、東京のような評論家好みのプログラムでは大阪ではやっていけないと説く。「松竹新喜劇」も今の客が離れていって苦しいし、集客力の高いのはジャニーズ系のミュージカルばかり。外国から呼ぶと経費がかかり、しかし入場料は上げたくない。歌舞伎こそスターが必要で、襲名披露公演の続く最近は、やはりお客が来てくれている。東京のファンは辛抱強く見てくれるけれど、大阪のファンは今月来ても来月来ない。好きならば毎月来て下さいよ。でないと30年前みたいに簡単に滅亡の危機に陥るよ。といった工合。
 とにかく土地所有税が高いと中川さんは嘆く。外国は文化に対しては税金は取らない。行政や企業の文化援助も違う。日本では行政とけんかしながら興行をするものなのだ。と、こちらは少々愚痴っぽい。
 とにかく、ソフトとハードの両面を満たすという意味で「大阪松竹座」は頑張っていきたいというところで落ち着いた。
 続いては、「上方歌舞伎塾」について。「大阪松竹座」開場と同時に開塾。東京の研修制度の成功に習い、徒弟的なものよりもシステム的なものを目ざしている。現在、東京の歌舞伎役者の半数は研修生出身で、10年後はほとんどを占めるのでは、と思われる。
 上方歌舞伎の場合、弟子はいるけれども数は少ない。上方では昔から型より個性を重んじてきたから、実力がなければ実子でも看板の名を襲名させなかったという。京阪神に住み、上方の匂いを持った個性のある役者を育てたいという思いが歌舞伎塾の創設につながった。本に書いていない捨て台詞の言える役者を育てたい。即戦力ではなく、時間をかけて……。即スターというわけにはいかないが、底辺を広げる意味でも20人以上の卒業生を送りだしたい、卒業生だけで劇団を作って公演したい……と夢は広がる。
 ただ、そのためには「松竹座」クラスの大劇場ではなく「中座」クラスの中劇場がないと難しい。「中座」にかわる劇場を、と寄付を募ったりはしているけれど再建への道はまだまだ遠い、と締めくくられた。
 全体に現状への不満が多い講演ではあったが、それだけ関西の演劇界が危機的な状況にあるということなのだろう。その危機感を感じ取らせる話であった。

(2001年2月12日記)


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