「日本芸能再発見の会」第三八回例会(2003年2月15日)は、元大阪新聞記者で現産経新聞文化部の金森三夫さんに「新聞・テレビ・演芸」と題したお話をうかがった。
昨年三月に休刊となった大阪新聞は、一九二二(大正十一)年に天下茶屋を本拠にした「南大阪新聞」が前身。当初は日曜のみ一万部を発行していた。その後合併を繰り返し、一九四二(昭和十七)年に「大阪新聞」となる。駅売り中心で株や受験の記事で人気があった。わかりやすく、読みやすい、「身近な存在」を報道する姿勢の記事がモットーで、例えば「非常階段」のミヤコと渥美清が同時に亡くなった時、ミヤコの死亡記事の方が売れ行きがよかった。普段は大阪新聞を買わない女子高校生たちまでが購入していったという。しかし、広告主が東京へ移ったり通勤客が減少したりしたため、創刊八十周年を目前にしてピリオドを打たなければならなくなった。休刊は二〇〇二(平成十四)年三月三十日。「産経新聞」に吸収合併という形でその姿を消した。読者を招いて行ったイベント「ありがとう、この八十年」には、新野新をはじめ、浜村淳、笑福亭鶴瓶、西川きよし、藤本義一、難波利三といった多数のゲストが快く参加してくださった。その時に「新聞社が後ろにいるからこれだけの人たちに出演してもらえたんだぞ」と人に言われ、「名刺で仕事をするな」と先輩に言われたことを思い出した。
金森さんは最初はサンケイ新聞に入社したが、出向で大阪新聞に。それまでは「読者に読んでもらえる記事」を書いていたのが、「読者に買うてもらえる記事」に転換しなければならないと痛感した。昭和五十年にテレビ担当となり、大阪制作の番組が次々とヒットした熱気のある時期にめぐりあった。KTVの「どてらい男」は視聴率三十%を越え、時代劇では「柳生一族の陰謀」〈必殺〉シリーズ。バラエティでは「プロポーズ大作戦」「パンチDEデート」と、全国的に人気を呼んだ。
しかし、現在は東京一極集中で元気がなくなっている。民放ではベテランの意見が反映されず、スポンサーの意向で若者向けの番組ばかり作られている。しかし、年代や性別までわかる個人視聴率を見ると、必ずしも若者ばかりがテレビを見ているわけではない。スポンサーは「CMに左右されるのは若い人たちで、年配の人たちは左右されない」と昔の考え方を引きずっている。実は、テレビの営業担当は数字を見せて話し合うことすらしていない。勉強不足なのである。ABCの山内久司さんは松竹の現場と徹底討論をし、時代劇に現代感覚を取り入れて〈必殺〉シリーズを成功させた。今の現場にはそこまでの熱意がないのではないか。そして、テレビ局に「プロ」が少なくなったのではないだろうか。
若いスタッフにやりたい企画がなく、ベテランの芸人さんとのコミュニケーションも不足している。例えば、桂朝丸が桂ざこばを襲名したとき、やしきたかじん司会の「夜のAタイム」にゲスト出演した。たかじんの歌を先に録画するために待たされたざこばは、過密スケジュールで疲れており、途中で怒って帰ってしまった。各スポーツ紙ではざこばを非難したが、大阪新聞では再度取材して事情を知り、訂正記事を出した。ABCの長崎プロデューサーは「スタッフに怒られ役がいなくなり、出演者に気を遣っているという雰囲気が作れなくなった」と嘆いたそうだ。このときの大阪新聞の記事に対して桂米朝事務所は「気持ち的に助かりました」と電話してきたという。ベテランの芸人が若いスタッフに教え、スタッフが勉強するという昔のスタイルが現在はないのだという。
かつては「演芸のABC」と呼ばれた。しかし、それも西村現社長までで、そのつながりは途絶えている。現在では、YTVが有川寛プロデューサーの努力で「演芸ならYTV」と言われるまでになった。やはりスタッフの熱心さがものをいうのである。
テレビ局には人事異動があるため、同じ人が長い間スタッフとしてとどまれない。だから、スタッフよりも芸人さんのほうがテレビを知り尽くしている。引退した上岡龍太郎、やしきたかじん、島田紳助、笑福亭鶴瓶らがそうである。彼らは常に努力して工夫をし、スタッフは彼らに太刀打ちできないのである。テレビの演芸番組に対する不安がよぎる。さらに、デジタル放送開始の影響で設備投資などの経費がかかり、テレビ局には重苦しい雰囲気になってしまっている。
苦言ばかりでなく、いい話も。平成十一年に桂枝雀がなくなった時、NHKだけが追悼番組を年末にまわした。その時に放送したのが、「宿替え」。これは実は噺の途中で肝心な部分を飛ばしてしまった失敗作だったのだが、それを放送したのである。「なぜあの『宿替え』をかけたのか?」とNHKにたずねたら、「枝雀さんが生前に『客席とが一番いい空気になった高座だった』と言っていた“気持ちのいい会”だったから」という答えが返ってきた。そのことを覚えていた若いディレクターが確信を持って選んだ、いい選択だったと納得したものである。
マンザイブーム直前に大阪に来て、そのブームを取材の中で体験できたのを幸せに感じている。「花王名人劇場」が昭和五五年一月二二日に放送した「漫才新幹線」が火付け役となったこのブームは、「漫才ブーム十年周期説」を裏付けるものだったが、その後はブームになりきれていない。若手漫才の組数は予備軍も含めてかなり多いが、なぜか爆発しない。その理由は、つきつめていえば「ネタ」なのではないだろうか。昭和五五年のブームではその中心にいたB&Bやザ・ぼんちらは藤本義一主宰の「笑の会」でネタを作り上げた。毎月新ネタを下ろし苦しい思いもしたが、それがブームの時に生きた。かつては一つのネタを練りこんで舞台にかけて作り上げていったが、テレビでは一度そのネタをやると知られてしまい同じものができず、練りこむ前のネタもやる羽目になってしまう。現在の若手は自分たちでネタを作るが、人生経験が少ないために、ネタに驚くほど幅がない。新人は多いがネタが弱いのである。「笑の会」はYTVの有川氏が引き継ぎ、現在は同じYTVの山西氏が再開を期している。若手に刺激を与えるこの会の復活を金森さんも待っている。
全盛期の横山やすし・西川きよし、桂枝雀と、そして円熟期の桂米朝と接することができたことが、記者としての幸せだったと金森さん。かつては大阪新聞に署名記事を書いたら「読みましたよ」と声をかけてもらったものだが、平成に入ってからは部数も減り、反響がなくなっていったという寂しさも経験した。大阪新聞休刊直前に桂小米朝が取材に来た。「産経新聞のコラムに書くんです」。その小米朝の記事が掲載されると、「産経新聞見ましたよ」と電話がかかってきた。大阪新聞末期のつらいエピソードである。
マスコミと芸能の関係についてかなり踏み込んだ興味深い講演であった。
(2003年4月1日記)