笑芸つれづれ噺


上方のお笑いを取材して 日本芸能再発見の会レポート

上田文世さん
 「日本芸能再発見の会」第37回例会(2002年11月2日)は、 元朝日新聞文芸部記者の上田文世さんに「上方のお笑いを取材して」と題したお話をうかがった。
 上田さんは昭和40年に朝日新聞入社。37年以上の新聞記者としてのキャリアを持つ。入社当初は鉛筆やペンで、のちにワープロとなりいわば「新聞打者」に。ここのところはもっぱらパソコン。それでもかつては印刷したものに朱を入れていたが、現在はパソコンの画面で校正するようになった。また、しゃべるのは苦手なのだが、最近は社内で若い記者に講演をする機会も増え「新聞話者」になってきた。朝日新聞は退社後、大学の教員になる人が多いが、自分は今のところフリーである。「学芸部」に所属しているけれど、芸能記者のキャリアは九年間。若い芸人でも自分よりも芸歴が古いことが多かった。
 入社直後は長年九州で「警察回り」を担当し、細川護煕元首相が先輩にいたという。「警察回り」をしているうちに、逮捕・法律・手続きなどについても覚えていった。この時期の面白いエピソードもいろいろと披露してくださる。
 もともと関西出身で、昭和57年に念願の大阪勤務に。そこでもやはり「警察回り」をしていて、暴力団抗争や釜ヶ崎暴動の取材を担当した。そして、昭和60年、43歳にして学芸部に着任した。当初は家庭面を担当し、ワープロの比較をする記事や女性下着と健康についての連載などを担当した。平成5年、念願の演芸担当編集委員(自称「お笑い担当」)に着任された。これが一番よかったと自分では考えているという。
 出身は和歌山県海草郡(現和歌山市)。もともと演芸は子どもの頃から好きで、大きな農家に浪曲師がやってきて父に連れられて聞きにいったり、ラジオの「浪曲天狗道場」などで聞き覚え一節語れるくらい熱中した。大きな家の庭を利用して上映される映画、近くにやってきた大衆芝居などもよく見に行っていた。友人が漫才師に弟子入りしたときは、勝手に自分の名前を使われていたということもあった。しかし、その時はまさか自分が演芸を担当することになるとは思ってもいなかったが。
 演芸担当となってからは「できるだけ現場を踏む」をモットーに、楽屋にも出入りしてより多くの芸人さんと知り合おうと努めた。もともと新聞記者になった後も大阪にいる時には角座やうめだ花月、トップホットシアターなどに足繁く通っていたという。もっとも、楽屋には入ったこともなかったけれど。またラジオから録音した先代の桂文我、桂文紅を聞いたり、テレビにタイマーをつけて演芸番組を録音したりもしていた。担当になると昼間は浪花座にNGK。夜はれんが亭元町寄席に勉強会。「前打ち」という演芸会の情報コーナーに書いた場合は、全部は無理でもできるだけ見に行くことにした。体一つでは足りず他の記者に見に行ってもらいファックスでその報告を受けたりもした。「見たり聞いたりしたものはできるだけ記録」をモットーに、芸の出来だけでなくお客の入りや反応までメモを取った。通ったのは勉強会が多く、そのために落語、講談、浪曲は芸人さんとも多く知り合えたけれど、漫才は少ない(まさと・亀山、ちゃらんぽらんなど)。平成四年からは「あの街この寄席」の連載もした。芸人さんと親しくなると、内輪話も知ることができる。前の取材をもとに話を進めると心を開いてくれる。
 知らないことでも調べて書くのが新聞記者、と上田さん。「見ないと書けない」はいびつなのかもしれない、とも。歩いて歩いてしたおかげで、米朝、春團治、文枝といった大御所にも取材協力してもらえるようになった。思い出深いのは桂枝雀。伏見稲荷で行われた記者会見では、枝雀の方からわざわざ声をかけてくれ、それが嬉しかったのを覚えている。九年間でほんとに多くの芸人さんとじっこんになることができた。
 朝日新聞の「語る」のコーナーで桂米朝にアタックした。ちょうど日本経済新聞の「私の履歴書」とバッティングし、米朝が腎臓結石で体調を崩していた時期にあたっていたが、それでも食らいついていった。小佐田定雄がインタビューしたテープをもとに原稿にまとめ上げ、本人に手を入れてもらった。これが12回連載となり、日経の鼻を明かすことができた。と、思いきや、おごる平家は久しからずで、次はミヤコ蝶々と意気込んだが、日経に先をこされてしまった。会社の書庫で蝶々の著書を探し、5回分の記事にまとめたものを見せて了承してもらおうと何度も足を運んだが、蝶々が病気で倒れたりしているうちにチャンスを逃し、結局了承を取れないでいるうちに日経の「私の履歴書」の連載が始まってしまった。蝶々と顔見知りになれたからそれはそれでよかったのだけれども……。
 落語家さんはたいていが自論をちゃんと持っていて、きちっと話してくれた。漫才さんでは、宮川大助、中田カウス・ボタン、オール巨人といったところが理論家で、よく話をしてくれた。取材はうまくいけたという気持ちがある。読者の代表のつもりになって取材をしていたが、時には演者の始点に傾くときもなくはなかった。記事はうまくかけたかどうかと反省も残っている。
 やはり、お客さんの反応を自分の判断基準にしようと心がけていた。若い人の試みは、一回だけ見て厳しすぎる判断を下してもいけない。その場合の基準は、熱意があるかどうかになる。新聞記者は退職したけれど、これからもお笑いの世界を外から自分も楽しみながら見ていきたい。
 上田さんの話は、個々の演芸に移っていった。まず落語。上方落語だけで噺家は二百人いるが、数の上では隆盛に見えてもそんなに多くてもいいのか、型を覚えるだけでなく個人のセンスや年期など付け加えていくものがなければうまくいかないものだし、そういう人がどれくらいいるか、爆発的な人気を持つ人もいないといけないが、そういう人は出てくるか、と苦言を呈する。漫才に関しては、若い芸人の面白さが年々わからなくなってきた。新星が出てきてもすぐに漫才以外にいってしまうから、これからの展望が見えてこない。NGKは楽屋が個室になり、芸人同士の交流があまりない。浪花座のような楽屋で芸人がわいわい言う雰囲気に懐かしさを感じる。吉本だけではよくないと思うけれどね松竹芸能にそれを打ち破る気概が見えないのが残念でならない。講談、浪曲は好きだがブームになりにくいのが残念だ。
 新しく「国立演芸場」は、プロダクションの壁を破るためには必要かもしれないが、既存のハコを使って新しいイベントをやりそれを起爆剤にしてほしい、というのが上田さんの希望である。大阪の町おこしにふさわしいのが「お笑い」なのだ、と。
 九年間のキャリアは短いものだが、出身地にかけて「和歌山未完」でいい、読者の代表としてお笑いの世界に関り続けたいと決意を語ってくださった。

(2003年4月8日記)


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