笑芸つれづれ噺


てんのじ村について 日本芸能再発見の会レポート

難波利三さん
 「日本芸能再発見の会」第35回例会(2002年4月20日)は、直木賞作家の難波利三さんに「てんのじ村について」と題してお話をうかがった。
 「てんのじ村」は、大阪市西成区、市大病院の崖下のくぼみにある。その歴史をさかのぼると、聖徳太子の時代になるという。四天王寺を建てる時に職人たちを慰めるために芸人たちを集めたという記録があるのだそうだ。もっとも現在につながるものとしては芸人を下に見ていた明治時代、環状線の外に芸人を追いやったのが始まりである。近くに飛田遊廓もあり、つまり、そういう地域だったのだ。昭和のはじめ頃から終戦の年あたりまでが最盛期ではなかったか、という。住民登録もしていない400人から300人くらいの芸人たちが集まって住み、10人ほどで一座を組んで巡業をする。呼び掛けると10組程度はすぐに一座が組めるほど芸人がいたそうだ。戦災でも焼けなかったため、その頃の長屋が今でも残っている。難波さんの希望は、「芸人横丁」として昔のままで遺しておいてほしいと考えている。そこには芸人さんがいたという名残りがある。ミヤコ蝶々がヒロポンを打って寝そべっていた道……。
 難波さんは昭和41(1966)年頃、学習塾を経営していた。教えていたのは主に英語と数学。一夜漬けで勉強して教えたこともある。小説の新人賞を3回ほどもらい、6年の闘病生活を経て30歳で塾を開いた。午前中は小説を書き、夜に塾で教えていた。「地虫」という作品で初めて直木賞候補になる。そのあと、郷里の実話を小説にしたり大阪の「更正館」を舞台にした小説を書いたりして通算5回候補になるも、なかなか賞をもらえなかった。ネタに困ってる時に、知人から「どうしようもない芸人が集まってまっせ」と「てんのじ村」を紹介してもらい、取材を始めた。
 表札に「松竹芸能所属……」と麗々しく書かれているのが印象的であった。半年くらい日参するが、受け入れてもらえない。当時の最長老、吉田茂を口説くことにした。出身が山陰地方であったという共通点があり、吉田茂が受け入れてくれた。一度受け入れてくれると気がよくなり、芸人たちを集めてくれるようになる。取材を続けるうちに、初めて吉田茂の芸を見た。「かぼちゃ」という芸である。「お手てつないで」のメロディに乗り、小学生の帽子に短いかすりの着物を着、歩いているうちにだんだん背がのびて大人になる……。50年もこんなしょうもない芸を続けてきたというのを知り、取材を断わろうと思う。しかし、一度心を許すと声をかけてくれる。次こそ断わろうと思いながら、声をかけられる度に話を聞く。
 住んでいるのは大阪の中でも便利のよいところ。なのに彼らの仕事は地方まわり、しかもスーパーの余興や神社の縁日ばかり。半年ほどついてまわっているうちにはっと気がついた。「簡単なことを続けることほど難しいことはない」と。難しい芸を続ける人は、道具を毎日さわり稽古をしないと出られない。芸の方から「やれよ」と声がかかってくるような、そういう力を備えている。しかし、簡単な芸は自分の意志でその芸を続けていかないと芸ができない。難しい芸を続けるよりも、簡単な芸を続ける方が精神力が要るのだ。そう思った時に、この人は偉い人なのではと見直し、さらに取材を続けていく気になった。見切りをつけなくてよかったのだ。
 最初に取材を初めてから10年ほどかかった。しかし、書き始めると早かった。編集者と話をしていて「てんのじ村」を書くという話になる。まだ書いていないのに「100枚書いた」「追い込みにかかっている」と嘘をついていたけれど、その担当者が定年を間近に控えているということで、志賀高原のホテルに缶詰になり3泊でやっと60枚。昼は暖房を切られ、夜の2時頃に温泉に入って暖をとろうとすると編集者に見つかっていっしょに湯につかる。しんどい、逃げたいと思い「ケロリン」と書かれた洗面器ばかり見ていた。ことさらに原稿用紙を破る音をたてると、隣の部屋で編集者がせき払いをする。そこから弾みがつき、取材ノートを開くことなく一気に393枚を書き上げた。そして、この作品で直木賞を受賞する。
 芸人さんたちからいろいろな話をきいた。ある下手な漫才師が誰もコンビを組んでくれない。水ばかり飲んでいて栄養失調になりかける。他の芸人も金はないが、なんとか持ち寄って滋養のつくものを食べさせようとしたが「恵んでもらういわれはない!」と投げ返された。人生幸朗やミヤコ蝶々たちが知恵を絞り、「あいつは絵がうまいから絵を描いてもろうて、それに銭を払おうや」と思いつく。路地の壁にクレヨンのかけらで稲荷の絵を描く。最初は祠を、そして鳥居を。描く度に銭をいただく。絵の横には寄進した人の名と金額が記されている。渡した方ももらう方も互いに満足している……。小説でも使ったエピソードだが、舞台ではライバルだが生活は助け合いという彼らの様子がよくわかる。光鶴時代の六代目松鶴が「よかったなあ」とその漫才師に声をかけたら、「光鶴さんのために石垣は描かんと残してあった。10円でっせ」といわれて仕方なく渡して絵はめでたく完成した、というオチまでついている。もっともこれは松鶴師匠の作ったオチかもしれないけれど、そうであってもなにかすんなりと受け入れられる気がする、と難波さんは言う。
 現在は、「てんのじ村」の住人は10人を切っている。取材をした当時は30人ほどいたのだが……。20代の芸人は海老一すずめだけで、あとはみな70以上ばかり。もう数年したら芸人はいなくなるかもしれない。芸人が減ると、人情話も減っていく。ここではお互いに迷惑はかけないのが不文律になっている。巡業にでたら世話をしてもらわなければならなくなるのでペットは飼わない。小さい子どもがいたら、近くの飯屋に預け、巡業から帰ってきたら手みやげをもって精算をする。きちんと守るべきものは守る世界なのだ。
 神経痛で数年前に85歳で死んだ芸人さんの話。晩年は身寄りがなく、東みつ子さん(吉田茂さんと組んでいた)がめんどうを見ていた。昔は口もきかないほど仲の悪い時代もあったのに、こうやってめんどうをみる。東京のNHKで話をすると「ドキュメンタリーにしたい」と申し入れてきた。しかし、東さんは「それ、困ります」という。なぜかときくと「そんなこと、あたりまえですやん」。ディレクターが「実の子でも親のめんどうを見ない時代に、あたりまえじゃないですよ!」と力説しても「そんなんNHKでやられたらかっこ悪うて『てんのじ村』歩かれしません」と東さん。難波さんは顔では困りながらも心の中では「あんたはえらい!」と拍手していたと言う。そのあと東さんにあった時に「まだ世話してはりますか」ときくと「元気になって歩けるようになりましたんやけど、姉さん、私の悪口言いはりますねん」という返事が返ってきた。自分が世話になった負い目を消すために「あんなもんに世話にはならんかった」と言い触らしてしまう、そこに人間の面白さがある。「また車椅子に乗るようになったら、どないします」と聞き返すと、「私アホやから、また行きますやろな……」。これが今も残る「てんのじ村」の人情なのである。
 難波さんは東京の編集者が大阪にきたら、通天閣に登り、ジャンジャン横丁を通って「てんのじ村」に案内するという。車も通らない、大阪のエアポケット、そし演芸発祥の地、「てんのじ村」にぜひ足を向けてほしいと、難波さんは話を結んだ。

(2003年7月13日記)


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