笑芸つれづれ噺


必殺仕掛人のことなど 日本芸能再発見の会レポート

山内久司さん
 「日本芸能再発見の会」第39回例会(2003年4月19日)は、朝日放送取締役の山内久司さんに「必殺仕掛人のことなど」と題してお話をうかがった。
 「暴れん坊将軍」の放送終了でテレビ時代劇はいよいよ埋もれた存在になってきたと、山内さんは口火を切った。よく言えば迫害にあった、悪く言えば自滅したのがテレビ時代劇だという。その理由は2つある。一つは経済的な事情だ。かつては茶の間で家族が見ていたテレビは、世帯視聴率ではかることができた。しかし、現在は個別に視聴する時代となり資生堂が提案した「個人視聴率」で性別と世代別に視聴率をはじきだしている。コマーシャルを見て商品を購入するのは20〜30代の女性で、購買層として一番期待できないのが50代以上の男性だという。そして、時代劇を見る層はまさにその50代以上の男性なのである。かつて時代劇は午後9時台に放送していた。しかし、今は7時台に追いやられている。そして、50代以上の男性はそんな時間帯にテレビは見ないのである。これでは視聴率は下がるのみだ。もう一つは経費がかかり過ぎるということである。百姓一揆のシーンを入れただけでばかにならぬ費用になる。
 内部事情を明かすと、制作者は(テレビ局も映画会社も)時代劇の視聴者層は50代以上の男性だという固定観念があり、新しいものを生み出そうとせずルーティンワーク的な制作になってしまっているのである。確かに昭和40年代には「遠山の金さん」のような予定調和的なものが時代に合っていた。それが個別化したために崩れてしまったことに気づこうとしないのだという。「木枯し紋次郎」や「必殺仕掛人」はそれに対して新しいものを生み出そうとした試みだったのである。
 山内さんの最初のヒット作は現代劇の「お荷物小荷物」で、沖縄問題などを娯楽作として扱い成功した。続いて製作した「君たちは魚だ」はミュンヘン五輪を目指す若者たちを描いたドラマだったが、視聴率は3%と失敗。ヒット作も失敗作も制作費はいっしょだけに、1%の視聴率ともなると会社にいられないか下を向いて歩くというような状態になる。なぜ「君たちは魚だ」の視聴率が低かったか。実は裏番組に「木枯し紋次郎」があったからなのだ。この時代劇は全て常識破りであった。主人公の格好は汚く、足を洗ったり合羽を脱いだりするシーンもリアルに撮った。主役の中村敦夫は俳優座出身であったが全共闘的な雰囲気を漂わせドロップアウトした男という設定に合っていた。決め台詞の「あっしには関わりがねえことでござんす」も時代を表していた。村落共同体が崩壊し、個別化や分業化が進んだこの時代に「関わりがねえ」がフィットしたのだ。しかも、市川崑監督によりそれまでテレビになかった映像美がもたらされた。爪楊枝を吹き付けるという荒唐無稽さも受けた。中村敦夫は実はひどい近眼で何でも怖がらずにアクションをしたのが逆によかったのだが、スキーで骨折してしまい、番組は半年間の休止となった。関係者一同はこの間に対抗できる番組を作ろうと考えたのであった。
 時は田中角栄内閣の誕生で角栄ブームが起こっていた。田中角栄的なものを作ろう。それは金の匂いのするダーティーさ、それでも期待される実行力、欲望を肯定するスタイルである。スタッフ3人で新聞、雑誌を片っ端から読み、見つけたのが池波正太郎の「藤枝梅安」であった。まだ単行本にもなっていなかった。梅安は金をもらって人を殺し、その金で女遊びをしたりうまいものを食べたりする。それまでの時代劇のヒーローは食事のシーンはなく女を助けても名乗らずに去るストイックさを持ち金を払ったりする場面も見せなかった。そういった禁欲的なヒーローと正反対の梅安はまさに角栄的な人物像である。山内さんたちは「これはいける!」と確信した。ただ、そのまま映像化するのはテレビには合わないと考えた。
 主人公は見かけが大切だ。梅安役に菅原文太などを持ってきたとしたら迫力があり過ぎ金をもらって人を殺すのは当たり前という印象を与える。そこでNHK大河ドラマの「太閤記」などで健全なイメージのあった緒方拳をもってきた。緒方は新国劇出身で殺陣もうまい。さらに殺しの元締にホームドラマでインテリの父親をやって人気のあった山村聰を配した。彼らは家に入れていい人というタイプであり、テレビ向きだったのである。また、音楽には劇伴は初めてという平尾正晃を起用した。殺しのシーンには勇壮さではなく美しく哀愁のただよう音楽を使うことで効果をあげたのである。殺しのシーンに女性的な感傷をイメージさせることに成功したのだ。武器も梅安の針などバラエティに富んだものを工夫した。「必殺仕掛人」の誕生である。
 「仕掛人」は大ヒットした。会社は第2作を要求する。今度はヒットして当然という認識になる。「困った、やめたい」と山内さんは悩んだが、そこはサラリーマンの辛さで断われない。それならば、サラリーマンの悲哀を感じさせる人物を主人公にすえてはどうか。こうして生まれたのが中村主水である。家庭では妻と姑に「種無しカボチャ」といびられ、職場では上司に「昼行灯」と嫌味を言われる。しかし、裏の世界では一転して実力を見せるのだ。等身大の人物像ということで、藤田まことが起用された。「てなもんや三度笠」のイメージがあり安心感を与えるキャラクターではあるが、山内さんは若い頃の藤田まことにあった暗い印象が主水という人物を出せると考えたのである。映画が売れなくて工藤栄一や深作欣二といった腕利きの監督たちが京都にいたのも幸いであった。彼らは「主水の家庭を持ち込んだら劇の完成度が落ちる」と訴えたが、山内さんは「ラストで日常性に帰る、これがテレビだ」と主張した。
 こうして「必殺」は長期シリーズとなった。これまでの時代劇はチャンバラばかりであったが、「必殺」は陰惨な場面もコミカルな要素を入れて中和するようにした。「必殺仕置人」で念仏の哲が骨を外して殺すシーンをレントゲン映像を使ってコミカルに表現したのがその例である。「テレビの目の高さ」が大切なのだ。映画スターは手の届かない存在であるが、テレビの人気者は視聴者の視線よりも低いくらいでいい。最近は若い女性が浜崎あゆみと同一化したいと整形までする時代である。
 最後に、今後時代劇を見てもらうためにはどうすればよいかという考えを山内さんは示した。ヴァーチャル・リアリティの線をついていけば復活するのでは、とは思うが自分の年齢ではもうできない。30代の頃なら挑戦しているのだが、と悔しそうな表情を見せた。実は、若者の間に劇画の「バガボンド」やゲームの「信長の野望」のような時代物が人気となっているのだ。しかし、時代劇の制作者にはそれがわかっていない……。現代にフィットした感覚の時代劇が作られることを願って、貴重な話は締めくくられた。

(2004年6月15日記)


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